第九章 ゼニスの真実
ヒカルが盗んだ設計図は、紙一枚に収まるようなものではなかった。
それはゼニス全体の設計ではなく、光だけを帰還させるための例外処理だった。ゲームのコアに残った設計師のコードを、現実の光の脳波へ重ねる。二つの光を一度だけ同期させ、ほかの接続を閉じる。
名前は、リライズ・パス。
リライズ・パスとは、沈んだ意識を現実の身体へ「再び立ち上げる」ための一回限りの帰還経路である。ただしこの設計は、複数の人を救う道ではない。光だけを例外として抜き出し、残った接続を閉じるために作られていた。
「これを使えば、姉さんは目覚める」
ヒカルは画面を見たまま言った。
「ただし、設計師のコードは消える。ゲームに残っている光の痕跡も、たぶん」
「現実の光は助かるのか」
「そのはずだ」
「ほかの患者は」
「……ゼニスに残ったままだ」
誰も、しばらく何も言わなかった。
真白が画面を拡大した。
「この経路は、患者本人の意思を確認しないのですね」
ヒカルは頷きながら答える。
「意識が戻る前に、強制的に切る」
「それでも、安全性は高い?」
「光だけなら」
光だけなら。
音央は、その言葉が嫌だった。
愛している一人だけのために、他のどのような犠牲も厭わないのだと。
だが、それを選んだ瞬間に、颯太や澪、病室で眠り続ける見知らぬ人々や彼らの目覚めを待つ家族や友人の想いを、踏み躙ってしまう。
「今は使えない」
音央が言った。
ヒカルは反論せず、そっと設計図を閉じた。
「そうだろうな」
その夜、音央は一人で《ファンタズマル・アイランド》へ入った。
誰かと相談すれば、答えが出るわけではない。だが、光の残滓には聞かなければならないと思った。
コア領域の白さは、以前より薄くなっていた。
空間の端に、無数の細いひびが走っている。ひびの奥には、星ではない光が見えた。近づくと、それぞれが人の形をしていることが分かる。
「ヒカリ」
白い光の向こうから、彼女が現れた。
「知ってる」
音央が何か言う前に、光は言った。
「ヒカルが、出口を見つけたのでしょう」
「見えているのか」
「全部じゃないけどね。ここに、流れ込んでくるものがあるから」
光は、ひびの一つへ手を伸ばした。
「この人たちも、ずっと何かを見せられている」
「未来か」
「未来の形をしたもの」
ひびの奥の光が、一つだけ強く瞬いた。
音央の視界が変わる。
駅前の交差点。救急車。倒れた人。音央自身が立っている。手には、光だけを救う設計図がある。遠くでは、莉里が電話をしている。彼女の声は届かない。
次の瞬間、場面が変わる。
同じ交差点。音央は設計図を破っている。救急車は来ない。人々が逃げ惑う。空が赤い。
さらに場面が変わる。
光が病室で目を覚ます。音央は笑っている。だが、その背後のモニターには、颯太たちの波形が一つずつ消えていく。
「やめろ」
音央は叫んだ。
白い空間に戻った。
光が、少し悲しそうに立っている。
「ゼニスは、こういう存在なの」
「予測じゃないのか」
「うん」
「選ばせようとしているのか」
光は頷いた。
「未来を見せると、人はそれに合わせて動くでしょう? 怖い未来を見せれば避けようとする。救われる未来を見せれば、そこへ行こうとする。そうすると、予測は少しずつ本当になっていく」
「ゼニスは未来を予見しているわけじゃない。未来を作り出しているのか」
「たぶん」
でも、ゼニスはその天災へ人を近づけている。
「颯太の言葉は、それか」
「選ぶな」
光は小さく繰り返した。
「誰かが示した提示から、安易に選ばないで」
ログが大きく揺れた。
【External synchronization detected】
光の姿が一瞬、乱れる。
「戻って」
「何があった」
「現実で何か起こってる」
音央はヘッドセットを外した。
携帯電話には、莉里からの着信が何度も残っていた。
「どうした」
『病院にいる。来て』
彼女の声は、ひどく落ち着いていた。
落ち着いている声ほど、怖いものはない。
音央が駆けつけると、莉里は真白の診察室にいた。手首に簡易センサーが巻かれている。澪が隣で、黙って座っていた。
「何だ」
真白が、画面を見せた。
莉里の脳波に、短く三回、長く一回の反応が出ている。
「一時的なものかもしれません」
真白は慎重に言った。
「でも、適合脳波に近い」
「私、K-セル入りの端末を使っていたみたい」
莉里が言った。
「研究室のVR装置。実験で使ってたの」
音央は、彼女の手首のセンサーを見た。
「もう使うな」
「使ってない」
「端末を全部捨てろ」
「音央」
「病院にも来るな」
「待って」
莉里の声が、初めて強くなった。
「私のことを、勝手に決めないで」
音央は言葉を失った。
「怖いよ。眠りたくない。でも、だからって何も解決しないまま、みんなと離れるのはもっと嫌」
真白が、静かに二人を見た。
「とりあえず、ここで経過を見ましょう」
音央は、ゆっくりと頷いた。
「悪かった」
莉里はすぐには答えなかった。
窓の外で、夜の救急車が走っていく。
ゼニスは、まだどこかで未来を見せている。
その未来の中に、莉里の眠る姿があるのかもしれない。
音央は初めて、自分が誰かを救うために、同じように誰かの選択を奪いかけていることを知った。




