第十一章 光だけの出口
リライズ・パスの起動条件は、三つだった。
第一に、現実の光へ帰還補助薬を投与すること。
第二に、《ファンタズマル・アイランド》のコアにある設計師のコードへ、音央がGM権限で接続すること。
第三に、ゼニス側の認証鍵を使い、光だけを接続対象から外すこと。
「認証鍵はどこにある」
音央が問うと、ヒカルは答えなかった。
「お前が持ってるのか」
「半分だけ」
「もう半分は」
「御厨」
病院近くのレンタルオフィスに、夜の明かりが残っていた。真白は薬剤の資料を整理し、澪は颯太の録音を何度も波形にしている。莉里はまだ自宅安静だったが、オンラインで画面の向こうにいた。
「じゃあ、結局できないじゃない」
莉里が言った。
「できる」
ヒカルは、テーブルの中央へ小型端末を置いた。
「御厨は、鍵を渡す気がある。条件を飲めるのなら」
音央の顔が冷たくなる。
「また取引するのか」
「今度は、俺一人じゃない」
「何を渡す」
「ゲームのコアへの正規アクセス」
「駄目だ」
音央は即答した。
「あそこに触らせない」
「触らせなければ、姉さんは戻らないかもしれない」
「戻っても、他の人はどうなる」
「それが何だ」
ヒカルの声が、初めて荒くなった。
部屋が静かになる。
「姉さんは三年眠っている。音央、お前は毎日そばにいて待てるのかもしれない。でも俺は、姉さんが目を開ける可能性を目の前に置かれて、手を放せと言われても手放せない」
「手を放せとは言ってない」
「同じだ」
ヒカルは机を叩きそうになり、寸前で手を止めた。
「俺が前に間違えたことはわかってる。力があれば、金があれば、姉さんを助けられると思った。だからパーフェクト・コードを欲しがった。今度は違う。これは実際に、姉さんを取り戻せる鍵なんだ」
「他の誰かを置き去りにしてもか」
「その誰かを助ける鍵が、今はない」
澪が、静かに立ち上がった。
「あります」
全員が彼女を見る。
「お兄ちゃんが言ってた。鍵が違うって」
澪は、颯太の録音を開いた。
「光さんだけを帰す鍵じゃない。お兄ちゃんたちは、別の鍵を待ってる。たぶん、戻るための鍵を」
「それはどこにある」
「分からない。でも、ないって決めていいんですか」
ヒカルは答えなかった。
その夜、音央は光の病室へ行った。
面会時間は終わっていたが、真白が黙って鍵を開けた。薄暗い部屋で、光は変わらず眠っている。モニターの数字は安定していた。
安定。
眠り続けることを、そう呼ぶのは正しいことなのだろうか。
「出口がある」
音央は椅子へ座った。
「お前だけなら、帰れるかもしれない」
光の手は温かい。
「俺も、本当は使いたい」
言葉にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
「使って、起こしたい。お前が起きて、また何でもないことで笑って、朝の光を一緒に見たい」
窓の外には、夜しかなかった。
「でも、それでいいのか」
音央は、光の指を握った。
「俺が決めたら、また同じになる。お前のことを、お前の意思より先に決めることになる」
そのとき、光の指がかすかに動いた。
偶然かもしれない。
それでも音央は、息を止めた。
モニターが短く三回、長く一回、鳴った。
音央の携帯電話に、ゲームのログが届く。
「来て」
コア領域で、光は白い床に座っていた。
いつも立っている彼女が、今日はどこか疲れたように見える。
「音央」
「出口のこと、知ってるのか」
「うん」
「使えば、お前を起こせるかもしれない」
「かもしれない、でしょう」
「ヒカルはそう言ってる」
「ヒカルはそういうだろうね」
光は少しだけ笑った。
「助ける方法があるなら、誰より早く掴もうとする。優しいから。でも、優しい人ほど、怖いときに急ぐんだよ」
「俺も急いでいる」
「うん」
光は、白いひびの奥を見た。
遠くに無数の光がある。
ファンタズマル・アイランドがゼニスに直接影響を与えている。
それは光という特別な存在がピグマリオン病となったことで、ゼニスに干渉できるようになったおかげだ。
「ここにいる人たちの中には、帰りたくない人もいるかもしれない。帰る理由を忘れた人もいる。でも、それを私たちが勝手に決めていいとは思わない」
「お前は、どうしたい」
光は、すぐに答えなかった。
「帰りたい」
音央は顔を上げた。
「帰りたいよ。音央のいるところへ」
光の声は、震えていた。
「でも、私だけが帰るために、ほかの人の出口を失いたくない」
白い空間に、静かなノイズが走る。
「だから、探して」
「何を」
「みんなの出口を」
音央は、目を閉じた。
答えは、苦しいほど明確だった。
ゲームから戻ると、ヒカルが病室の外にいた。
音央は、何も言わずに彼の横を通り過ぎようとした。
「使わないのか」
ヒカルが聞く。
「使わない」
「姉さんがそう言ったのか」
「いや、俺がそう決めただけだ」
ヒカルは壁を見たまま、しばらく動かなかった。
「ずるいな」
「何が」
「姉さんは、いつも人に決定を委ねるんだ」
その声は笑っていたが、泣いているようにも聞こえた。
「それが姉さんの良いところでもあるんだけど」
ヒカルはポケットから、小さな記憶媒体を取り出した。
「これを使うのは、全員の出口を見つけたときだけだ」
「見つかると思うか」
「見つける。見つけるしかない」
ヒカルは言った。
「今度こそ、俺は間違わない」
病室の扉の向こうで、モニターが一定のリズムを刻んでいる。
眠る光と、眠る誰かたちが、同じ深い場所にいる。
音央たちは、まだ名前のない出口を探し始めた。




