第一章 病室の窓から
倉城音央は、朝の光が嫌いではなかった。
嫌いにならないようにしていた、と言うほうが正確かもしれない。
病室の窓から差し込む光は、毎朝ほとんど同じ角度で床を横切る。白い壁に淡い長方形を作り、その一部が、眠っている光の頬にかかる。
眠る人間の顔は、朝の光を受けると、生きていることを強く主張するように見える。
それが、音央には残酷だった。
「倉城さん」
背後から声がした。
新堂真白は、ベッド脇のモニターを見たまま立っている。白衣の胸ポケットには何本もペンが差してあり、手元のタブレットには付箋が増えすぎていた。若い医師だったが、患者に説明するときだけ、年齢よりずっと慎重な顔をする。
「脳波が、少し変です」
変です、という言い方をする医者は珍しいと、音央は思った。
たいていの医者は、数値か病名か、様子を見ましょうという言葉で不安を包む。
「悪いのですか」
「悪い、とも言い切れません」
真白は画面を指した。穏やかな波形の間に、針で刺したような小さな山がある。
「毎日、同じ時刻にだけ出ています。午前零時十分。持続は四十七秒前後」
音央は画面を見た。
「いつから」
「記録では、八日前からです。投薬内容に変化はありません。発熱も感染もない。ピグマリオン病の患者さんには、外部刺激への同期反応が出ることがありますが……こんなふうに時間まで揃う例は、私は知りません」
「同期反応……」
「音、光、あるいは近くにある医療機器と脳波が同じ周期で揺れるような現象です。因果関係は解明されていません」
ピグマリオン病――正式な病名ではない。
正式名は、特発性脳機能昏睡症。
眠った患者の認知が外部の情報環境を自分の感覚器のように処理し始める症例群につけられた呼び名だった。
これも近年の調査でやっと判明した話だ。数年前までは全く原因不明の昏睡症としか分かっていなかった。
身体は病室にあるのに、脳はどこか別の場所の音や光へ反応する。患者は単に意識を失っているだけではない。現実と切れかけたまま、別の何かと繋がっているのだという。
窓の外では車が走り、街はいつも通り朝を迎えている。その普通さが、かえって不気味だった。
真白は一度、光の顔へ視線を移した。
「ご家族としては、何か心当たりがありますか」
音央は答えなかった。
心当たりがないわけではない。
光はゲームを作った人間だった。正確には、《ファンタズマル・アイランド》という世界へ、自分の思考も癖も、冗談も、必要以上に注ぎ込んだ設計師だった。そして眠りに落ちたあと、彼女の意識の断片は、あり得ない形でゲームのコアに残った。
VRMMORPGは、利用者がアバターを選び、島を歩き、ほかの利用者と物語を作っていく大規模な没入型オンラインゲームだった。
光はその地形や登場人物だけでなく、世界が困っている人をどう扱うかという判断の癖まで設計した「設計師」だった。
彼女の思考を模した運用コードが、事故のあともゲーム中枢に残ったのである。
音央は、そのことを誰にも説明できない。
光の指先を見つめる。動かないことにも、音央は意味を探してしまう。
「夜、何か聞こえるんですか」
真白が尋ねた。
「いや」
「そうですか」
真白はそれ以上追及しなかった。
音央は光の手を取る。骨ばった指先は、温かい。冷たければ、諦める理由になるかもしれない。温かいから、諦められない。
「また記録をください」
「分かりました」
真白が病室を出たあと、音央はしばらく光の横にいた。
「零時十分だって」
返事はない。
「何がある」
窓の外では、救急車がサイレンを鳴らして通り過ぎた。誰かの朝が壊れ、別の誰かの朝が始まる。世の中は、眠っている一人を待ってはくれなかった。
音央はその夜、普段より早く帰宅した。
書斎の壁には、光が撮ったゲーム開発時代の写真が一枚だけ残っている。大勢のスタッフが写っているのに、光は端にいて、カメラではなくモニターのほうを見ていた。
「今でも仕事をしている顔だな」
写真へ言ってから、音央は管理端末を立ち上げた。
《ファンタズマル・アイランド》のサーバーは、かつて起こった暴走事件のあとに大規模な監査を受け、いまは運営会社の厳重な管理下にある。GMである音央も、かつてのようにすべての領域に自由に触れられるわけではない。
GMはゲームマスターの略で、障害時に世界の状態を確認し、利用者を守るための限定権限を持つ管理役だ。音央はゲーム内で巨大な黒猫のアバター「ネオ」を使うため、古い利用者からは半ば冗談で「マスターネオ」と呼ばれていた。
音央は、ゲームの管理ログを確認する。
午前零時十分。
その時刻を指定して検索する。
八日前から、同じ記録が並んでいた。
【Undefined access request】
【Connection duration: 00:47】
【Destination: CORE / Designer Layer】
音央は椅子の背にもたれた。
不明なアクセス要求。
行き先は、設計師層。光の残滓がいる場所。
偶然にしては、光の脳波と揃いすぎている。
ヘッドセットを手に取る。
「……行くか」
接続した瞬間、世界の高さが変わった。
黒い前足。夜の草。長い尻尾。
「現実では寝不足。こっちでは猫」
誰に聞かせるでもなく呟き、管理画面を展開する。
【GM認証:完全】
異常はない。
異常がない、そのこと自体がいまは異常に思えた。
音央は《ジャンプ》でコア領域へ向かった。
白い空間が、いつもより冷たく見えた。壁も天井もない。光が濃すぎて、境界という概念が消えている世界。
「ヒカリ」
返事はない。
コアの奥にいるはずの光の姿が見えない。
代わりに、白い地面の一点だけが濡れたように黒ずんでいた。
音央は近づいた。
黒い染みは、扉の形をしていた。
この世界には存在しないはずの、閉じた扉の輪郭。
「おい」
前足で触れる。
管理画面に、見覚えのない文字列が走った。
「ねこは、まだ向こうにいる」
音央の背中を、冷たいものが走った。
ゲームの中で、彼を「ねこ」と呼ぶ者はいた。だが、こんなふうに言葉を投げてくる存在は、もうゲームの外にいるはずだった。
小さなNPC、ラフ。
けれど、文字列の下には、別の識別子が浮かんでいる。
SOURCE: UNKNOWN / Z-031
ラフではない。
誰かが、外からゲームの言葉を借りている。
その誰かが、光の眠りと同じ時刻に、ここへ触れようとしている。
白い空間が、一度だけ明滅した。
遠くから、光の声が聞こえた。
「音央」
「どこだ」
「私だけじゃないみたい」
声はそこで途切れた。
その直後、黒い扉の輪郭が消えた。
残ったのは、白い世界と、黒猫の足跡だけだった。
現実でヘッドセットを外すと、携帯電話が震えていた。
病院からだった。
真白の声は短かった。
「倉城さん。すぐ来てください」
「光に何かあったのか」
「いえ。奥様の病室の前に、知らない人が二人います」
音央は立ち上がった。
「今から行く」
通話を切ったあと、端末の画面にログが一行だけ追加されていた。
「選ぶな」
音央は画面に後ろ髪を引かれながらも、急ぎ病室へと向かった。




