第四章 ZENITH
湾岸の倉庫街は、夜になると海に近いことだけが分かった。
潮の匂いが古い鉄と油の匂いに混じっていた。コンテナを積んだ無人のヤードの向こうで、貨物船の警笛が一度だけ鳴る。音央は、送られてきた地図のピンを見ながら歩いた。
莉里と澪には知らせていない。
これは個人的な話だ。
指定された倉庫のシャッターは半分だけ開いていた。中に灯りはない。入ると、奥から男の声がした。
「一人か」
「ああ」
倉城ヒカルは、机代わりの木箱のそばに立っていた。
かつてゲーム内で見せた頑なな面影を残していた。ただし、現実の彼はずっと細く、ずっと疲れて見える。短い髪は伸び、無精ひげが顎に残っていた。机の上にはノートパソコンと紙の束、小さな保冷ケースが置かれている。
「光は」
「変わらない」
「そうか」
ヒカルは目を伏せた。ほんの一瞬だった。
「K-セルを見つけたんだな」
「お前は、いつから知っていた」
「半年前。パーフェクト・コードを失ってしばらくしてからだ」
パーフェクト・コード。
かつてヒカルが求め、音央がその目の前で消し去った究極のプログラム。
ヒカルは、今でも光の目覚めを諦めずに何かをしていたというのか。
ヒカルは保冷ケースを開けた。中には小さなバイアル瓶が並んでいる。淡い琥珀色の液体。ラベルには製品名も製造番号もない。
「これが、ピグマリオン病の治療薬だ」
音央は近づかなかった。
「そんな簡単に治るものじゃない、だろ?」
「そうだな」
ヒカルはあっさり認めた。
「少なくとも、これだけでは治らない」
「前に、お前は言った。力や金があれば光を治せるって」
「そう思っていた」
ヒカルの声に、苛立ちより先に疲労があった。
「薬を買えばいい。薬が足りないなら奪えばいい。あのときは、それだけだと思っていた。だから、危ない手段に頼ろうとした」
かつてヒカルは全権限を得て全ネットワークを制御するプログラム【パーフェクト・コード】を追い求めた。彼はそれを売り、莫大な金を得て、姉を救おうとして失敗したのだ。
音央は忘れていない。
「俺は、間違っていた」
ヒカルはバイアル瓶を見つめながらそう言った。
「これは、帰還補助薬だ。接続を切るときに、脳の神経活動が一気に跳ね上がる。それを抑えて、身体に戻ってくるための薬。目を覚まさせる薬じゃない。戻る肉体を壊さないための薬だ」
「接続って何だ」
「K-セルの向こう側だ」
ヒカルはパソコンを開いた。
画面には、複数の端末を結ぶ線が表示されていた。家庭用ヘッドセット、医療機器、会議用のゴーグル。異なる製品の図面が、すべて中央の黒い円へつながっている。
「表向き、K-セルは映像補正用のチップだ。実際、その機能もある。だが特定ロットには、もう一層、通信機能が埋め込まれている」
「誰が仕込んだんだ」
「東亜量子素子じゃない。あそこは作らされただけだ」
「なら、誰だ」
ヒカルはすぐに答えなかった。
倉庫の屋根を、雨が細かく叩き始めた。
「内閣情報統合局」
「そんな組織、聞いたことがない」
「公にはできないような組織だ」
音央は、画面中央の黒い円を見た。
「光は、そこにつながっているのか」
「たぶん」
「たぶん?」
「俺は医者じゃない。分かるのは、この薬が普通の患者には絶対に届かない出所から来ていることだけだ」
「どこから手に入れた」
「聞かないほうがいい」
「言え」
音央の声に、ヒカルは苦笑した。
「そういうところ、姉さんに似たな」
「答えろ」
「国立神経統合医療センター」
音央の顔が動いた。
「存在しない施設だ」
「表向きはな」
雨宮颯太を連れ去った男たちが口にした名前。
そのときになって初めて、音央は倉庫の冷たさを感じた。
「ピグマリオン病患者は、そこにいるのか」
「可能性は高い」
「助けられるか」
「今は無理だ」
「なぜ」
「接続を切る方法がない」
ヒカルは画面の黒い円を拡大した。円の下に、かすかな文字が現れる。
ZENITH
「ゼニス。国が作った、巨大な情報処理網だ。ピグマリオン病の患者は、その中で眠っている」
ヒカルによれば、ゼニスは、ピグマリオン病患者を作り出し、それを操るシステムだという。
天頂とはよく言ったものだ。
「何のために」
「未来を計算するためって話だ」
音央は笑いそうになった。
だが、ヒカルの顔は笑っていない。
「人間の脳を使うことで、通常のAIでは成し得ないシステムを作ろうとしている」
「人間を眠らせて」
「眠らせたんじゃない。勝手にチップを介してシステムに接続していった」
その言い方に、音央は拳を握った。
「光を助ける方法は」
「薬を使って、ゼニスから切る。それだけだ」
「薬だけでは無理だとさっき言ったろ」
「だから探してる」
ヒカルは、声を荒げなかった。
「俺は、姉さんを助けるために、最初に間違ったものへ手を伸ばしてしまった」
沈黙が落ちた。
倉庫の外で、車のブレーキ音がした。
ヒカルの顔が変わる。
「もう行け」
「何だ」
「尾をつけられたかもしれない」
「お前が?」
「お前がだ」
シャッターの隙間に、白い光が差した。ヘッドライトだった。
音央はバイアル瓶を見た。
「持っていけ」
ヒカルが一本を投げる。
「それが何の役にも立たないとしても、姉さんのそばに置いておけ。薬を持ってること自体が、あいつらには意味になる」
「どういう意味だ」
「患者を目覚めさせる気がある人間だって意思表示だ」
次の瞬間、倉庫の正面で硬い音がした。
誰かがシャッターを叩いた。
「中にいる方。警察です。開けてください」
ヒカルは背後の非常口を指した。
「走れ」
「お前は」
「俺は、まだ話を聞かれるだけだ」
「信用できるか」
ヒカルは一瞬だけ笑った。
「できないだろ。だから早く行け」
音央は非常口へ走った。
外は、海から吹く雨で白く霞んでいた。
背後でシャッターが開く音がする。
音央は、掌の中の小さなバイアル瓶を握りしめた。
治療薬。
帰還補助薬。
光を目覚めさせるための鍵の一つ。




