アンナ
深夜零時を過ぎ、宮殿の通用口が開いた。長衣をまとい、円錐形のとんがり帽子をかぶり、手に油ランプを提げた人物が中から現れる。このいでたちを見誤る者はいない——魔法使いだ。
夜道を歩むその人は、ほど近い「仁慈病院」へと向かう。靴底が板張りの道を打つ音は、沈んだ、しかし性急な響きで、あたかも太鼓の連打のようだった。自らの足音に急き立てられるように、彼女は速度を上げ、最後には半ば駆け足になっていた。その足音に驚いたのか、数羽の黒い鳥が宮殿の窓台から夜空へと舞い上がる。彼女が振り返った時には、鳥の群れはもう茫漠たる夜霧のなかに消えていた。
しばらくして、彼女は病院の門前へと着いた。
夜勤の衛兵に近づくと、彼女は手慣れた動作で長衣をはだけ、ランプの光が内側の白衣を照らし出す。魔法使いの塔が医師に授ける銀の樹形記章がくっきりと見て取れた。
「開門!」衛兵が叫んだ。
そのときにはすでに、彼女は門前の段を上がり始めていた。門番は、彼女をほんの一瞬でも待たせてしまってはいけないと、あわてて先回りし、潜り戸を開いた。
暖かな光が戸口から流れ出で、かすかに湿った彼女の長衣に蜜色の上塗りを施す。彼女が一歩踏み入れると、親しみ深い薬草の香りが全身を包み込んだ。
侍童が小走りに駆け寄ってくる。腕にかかえたのは、洗いたてで香をたきしめた院内用の上っ張りと上履きだ。病院の清浄を保つため、外で着用した衣服は玄関の間に置いてゆかねばならぬ。これが掟である。
侍童とともに、もうひとりの魔法使いがやって来た。彼女は北海の民の容貌を備え、髪の色は銀にも似て薄く、青い瞳は夏のあたたかな海岸を思わせた。襟元の銀記章が示すように、彼女はもはや若くはなかったが、歳月はその顔にほとんど痕跡を残していなかった。魔法使いとして、それも当然のことだ、衣食に窮したことなど一度もないのだ。だが、もし彼女の両手に目をやれば、植物や乳鉢、煮え鍋や蒸留器と、いったい何年付き合ってきたかを算えるのは、さほど難しくなかった。
「ソフィア!」彼女は、着替えの最中にある仲間に矢も盾もたまらず言った。「状況は……」
言い終えるより先に、ソフィアという名の魔法使いは片手を上げ、それ以上口にしないようにと制した。
「すまない、アンナ」彼女は言った。「いまは駄目だ」
アンナは眉をひそめた。「となると……」
「いや、訊かないでくれ」ソフィアは再び遮った。「まず院長に会いに行かねばならない。それまでは話せない」
アンナはそっと溜め息をついた。「わかった」
彼女は傍らに立ち、黙って見守った。ソフィアは着替え終えると、ついでにうなじの束ね髪を解いた。黒髪が首筋を伝い垂れ、清潔な白い院内着の上に広がった。それで彼女はいくぶん、人あたりのやわらかな風情に見えた。
「気を楽にしなさい、アンナ」彼女は言った。「今夜、君は非番だろう」
口調はきわめてやわらかだったが、その言葉はまぎれもなく警告だった——「余計な首を突っ込むな」と。
しかし、アンナは引き下がらなかった。「休憩室で待っている」
「かならず行く」ソフィアは言った。「だが……物事のなかには、わたしだって、君より多くは知らぬことがある」
アンナはやはり先ほどと同じ言葉を繰り返した。「待ってる」
ソフィアはそれ以上何も言わなかった。彼女はまっすぐにアンナの脇を通り過ぎ、二階へと続く階段を上っていった。侍童はソフィアが脱いだ衣服を籠に入れ、洗濯場へと運んでゆく。
アンナはひとりその場に立ち尽くし、階段の曲がり角に消えるまで、ソフィアの後ろ姿を見送った。しばし考え込んだのち、彼女は向きを変え、休憩室へつづく柱廊へと歩み入った。
数多の偉大なる魔法使いたちの肖像画が次々と彼女と擦れ違ってゆく。いずれも「第一世代」のなかで最も傑出した面々であり、彼らこそが呪いの力を合わせて神を殺し、教会の支配を終わらせ、大地のありさまを永遠に変えた者たちだった。そのうちの何人かはいまだ健在で、南方の温暖な海辺の別院に住まい、目に見えぬ糸で魔法使いの塔を操っている。
この病院はまさしく教会堂を改装したものだ。休憩室は建物の一階の片隅にあり、かつては大公の私的な祈禱室だった。室内の宗教的な調度品は、魔法使いの塔が教会堂を接収した折に一掃された。石磚の床は剥がされて、床下を空洞にした樫の板張りに変わり、その上には足音を消すための分厚い絨毯が敷かれている。部屋の中央は煖炉で、その上で茶が湯を沸かしており、炉の周囲には数脚の長椅子がとり囲んでいる。この季節、窓はつねに固く閉ざされ、夜ともなればさらに保温のためのカーテンが引かれるのだった。
休憩室にはいつも茶、酒、木の実や干し果実が備えてあり、魔法使いたちは余暇をこれでしのぐ。しかし、アンナには休息をとる心の余裕などなかった。やわらかなクッションも、あたたかな香りの茶も、彼女を平静にはしてくれない。彼女はなにげなく、第一世代の主席魔法使いユストラティウスの伝記を手に取った。誰かがこの書物に触れたのはごく久しい昔のことであろうことは一目瞭然だった。古びた紙が一枚また一枚と繰られてゆくが、アンナの目には一字たりとも入ってこなかった。彼女の思いは依然として大公の寝室に囚われている。
大公の健康状態は何ら秘められたことではない。である以上、彼のかかりつけ医であるソフィアが今夜、宮殿に召喚されたのは、ただひとつの事実を意味するほかなかった。大公の息子たちのうち、いまなお存命の者はふたりである。兄のヴラドは兵を率いて外にあり、弟のボリスはつい先ごろ監禁されたばかりだった。
したがって、いまこのとき、この街の真の支配者は、一族のいずれの男でもなく、ヴラドの妻であるエレーナだった。
エレーナ……
アンナの脳裏に彼女の面影が浮かんだ。しかし思い出されたのは、王公の妻の姿ではなく、幼い魔法の学徒の姿だった。記憶はアンナを連れて森を越え、大河を越え、海を越え、繁華な帝都へと至らせた。魔法使いはみな、そこでその生涯を始める。そして、まさにまさにその地で、エレーナは彼女とは異なる道を歩み出したのだった……
アンナは立ち上がり、窓へと歩み寄った。休憩室から外を見やれば、その視線の先には、ちょうど大公寝室の窓がある。いまごろ、あの窓には灯が点っているに違いない。彼女がカーテンをあけると、松明をかかげた一団が宮殿を走り出て、病院の門めがけてまっすぐにやって来るのが見えた。火の光は彼らの兜も鎧も、まぎれもなく照らし出していた。彼らは一人残らず、抜き身の剣を手にしている!
アンナの胸中は暗く沈んだ。彼女は思い悩むいとまもなく、すぐさま書物を放り出し、飛ぶように休憩室を走り出た。




