第五章 眠りの港
新堂真白は、音央が持ち込んだバイアル瓶を見て、表情を失った。
病院の研究棟は夜間、外来棟よりさらに静かだった。音央は正規の面会者としてではなく、真白に呼ばれた「資料の確認協力者」として裏口から入った。莉里と澪も一緒だった。
「どこで手に入れたのですか」
「答える前に、何の薬か教えてくれ」
真白はバイアル瓶を光へかざした。琥珀色の液体が、細く揺れる。
「ニューロ・リターン。研究段階の試薬です」
「帰還補助薬」
音央が言うと、真白の目が上がった。
「その言葉を、誰から」
「ヒカル」
「倉城さんの義弟?」
「信用できるか分からない」
「でも、薬の情報については間違っていません」
真白は椅子に座り、タブレットを開いた。
「人間の意識を装置もなしに外部ネットワークへ接続するなんて、医学的には認められていません。ただ、ピグマリオン病の患者には、昏睡と呼ぶにはおかしな特徴がある。脳は休んでいない。むしろ、特定のネットワークを処理しているときのように活動している」
「戻すと壊れる?」
「急に接続が切れれば。脳はずっと、身体の外にある何かを自分の一部として扱っている。そこを一度に失えば、神経系が混乱する。この薬は、その反動を抑えるものだと噂に聞きました」
「じゃあ、薬を使えば」
「接続を安全に切れるなら、です」
真白の口調は、期待を持たせないために固かった。
「薬は、どれだけありますか」
澪が尋ねた。
「病院にはありません」
「でも、これはある」
「それが問題です」
真白はバイアル瓶を机へ戻した。
「この薬は、出所が不明で使用方法も一部の人間しか知らされていない代物なのです」
「なぜ、特効薬があるのに隠されているの」
莉里の声には怒りが混じった。
「限られた人だけのものってこと?」
音央は、ヒカルの言葉を思い出した。
患者を目覚めさせる気がある人間だという意思表示。
真白は研究室の奥にある小型の解析装置を指した。
「K-セルを見せてください」
雨宮颯太の部屋で見つけた半分のチップを、莉里が差し出した。真白はピンセットで受け取り、静電防止のケースへ入れた。
「壊れているので、完全な解析はできません。ただ、通信層の残りなら見えるかもしれない」
装置が低く唸り始める。
画面には、薄い線が何層も現れた。映像補正、視線補助、生体信号の解析。見慣れない文字列が流れ、真白の目が一つの箇所で止まる。
「ここです」
最下層に、規格外の回路が埋め込まれていた。
「これ、通信部では?」
莉里が言った。
「そう見えます。でも、一般の無線規格じゃない。端末から直接どこかへ送るのではなく、近くの通信環境に紛れて、少しずつ信号を渡している」
澪は画面を睨んだ。
「名前は」
真白が該当箇所を拡大する。
誰かが、開発用の注釈を残していた。
SLEEPING HARBOR / PORT 20017
「眠りの港」
莉里が読み上げた。
音央は、颯太の声を思い出す。
海は入口じゃない。
港なら、出入りする場所だ。
「ポート20017」
真白は画面を操作した。
「一般には使われないポート番号です。けれど、病院内の機器通信に、同じポートを使う記録がある」
「どこへつながる」
「ここから先は暗号化されているようです。暗号鍵が必要です」
そのとき、研究室の照明が一度だけ落ちた。
全員が黙る。
すぐに非常灯が点いた。赤い光が部屋を薄く染める。
「停電?」
澪が言った。
「違う」
真白は端末を見た。解析画面が黒くなり、白い文字が一行だけ浮かんでいる。
Unauthorized analysis detected.
莉里が息を呑んだ。
「誰かに見られてる」
「ネットワークを切ります」
真白が電源へ手を伸ばした。
だが、次の文字が現れた。
Patient KURASHIRO HIKARI: transfer priority updated.
音央は画面へ近づいた。
「移送?」
真白の顔が青ざめた。
「光さんを、どこかへ移す気です」
音央は研究室を飛び出した。
病棟へ向かう廊下は、非常灯の赤だけが点いている。エレベーターは停止していた。階段を駆け上がる。足音が響くたび、遅すぎるという思いが胸を叩いた。
光の病室の前には、見知らぬ男が二人いた。
音央を見ると、一人が前へ出る。
「倉城音央さんですね」
「誰だ」
「内閣情報統合局から参りました。奥様は、より専門的な施設で診る必要があります」
「俺は同意していない」
「緊急措置です」
「何の緊急だ」
「奥様の症状は、国家レベルの医療対応を要します」
言葉だけは丁寧だった。
音央は病室の扉を見た。奥で、光のモニターが規則正しく鳴っている。その音が、急に遠く感じた。
「連れていかせない」
「ご家族の感情は理解しています」
「理解してない」
音央は一歩前へ出た。
男の表情は変わらなかった。
「光さんは、重要な協力者なのです」
病室の中で、光の脳波モニターが跳ね上がっていた。
短く三回。
長く一回。
午前零時十分ではない。
それでも、同じ信号だった。
モニターの画面に、見覚えのない文字が走る。
PORT 20017: CONNECTION REQUESTED
光の指が、ほんの少し動いた。




