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パーフェクト・コード ―続・マスターネオはネコまない―  作者: Master NEO


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第十三章 取り戻す

インターホンを押しても返事がない。

莉里は、もう一度だけ押した。

「時松です。昨日、お電話した者です」

しばらくして、扉の向こうから女の声がした。

「……何のために来たのですか」

「息子さんのことを聞かせてください」

「病気のことなら、もう何度も話しました」

「病気のことではありません」

莉里は、手に持っていたノートを見た。

「帰ってきたら、何をしてほしい人なのかを聞きたいんです」

沈黙があった。

やがて、鍵が開いた。

扉の隙間から、六十代くらいの女性が顔を出す。

「そんなことを聞いて、何になるのですか」

「分かりません」

莉里は正直に答えた。

「ただ、何も分からないままにしたくないんです」

女性はしばらく莉里を見ていた。

それから、ほんの少しだけ扉を開いた。

「……入ってください」

息子は四十二歳だった。

発症してから二年四か月。

以前は小さな印刷会社で働いていた。

家の中には、彼が使っていたものがほとんどそのまま残されていた。

玄関には、片方だけ泥のついたスニーカー。

リビングには、読みかけの雑誌。

冷蔵庫には、賞味期限の切れたプリンが一つ。

「これ、本人が?」

「そうです」

母親が笑った。

「買ってきたまま忘れてたのでしょうね」

冷蔵庫の扉を閉める。

「起きたら、捨てるように言わないと」

「はい」

莉里はノートを開いた。

「ほかに、何かありますか」

「何か?」

「起きたら、最初にしてほしいこと」

女性は考えた。

しばらくして、窓の外を見た。

「……散歩です」

「散歩」

「近くの川まで歩くのです。毎朝」

「好きだったのですね」

「好きというより、習慣だったのでしょうね」

女性は少し笑った。

「雨の日も行くのですよ。傘を忘れて、ずぶ濡れで帰ってきたりして」

莉里は書いた。

川。

朝。

雨でも歩く。

「それから」

「まだあります」

女性は、奥の部屋へ向かった。

「この人、犬が好きだったんです」

壁に写真が貼ってあった。

茶色い雑種犬を抱いて、本人が笑っている。

「犬、もう亡くなってるのですけど」

「名前は?」

「ポン」

「ポン」

「起きたら、ポンがいないことを教えないといけない」

女性は写真へ触れた。

「それが、一番つらいかもしれません」

莉里はペンを止めた。

名前を書く。

ポン。

その名前が、患者本人の名前と同じくらい重要なものに思えた。


その日から、莉里は患者家族を訪ね続けた。

名前。

好きだった食べ物。

嫌いだった音。

毎朝の習慣。

家族しか知らない呼び方。

誰にも言っていなかった夢。

帰ってきたら最初に見せたいもの。

会わせたい人。

もう会えない人。

忘れてほしくない記憶。

忘れてもいい記憶。

莉里は、それを一つずつ聞いた。

最初は、家族たちも戸惑った。

何の役に立つのか。

治療に関係があるのか。

そう聞かれるたび、莉里は同じ答えを返した。

「分かりません」

それでも、次第に話してくれる人が増えた。

ある父親は、眠っている娘のために毎週新しい曲を録音していた。

ある夫は、妻が嫌いだった料理を一つだけ作り続けていた。

ある少年は、眠る母親の手に毎朝、自分の学校の名札を置いていた。

「今日も学校に行ってくる」

そう言うためだった。

莉里は、その言葉も記録した。


名前だけでは足りない。

名前は、その人を呼ぶためにある。

けれど、その人が何を大切にしていたのかを知らなければ、名前を返しても、それはただの識別子に戻ってしまう。


ゼニスが人間をシステムに変えたのなら。

こちらは、人間をただのシステムには戻せないものを積み上げる。

それは人間を取り戻すための戦い。


一方、真白は別の戦いを始めていた。

「ありました」

研究室の端末を睨みながら、真白が言った。

音央は顔を上げた。

「何が」

「薬です」

「全国分?」

「全国分、というより……全国分以上です」

真白は画面を回した。

そこには、医薬品の保管施設が地図上に点在していた。

