第八章 PORT 20017
湾岸第七埠頭へ向かう車の中で、誰もラジオをつけなかった。
運転しているのはヒカルだった。音央が連絡すると、彼は理由を聞かずに病院裏の駐車場へ現れた。後部座席には澪と莉里、真白、助手席には音央が座った。
「移送名簿は本物か」
ヒカルが前を見たまま聞く。
「病院の内部連絡から確認しました」
真白が答えた。
「六十三人。雨宮颯太も入っている」
「第七埠頭に、医療資材の拠点なんてない」
ヒカルはハンドルを切った。
「あるのは税関の保税倉庫と、旧海底ケーブルの陸揚げ施設だけだ」
「海は入口じゃない」
澪が呟いた。
「兄は、そう言っていた」
「入口は海じゃない。海底ケーブルだ」
ヒカルの声が変わった。
「眠りの港。ポート20017。あれはネットワークの入り口じゃない。人を、物理的な中継点へ運ぶための符号かもしれない」
「なぜ分かる」
音央が聞いた。
ヒカルは答えなかった。
湾岸へ近づくにつれ、道路の両側から建物が減り、空が広くなった。灰色の海の上に、低い雲が垂れ込めている。第七埠頭の手前には、警察車両ではない黒い車が何台も止まっていた。
「ここから歩く」
ヒカルは車をコンテナ置き場の陰へ入れた。
真白が音央の腕をつかむ。
「中へ入っても、患者さんを連れ出せる保証はありません」
「分かっている」
「分かっていません。いま必要なのは、患者さんの所在と状態の確認です。薬も人手もない。無理に接続を切れば、取り返しがつかない」
音央は頷いた。
「確認するだけだ」
それが、自分に言い聞かせる言葉であることは分かっていた。
倉庫の側面には、錆びた非常扉があった。ヒカルは鍵穴を見て、工具を取り出した。
「こういうのも、得意なんだ」
莉里が低く言う。
「必要だった」
「何のために?」
ヒカルは扉を開ける手を止めた。
「姉さんを助けるために」
中は暗かった。
コンテナの間を縫うように、医療用の電源ケーブルが何本も伸びている。遠くから換気装置の低い唸りが聞こえた。ただの貨物倉庫ではない。ここは、明らかに違う目的で用意されたもののようだった。
音央たちは、音を立てないよう奥へ進んだ。
白い簡易ベッドが並ぶ区画に出た。
眠る人間がいた。
一人、二人ではない。透明な隔壁の向こうに、何十人もの患者が横たわっている。
今回移送された六十三人だけでなく、以前からここに集められていた患者たちもいるようだった。
モニターの波形はすべて似ていた。短く三回、長く一回。そのあとに、深い波が続く。
「兄……」
澪の声が漏れた。
奥から三列目。
雨宮颯太がいた。
頬は痩せ、頭には細い電極がいくつも貼られている。
澪が隔壁へ駆け寄る。
「お兄ちゃん」
音央が止める前に、颯太のモニターが跳ねた。
短く三回。長く一回。
そして、颯太の目が開いた。
「澪?」
隔壁越しの声は、ほとんど聞き取れなかった。
「ここにいる。お兄ちゃん、連れて帰る」
颯太は首をわずかに振った。
「まだ、だめだ」
「どうして」
「鍵が……違う」
警報が鳴った。
赤い光が倉庫を走る。
「侵入者を検知」
合成音声が響く。
ヒカルが音央の腕を引いた。
「戻るぞ」
「颯太がいる!」
「今は連れ出せない」
「見捨てるのか」
「見捨てないために言っている!」
その叫びに、音央は動きを止めた。
ヒカルの目は、怒っていた。
音央にではない。何年も前から、何もできなかった自分に向けるような怒りだった。
「ここの電源を落とせば、患者は死ぬかもしれない。連れ出しても、薬が足りない。帰還させる経路を作らなければ、ただ眠る場所が棺桶の中に変わるだけだ」
足音が近づく。
澪は隔壁へ手をついたまま、泣いていた。颯太の目はすでに閉じている。
「行くよ」
莉里が澪の肩を抱いた。
五人は来た道を戻った。非常扉の外へ出た瞬間、背後で男の声が飛んだ。
「止まれ!」
ヒカルが音央を押し、コンテナの影へ走らせた。雨が強くなっている。足元の水たまりに、赤い警報灯が揺れていた。
なんとか車へ戻り、倉庫街を抜けたあとも、誰もしばらく話せなかった。
澪は後部座席で、兄の名を何度も小さく呼んでいた。
「鍵が違うって、どういう意味だ」
音央が聞いた。
ヒカルは車を止めた。
雨のフロントガラスを、ワイパーが一定の速度で横切る。
「ゼニスには、出口がある」
「知っているのか」
「全部じゃない」
「前からそればかりだ」
音央の声が荒くなる。
「全部知らないなら、何を知っている」
ヒカルはハンドルを握ったまま、長く息を吐いた。
「俺は、未来戦略室に情報を渡した」
車内が静かになった。
「何を」
「姉さんの病状。ゲームのコアに残った設計師のコード。音央がGMとして持っている権限の一部」
音央の拳が動いた。
ヒカルは避けなかった。
「なぜだ」
「薬と、ゼニスの資料を手に入れるためだ」
「光を売ったのか」
「売ったわけじゃない」
ヒカルは、はっきり言った。
「姉さんを助ける手段があるなら、何でもする。あいつらは、光だけ目覚める可能性があると言った」
「御厨の言っていたことか」
「だから取引だと分かった」
ヒカルの声が低くなる。
「でも、出口の話は嘘じゃなかった。光だけなら戻せる経路がある。俺はその設計図を手に入れた」
「ほかの患者は」
「今は無理だ」
澪が顔を上げた。
「そんなの、出口じゃない」
ヒカルは、何も言わなかった。
音央は窓の外を見た。港のほうには、まだ赤い灯りが見える。
光を救う手段。
それは、音央がずっと欲しかったもののはずだった。
手を伸ばせば届く。
その代わり、颯太も、六十三人も、まだ見ぬ数多の患者たちも救われない。
「その設計図を見せろ」
音央は言った。
ヒカルは、ゆっくりと頷いた。
車は雨の中を走り続けた。
ヒカルが持っていた設計図には、解除先が一つしかなかった。
倉城光。
しかも解除の瞬間、他の接続者の経路を閉じる仕様になっていた。
救出用ではなく、ゼニスが例外を処理するための非常口だった。ヒカルはそれを三年間、希望だと思い込んできた。
誰も、どこへ帰るのかは言わなかった。




