第六章 未来戦略室
光の移送は、その夜には行われなかった。
真白が病院の倫理委員会と院長を巻き込み、緊急移送の根拠を文書で示すよう要求したからだった。内閣情報統合局を名乗る男たちは、書面を残さずに引いた。
だが、ただ引いたのではない。
次の手を選んだだけだと、音央には分かった。
翌朝、病院の受付で封筒を渡された。
宛名は倉城音央。差出人は、内閣情報統合局・未来戦略室・室長・御厨圭介。
中には、面会要請の日時と場所だけが書かれていた。
場所は、官庁街にある名もない庁舎だった。
「行くの?」
莉里が尋ねた。
「ああ」
「一人で?」
「向こうは俺に用がある」
「だからって一人で行くのは危ないんじゃない」
音央は答えず、封筒を折りたたんだ。
真白が言った。
「私も行きます。患者の担当医として」
「呼ばれてない」
「呼ばれていなくても、医師として行くのです」
音央は、その言い方に何かひっかかるものを感じた。
「それだけか」
真白は一瞬、答えに迷った。
「研修医の頃、カルテの入力を一つ誤って、担当患者を一人失いました。誰かの人生を、書類の外側で決めるのが、今でも怖いのです」
それ以上は、彼女も語らなかった。
ヒカルは病室の外の廊下で、壁にもたれていた。
「御厨圭介がお出ましなら、俺も着いて行く」
「知っているのか」
「顔と名前だけだ。会ったことはない」
「なら、なおさら来るな」
「お前に言われる筋合いはない」
互いに睨み合ったあと、莉里がため息をついた。
「全員で行こうよ。向こうが話をする気なら、こっちも聞く人間は多いほうがいいでしょ」
庁舎は、地図に名称が表示されない建物だった。
警備員に封筒を見せると、身分証の提示もなく通された。窓のない廊下を二度曲がり、案内役の女性に従って地下へ降りる。携帯電話は預けるよう求められたが、それを拒否した。
会議室の壁一面は、巨大な画面になっていた。
そこに、日本地図が映っている。
色の濃淡が海岸線から都市部へ広がり、数字が絶えず変化していた。交通量。気温。病床数。為替。降雨量。避難所の備蓄。画面を見ていると、国全体が一つの生き物の内臓のように思えてくる。
「倉城音央さん。お待ちしておりました」
男が立ち上がった。
五十代後半に見えた。髪は短く整えられ、紺色のスーツには皺がない。目元に柔らかい線があるのに、こちらを見る視線だけは、何かを測るように鋭かった。
「未来戦略室長の御厨圭介です」
「光の移送を命じたのは、お前か」
「移送を検討したのは、私たちです」
「同じだ」
「違います。検討と実行の間には、一定の手続きがあります」
御厨は真白へ視線を向けた。
「新堂先生が、手続きの障害になりました。その結果、今回は実行を断念しました」
「次はそう簡単にはいかないのでしょうね」
真白が言った。
「もちろん、必要であれば力づくでも実行します」
御厨は否定しなかった。
「私はあまり事を荒立てたくはないのです」
画面の地図が拡大される。首都圏、沿岸部、山間の送電線。赤い線がいくつも走った。
「七十二日後、この国は大きな選択を迫られます」
御厨の声は静かだった。
「海溝型地震の発生確率が上がっている。同時に、送電網への大規模な侵入の兆候がある。停電、通信障害、物流の停滞。そこへ台風の進路まで重なる可能性がある」
「ノストラダムスにでもなるつもりか」
ヒカルが言った。
「予言ではありません。予測です」
御厨は画面の右下を操作した。
地図が消える。
代わりに、無数の波形が現れた。
見覚えがあった。
光のモニターに映る波形。短く三回、長く一回。その波が、何百本も、緩やかに重なっている。
「特定の脳波長をもつ人の脳を利用し、相互接続したニューロンネットワークによる巨大なバイオコンピューターシステム」
「それが、ゼニスです」
音央は、息を吐いた。
「人の脳を使って、国の未来を? 馬鹿馬鹿しい」
「人間社会は、AIだけでは予測できません」
御厨は言った。
「災害時、人は合理的に避難しない。家族を探し、他人を助け、誤情報を信じ、時に危険へ戻る。善意も恐怖も、社会を動かす。ゼニスは、その不確実性を含めて未来を読む」
「眠っている患者を使って」
「正確には患者ではありません」
御厨の声が、初めて少しだけ硬くなった。
「彼らは、国家の協力者なのです」
「同意したの?」
莉里が尋ねた。
御厨は答えなかった。
音央が告げる。
「それが答えってことか」
「私は、彼らが犠牲になっていることを否定しません」
御厨は正面から言った。
「ですが、七十二日後に起こる事態で失われる命もまた代え難いのです」
音央は、画面上の無数の波を見た。
「だから、少数は眠ったままでいいと?」
「全員を救えるなら、それが理想です」
「救う方法があるのか」
御厨は、少し間を置いた。
「倉城光さんには、特別な可能性があります」
音央の肩が動く。
「どういう意味だ」
「ファンタズマル・アイランド」
「何だって」
「光さんが作られたそのゲームのネットワークがゼニスのニューラルネットワークと一部融合しているようなのです」
音央は黙って御厨の言葉を促す。
「奥様の脳波――意識と言った方がわかりやすいかもしれません――は、ゼニスの通常経路とは異なる場所に漂っているのです。あなたが管理するゲームも、今やゼニスの重要な接続点になっているのです」
「ゲームに触れるな」
「触れたいのではありません」
御厨は言った。
「使わせていただきたい」
「同じだ」
音央の声は低かった。
「お前たちは、何でも使おうとしている。人も、ゲームも、未来さえも」
御厨はしばらく黙っていた。
「奥様だけを帰還させる経路を、私たちは用意できます」
空気が止まった。
ヒカルが顔を上げる。真白は、手元の資料を強く握った。莉里は音央を見た。
「条件は」
音央が聞く。
「ゼニスの継続運用です。我々も長い時間と国家予算をかけて適合者を探しシステムを構築してきた。今、その数が減るのは非常に問題なのです。そしてゼニスのことについては忘れていただきたい」
「そうやって、特定の人間だけをシステムから解放してきたのか。金を積んだものや、重要人物だけを」
「ご想像にお任せいたします」
「光だけを目覚めさせて、他の患者は諦めろと言うのか」
「奥様を愛しているのなら」
「愛しているから、残せない」
御厨の目が、ほんのわずかに揺れた。
「あなたは、立派な人だ」
「違う」
音央は言った。
「俺は我儘なんだ」
会議室を出るとき、御厨は背後から言った。
「倉城さん。あなたは、選ばないという選択ができると思っている」
音央は振り向かなかった。
「しかし天災は、選ばない人間にも選択を迫ります」
庁舎の外に出ると、空は晴れていた。
それでも音央には、どこかで雨が降り始めているように思えた。