北海道。

東北。

関東。

中部。

近畿。

中国。

四国。

九州。

「全部、国の管理下にある」

真白が言った。

「でも、一般の医療機関には存在しないことになっている」

「どこに保管してる」

「そこまでは、まだ」

真白が一つの施設を拡大した。

「ただ、共通している場所があります」

「どこだ」

「海底ケーブルの陸揚げ施設」

音央の目が止まった。

海。

港。

眠りの港。


「K-セルの通信経路と、医薬品の管理システムが、同じ閉域網を使っている」

音央は言った。

「ゼニス」

「おそらく」

真白は唇を噛んだ。

「国は最初から、患者を目覚めさせるための準備もしていたのですね」

「じゃあ、なぜ」

「目覚めさせなかったのか」

真白が答えた。

「みんな目覚めてしまえば、システムが崩壊するから、ですね」


音央は画面を見た。

その言葉が、一番嫌だった。

患者を起こす方法は、最初からどこかに用意されていた。

ただ、それは御厨たちが良心の呵責に耐えられなくなったときの、最後の保険だった。


「真白」

「はい」

「全部、押さえられるか」

「医師だけでは無理です」

「医師じゃなくていい」

音央は言った。

「患者を取り戻したい人間を集める」


澪は、兄の部屋に戻っていた。

颯太が使っていた古いパソコンは、持ち去られたあと、まだ返されていない。

残っていたのは、壊れた外付けハードディスクと、古い紙のノートだけだった。

ノートには、技術的な計算式と、意味の分からない記号が並んでいる。

その中に、何度も同じ数字があった。

031。

047。

017。


「Z-031」

澪は呟いた。

「四十七秒。ポート20017」

数字を並べても、意味はない。

兄は何かを残している。

でも、それを見つけられない。

澪はノートを閉じた。

そのとき、ページの間から小さな紙が落ちた。

レシートだった。

日付は、兄が倒れる三日前。

店の名前は、駅前のコンビニ。

買ったもの。

水。

プリン。

ボールペン。

そして、印刷された長い英数字。

澪は、それを見た。

ただの購入番号に見えた。

だが、最後の数字だけが違っている。

031。

澪は携帯電話を取り出した。


「音央さん」

『どうした』

「兄が使っていたコンビニのレシートに、Z-031と同じ数字があります」

『偶然じゃないか』

「私もそう思いました」

澪はレシートを裏返した。

「裏に兄の字があります」

『何て?』

澪は息を止めた。

そこには、短い言葉が書かれていた。


名前を返せ。


「兄は、これを残してた」

『分かった』

「どういう意味だと思いますか」

音央はすぐには答えなかった。

『たぶん、俺たちが今やっていることの答えだ』

「名前を集めること?」

『それだけじゃない』

音央の声が低くなる。

『ゼニスが患者を識別子として扱っているなら、その根底を覆せばいい』

「どうやって」

『患者を名前で呼ぶ』


その日の夜。

莉里のノートは、二百七十三人分の名前で埋まっていた。

その横には、それぞれの人生が短い言葉で書かれている。


朝に川を歩く人。

犬の名前を忘れない人。

雨の日に傘を持たない人。

毎週、同じ歌を聴く人。

娘の弁当箱を洗う人。

亡くなった妻の誕生日を覚えている人。

もう一度、海へ行きたい人。

海が嫌いな人。

猫を三匹飼っていた人。

駅の階段を使わず、必ずエスカレーターに乗る人。

人の顔を覚えるのが苦手な人。

誰にも言わず、毎年同じ神社へ行っていた人。


それぞれに、名前がある。

それぞれに、帰る場所がある。

莉里は、それを一つのファイルにまとめた。

ファイル名を入力する。

一瞬、迷った。

それから、こう書いた。


RETURN_HOME


保存ボタンを押す。


画面の隅で、接続状態が一度だけ明滅した。

莉里は気づかなかった。


その数秒後。

遠く離れた場所にあるゼニスの監視端末で、一つの警告が表示された。


UNREGISTERED HUMAN CONTEXT DETECTED.


IDENTIFIER Z-031:

CONTEXT EXPANSION 47%.

IDENTIFIER Z-032:

CONTEXT EXPANSION 51%.

IDENTIFIER Z-033:

CONTEXT EXPANSION 39%.


