プロローグ 四十七秒間
雨宮澪が兄の声を聞いたのは、午前零時十分頃だった。
それは、眠っている人間から漏れ出る声ではなかった。
眠りの途中で漏れ出る呻きでも、悪い夢を追い払う寝言でもない。乾いた喉の奥から、一音ずつ確かめるように押し出された、はっきりと意味を持つ声だった。
「……選ぶな」
澪は椅子から立ち上がった。
ベッドの上にいる兄、雨宮颯太は三年前から眠り続けている。三十一歳だった。眠る前は半導体会社に勤めていた。人と話すとき、なぜか相手の眉間を見つめる癖があった。母の味噌汁には必ず「今日は少し薄い」と言い、妹の澪には、困ったときだけ無言でコンビニのプリンを買ってくる男だった。
いまの颯太は、そうした細部をすべて置き去りにしたように、静かだった。
「お兄ちゃん?」
呼びかけても、最初は返事がなかった。
だが、まぶたが震えた。
ゆっくりと、ひどく重そうに開く。焦点の定まらない目が天井の蛍光灯を見て、それから何かを探すように左右へ動いた。最後に、澪を捉えた。
「聞こえる?」
澪の声は、想像していたより小さかった。
颯太の唇が震える。
「……選ぶな」
「何を? 何を選ばないの」
心電図が速くなった。機械音が病室の静けさに刺さる。
澪がナースコールへ手を伸ばしたとき、颯太の指が彼女の手首をつかんだ。
細くなった手だった。それでも、眠っていた人間とは思えない強さだった。
「K……」
「ケー?」
「聞くな」
颯太の目が、病室の隅を見た。
「見られている」
扉が開いた。
澪は反射的に振り返った。
入ってきたのは夜勤の看護師ではなかった。白衣を着た男が二人。どちらも名札を裏返している。片方は見慣れない黒いケースを持ち、もう片方は透明な注射器を取り出していた。
「面会者の方は、少し離れてください」
「誰ですか」
「患者さんに刺激を与えないでください」
「ここは私の兄の病室です。あなたたちは誰なんですか」
答えはなかった。
男の一人が澪の肩を押した。力は強くない。それでも、抗議を続けることを許さない手つきだった。
「お兄ちゃん!」
颯太の腕に注射針が刺さる。
その瞬間、彼の手から力が抜けた。目も閉じかける。
「海は」
澪は身を乗り出した。
「海が、どうしたの」
「……入口じゃない」
颯太の瞳から、最後の光が消えた。
午前零時十一分。
モニターの表示は、何事もなかったように眠りの波形へ戻った。
兄の指が離れたあとも、手首にはその圧力だけが残っていた。
男たちは、患者の容態が安定したから明日に移送すると説明した。
どこへ、と問うと、国立神経統合医療センターと答えた。
男たちが去ると、疲れ果てた澪にゆっくりと睡魔が襲ってきた。
そして、そのまま深い眠りについた。
翌朝、目が覚めると、颯太のベッドは空だった。シーツは替えられ、私物は消え、カルテを確認した職員は困った顔をした。
廊下の照明は明るい。それなのに、空になった病室の奥だけが、夜より暗く見えた。
澪は待合室の長椅子に座りこんだ。
手首には、兄の指の跡が残っている。
携帯電話には、偶然録音されていた四十七秒が残っている。
そのなかで、兄は確かに目を開けた。
そして、澪に何かを告げようとした。
澪は録音を何度も聞き返した。言葉の間にある呼吸と、短く三回、長く一回という電子音まで、兄の最後の意思の一部に思えた。
録音を止めるたび、次に再生するのが怖くなった。それでも指は再生ボタンへ戻った。
午前零時十分という時刻だけが、病室の時計の針のように、彼女の中で止まらずに進み始めていた。
国立神経統合医療センター。
澪はその名前の施設をスマートフォンで何度も検索してみた。
何度やってもその施設の情報が表示されることはなかった。




