第十章 管理者の手
莉里は三日間、大学へ行かなかった。
真白の指示で、毎朝と夜に脳波を測る。K-セルが入った可能性のある端末はすべて研究室から隔離された。生活の中から危険を一つずつ取り除く作業は、思いの他多かった。
スマートフォンの表示補助。
駅の案内板。
病院のリハビリ端末。
自動車の運転支援。
K-セルは、あまりにも多くの場所にあった。
「逃げ場がないみたい」
莉里は病院の屋上で言った。
春の風は冷たく、フェンスの向こうに街が広がっている。あのどこかに、同じチップを使う人々がいる。何も知らずに画面を見て、仕事をして、家へ帰っている。
「まだ完全に発症したわけじゃない」
「分かってる」
「真白先生も、経過を見れば……」
「音央」
莉里は途中で遮った。
「大丈夫って言わないで」
音央は口を閉じた。
「大丈夫じゃないから、調べてるんでしょ」
「……そうだ」
「だったら、怖いって言ってくれたほうがいい」
彼女の声は、責めるというよりは疲れ果てた口調だった。
「私も怖い。眠っているあいだに、誰かが勝手に私の脳を使うのが怖い。でも、怖いからって、何も決められない人にはなりたくない」
音央は、フェンスへ目を向けた。
「俺は、お前を使わせない」
「それを決めるのは、音央じゃない」
まっすぐな言葉だった。
その夜、莉里の脳波は悪化した。
短く三回、長く一回。その反応は四十七秒間では終わらず、二分を超えた。真白が連絡を受けて駆けつけたとき、莉里は病室のベッドで眠っていた。
「莉里が起きないんです」
澪が言った。
「呼吸は安定しています」
真白はモニターを見た。
「でも、外部同期が始まっています」
音央は、画面の波を見つめた。
同じ形。
光の波。颯太の波。ゼニスに繋がった者たちの波。
「何をすればいい」
「薬は使えません。接続の深さが分からない」
「待つのか」
「今はそれしかないです」
音央の端末が震えた。
《ファンタズマル・アイランド》の管理アプリから通知が来ている。
【External synchronization: new subject detected】
その下に、識別子。
Z-208
何かの番号。
音央はヘッドセットを掴んだ。
「どこへ行くのですか」
真白が止める。
「手がかりがある」
「ゲームの中に?」
「光がいる。そして多分莉里も」
説明している時間はなかった。
接続した瞬間、黒猫の身体が白いコア領域へ落ちた。
空間は以前より大きくひび割れていた。無数の光の向こうに、新しい小さな光がある。震えながら、ひびの奥へ引かれていく。
「莉里!」
返事はない。
音央は《ジャンプ》を使おうとした。だが、ひびの向こうは座標として認識できない。ここはゲームの領域ではない。ゼニスの側だ。
それでも、GM権限には一つだけ手が残っていた。
存在を固定する力。
光が、白い空間の奥から現れた。
「待って」
「莉里が連れていかれる」
「分かってる」
「止める」
「どうやって?」
音央は管理画面を開いた。
対象識別子、Z-208。
そこに、かすかに表示される選択肢があった。
【Emergency Administrative Override】
Target connection: suspend
【Are you sure you want to use master magic <Pandora's Box>?】
パンドラボックス。
対象をゲームから除外するマスター魔法の一つ。
指が止まる。
押せば、莉里の接続は途切れるかもしれない。
救えるかもしれない。
同時に、彼女が何を望むかを確かめる前に、音央が決めることになる。
「音央」
光の声がした。
「時間がない」
「だが……」
「分かってる。でも、その手は誰のためにあるの?」
白い光の向こうで、莉里の光が一度大きく揺れた。
音央は目を閉じた。
現実の莉里は、屋上で言った。
私のことを、勝手に決めないで。
「……悪い」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
音央は選択肢を押した。
【Connection suspended】
ひびが、音もなく閉じた。
莉里の光は、白い空間へ落ちた。
音央が現実へ戻ると、病室のモニターがけたたましく鳴っていた。
真白が莉里の名前を呼ぶ。
莉里は大きく息を吸い、目を開けた。
「……音央?」
「聞こえるか」
「うん」
助かった。
その事実だけが、すべてだった。
翌朝、莉里はベッドの上で音央から話を聞いた。
黙っていればよかったかもしれない。けれど、黙ればまた、彼女の機嫌を損なうだろう。
「接続を切った」
「あなたが?」
「俺が」
莉里はしばらく黙っていた。
「夢を見てた」
やがて言った。
「私が、白い部屋にいた。向こうに扉があって、開けたらいけない気がした。でも、誰かがロックした」
音央は何も言えなかった。
「怖かったよ」
莉里は続けた。
「でも、ロックして欲しいとは言ってないんだけど」
その言葉は、怒鳴り声よりも重く残った。
「悪かった」
「謝ってほしいんじゃない」
莉里は音央を見た。
「御厨は、みんなを守るためだって言う。音央も、私を守るためだって言う。他人が、同じように私の未来を決めるなら、何が違うの」
音央は、少し間をおいて話し始めた。
「そうだな。俺は御厨と同じことをした」
莉里はただ見つめている。
「でも、後悔はしていない」
真白が窓際に置かれた古いファイルを手に取った。
「違いを作るヒントは、ここにあります」
そこには、光の開発資料のコピーがあった。共同設計師であるヒカルが以前から保管していたものだ。
「倉城さんの奥様は、GMについて書いています」
真白が一頁を開く。
そこには、光の手書きで一文だけあった。
管理者は、選ぶためにいるのではない。選べる状態を守るためにいる。
音央は、その文字を見た。
ずっと前に光が書いた言葉が、いま初めて自分へ向けられたように思えた。
救うことは、代わりに決めることではない。
資料の余白には、光が開発初期から大事にしていた二つの単語も書かれていた。CODEは世界を動かす規則、CHORDは異なる音が重なって生まれる和音。規則が一つの声だけを通せば支配になる。和音なら、違う声が残ったまま一つの方向へ進める。
音央はその意味を、まだ完全にはつかめなかった。