数字の横に、今まで存在しなかった項目が増えていく。

名前。

家族。

記憶。

習慣。

帰還先。


ゼニスは、人間を予測するために必要な情報として、それらを処理し始めた。

だが、それは本来のゼニスが持っていない種類の情報だった。

未来を予測するためではない。

それは、過去へ戻るための情報だった。


「これを見てください」

真白が音央を呼んだのは、午前一時を過ぎてからだった。

研究室のモニターに、一つの画面が表示されている。

「患者の識別子です」

画面には、二百七十三個の識別子が並んでいる。

「ここまでは、前から分かっていました」

「その下」

真白がカーソルを動かした。

番号の横に、新しい列ができている。

患者名。

その隣に、家族。

さらに、その隣に帰還先。

「誰が入力した」

「私たちではありません」

「じゃあ」

「ゼニス側です」

音央は画面を見つめた。

「勝手に名前を取り込んだ?」

「違います」

真白は首を振った。

「ゼニスが、名前を必要とし始めたんです」

「何のために」

「分かりません」


そのとき、画面が切り替わった。

中央に、一つの識別子が表示される。

Z-031

その下に、名前が表示された。

雨宮颯太

澪が息を呑んだ。

さらに、その下。


RETURN POSSIBILITY: ACTIVE


音央は立ち上がった。

「帰れるのか」

「まだ分かりません」

「でも、可能性が出た」

「はい」

真白は頷いた。

「誰かが、ゼニスに患者を名前で認識させたからです」


音央は莉里へ電話をかけた。

呼び出し音が一度。

二度。

三度。

『もしもし』

「莉里。今、何をした」

『何って?』

「患者の名前をゼニスへ入れただろ」

沈黙。

『……見えたの?』

「ああ」

『私、ただの記録だと思ってた』

「違った」


音央は画面を見る。

Z-031。

雨宮颯太。

名前が、番号の横に並んでいる。

「颯太さんが、ゼニスの中で初めて名前を取り戻した」

『じゃあ』

莉里の声が震えた。

『名前を全部返せば』

「全員に、帰る場所ができる」


その瞬間だった。

病院の奥から、警報音が鳴った。

真白が振り向く。

「何ですか」

別の端末に、緊急通知が表示されている。


ZENITH CORE:

UNAUTHORIZED HUMAN IDENTIFICATION


さらに、その下に新しい文字。


RETURN PROTOCOL:

SEARCHING


音央は息を止めた。

探している。

ゼニスが、帰るための道を。

だが、その直後。

画面が赤く染まった。


WARNING

ADMINISTRATOR RESPONSE DETECTED


御厨だ。

音央には、なぜかそう分かった。

名前を返したことが、向こうにも伝わった。

そして御厨は、これを止める。

「全員に知らせろ」

音央が言った。

「何を?」

真白が聞く。

「もう時間がない」

音央は、二百七十三人の名前を見た。

番号ではない。

人間だ。

「名前を返すんだ」


同じ頃。

未来戦略室では、御厨圭介が一人で画面を見ていた。

ゼニスの予測画面に、今までなかった情報が流れている。


人間の名前。

家族の声。

記憶。

習慣。

帰還先。


それらは予測精度を上げるどころか、予測そのものを不安定にしていた。

未来が、一つの形に定まらない。

それは、当然のことだった。

人間が、自分の過去を取り戻し始めたからだ。


御厨は、雨宮颯太の名前を見つめた。

「……そういうことか」

初めて、彼は理解した。

ゼニスが恐れていたのは、外部からの攻撃ではない。

患者たちが、自分自身へ戻ることだった。


御厨は、端末を閉じた。

「ならば」

誰もいない部屋で呟く。

「先に、出口を閉じる」

その瞬間、全国の患者移送システムへ、同時に命令が送られた。

全患者、最終接続施設へ集約。

期限。

四十八時間。

そして、その通知を受け取った音央の端末に、最後の一行が表示された。


ZENITH:

RETURN PROTOCOL WILL BE TERMINATED IN 48 HOURS.


音央は画面を見た。

四十八時間。

それだけあればいい。

音央は立ち上がった。

「行こう」

莉里が聞く。

『どこへ?』

音央は答えた。

「全てを取り戻しに」

ゼニスの中に眠っているのは、二百七十三人という数字だけではない。

その人間たちが生きてきた時間そのものだった。

そして、その時間を現実へ戻すためには。

まず、彼らが誰だったのかを、世界に思い出させなければならない。

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