第二章 四十七秒の海
病院の夜間入口には、雨の匂いが残っていた。
音央が着いたとき、病室の前にいた二人の男はいなくなっていた。
看護師たちは「面会者ではないか」と言い、警備員は「職員用通路から出た人は確認できない」と言った。
真白だけが、ナースステーションの端で腕を組んでいた。
「二人とも、病院のIDを持っていませんでした」
「止めなかったのか」
「止めました。けれど、厚生局から来た調査官だと言われた。偽造かどうかを確認している間に、いなくなったんです」
音央は光の病室を見た。
「何を見ていた」
「モニターです。モニターの記録を写真に撮っていました」
「光には触ってない?」
「そこは確認しました。異常はありません」
真白は声を落とした。
「でも、倉城さん。昨日からこの病棟のネットワークに、外部からのアクセスが増えています。患者名を指定しない、奇妙な検索です」
「何を探している」
「それは分かりません」
音央がしばらく考え込んでいる間に、真白は他の患者を診るため病室を出ていった。
いつの間にか雨音が窓を細かく叩いていた。
誰かが外から急かしているようにも聞こえた。
翌日、音央は莉里に連絡した。
時松莉里。《ファンタズマル・アイランド》でかつて一緒に戦った『戦友』。
彼女は都内の有名理科大学の情報処理学部の学生で、大学生活を満喫していた。
指定された店は大学の裏手にある古い喫茶店だった。昼休みの学生たちが窓際の席を埋めている。そのざわめきは、ひそひそ話を隠すにはちょうどよかった。
「Z-031?」
莉里は音央の端末を覗き込んだ。
「ゲームのIDじゃないんだよね」
「管理記録にはない」
「なら、患者番号かも」
「そんなもの、どこで照合する」
「患者会。公開情報だけなら、病院名や発症時期は拾えるかもしれない」
莉里は以前より髪を短くしていた。ゲーム内での『リリィ』の面影を見つけるのは、もう難しい。それでも考え込むとき、指先でテーブルを二度叩く癖は同じだった。
「昨日、病院に変なやつが来た」
音央が言うと、莉里の指が止まった。
「光さんのところに?」
「ああ」
「警察には」
「病院が届けるらしい」
「らしい、ね」
莉里は画面を閉じた。
「音央。今の話、私の先輩に会って話してほしい」
先輩の名前は雨宮澪だった。
待ち合わせた駅前の会議室に現れた彼女は、眠っていない人間の顔をしていた。
眠る人を待ち続け、眠れなくなった人間の顔。
まるで自分のようだと思った。
「兄の名前は、雨宮颯太です」
澪はテーブルへ携帯電話を置く。
「三年前にピグマリオン病を発症しました。昨日、目を覚ましたのです。四十七秒だけ」
音央の手が止まった。
「四十七秒」
「知っているのですか」
「録音、聞かせてください」
澪は一度だけ頷き、再生ボタンを押した。
雑音。浅い呼吸。心電図らしい電子音。
『……選ぶな』
男の声が聞こえた。
音央は、思わず身を乗り出した。
そのあとに、音がある。短く三回。少し間を置いて、長く一回。
光の脳波モニターに出た波と、同じ間隔だった。
『海は、入口じゃない』
録音が終わる。
澪は音央を見た。
「兄は何を言いたかったのでしょう」
「まだ分からない」
「分からないことばかりです。部屋に戻ったら、兄も仕事用の端末も資料も消えていた」
「颯太さんは、何の仕事を?」
「半導体です。映像機器に使う小さな部品の、検証をしていたと聞いています」
音央と莉里が視線を交わす。
「倒れる前に、一度だけ言っていました」
澪は指を握り込んだ。
「部品は、どこにでもある、って」
「お兄さんの家へ行きましょう」
莉里が言った。
「何か手掛かりがあるかも」
雨宮颯太の部屋は、川沿いの古いマンションにあった。
澪が合鍵で開けると、部屋の中は一見、整っていた。机の上の書類は揃えられ、棚の本も倒れていない。
けれど音央には、その整い方が不自然に見えた。
生活していた人間の部屋には、もっと無意味な乱れがある。飲みかけの水。読みかけの本。どこへ置くか決められなかったもの。
ここには、それがなかった。
「掃除されたみたい」
澪がつぶやいた。
「必要なものだけ、持っていった?」
莉里は机の下にしゃがみこんだ。
「でも急いでいた感じ」
床板の隙間に、細い傷がある。引き出しを抜いた跡だった。音央が照明を近づけると、奥に小さな金属片が落ちていた。
半分に割れたチップ。
表面には、肉眼では読めないほど小さな刻印があった。
「これ、何ですか」
澪が尋ねた。
莉里がスマートフォンで拡大する。
「K……セル?」
音央はその名を知らなかった。
だが、割れた部品の裏側には、誰かが油性ペンで書いた文字があった。
Z-031
そして、その下にもう一行。
海を疑え。
窓の外では、川が灰色の空を映していた。
音央は、海は入口ではない、という颯太の声を思い出した。
ならば入口は、どこにある。




