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第71話「母」


 診療所の灯りが見えた時。

 

 リオンは、ようやく自分の呼吸が乱れていることに気づいた。

 

 速い。

 

 走りすぎた。

 

 でも、止まれなかった。

 

 夕暮れは、もう終わりかけている。

 

 空は群青へ沈み始めていた。

 

 診療所の白い壁だけが、ぼんやりと灯りを反射している。

 

「……」

 

 入口を開ける。

 

 薬草の匂い。

 

 静かな廊下。

 

 遠くで、誰かの咳が聞こえた。

 

 受付の女性が顔を上げる。

 

「あ、リオンく――」

 

 でも。

 

 リオンの顔を見た瞬間、何かを察したみたいに口を閉じた。

 

 何も聞かない。

 

 ただ、小さく頷くだけ。

 

 リオンも何も言わず、そのまま廊下を進んだ。

 

 リシアの病室。

 

 扉の前で、足が止まる。

 

 まだ、頭の中はまとまっていなかった。

 

 上級観測者。

 

 唯一。

 

 リシアの母。

 

 参加要請。

 

 後方支援。

 

 色んな言葉が、頭の中でぐるぐる回っている。

 

 でも。

 

 それ以上に残っていたのは。

 

 地下遺跡で、壊れそうになっていたリシアの顔だった。

 

 苦しそうに呼吸して。

 

 震えて。

 

 涙を流して。

 

 あの時。

 

 本気で怖かった。

 

「……」

 

 ノックする。

 

「……リオン?」

 

 中から、小さな声。

 

 リオンは扉を開けた。

 

 病室は静かだった。

 

 窓の外は夜。

 

 薄い月明かり。

 

 ベッド横のランプだけが、柔らかく部屋を照らしている。

 

 リシアはベッドの上に座っていた。

 

 本を読んでいたらしい。

 

 でも、リオンを見た瞬間、すぐ閉じた。

 

「……どうしたの?」

 

 リオンは、すぐには答えなかった。

 

 扉を閉める。

 

 数歩、近づく。

 

 でも。

 

 言葉がうまくまとまらない。

 

 リシアが少しだけ眉を下げた。

 

「……何かあった?」

 

「……ギルドで」

 

 リオンが低く言う。

 

「お前のことを聞いた」

 

 リシアの睫毛が、小さく揺れた。

 

 でも。

 

 驚いた顔はしなかった。

 

 静かに。

 

 少しだけ目を伏せる。

 

「……そっか」

 

 短い声。

 

 リオンは立ったまま聞いた。

 

「上級観測者って、なんだ」

 

 部屋が静かになる。

 

 外で風が鳴る。

 

 リシアはしばらく黙っていた。

 

 やがて。

 

 小さく息を吐く。

 

「……別に、隠してたわけじゃない」

 

 静かな声だった。

 

「母とは、何年も会ってないし」

 

 一拍。

 

「母の昔のことは、私もよく知らない」

 

 リオンは黙って聞いていた。

 

「小さい頃から、たまに聞かされてただけ」

 

 リシアが、自分の手を見る。

 

「普通の人には見えないものが見える、とか」

 

「……」

 

「他人の精神領域へ触れられる、とか」

 

 小さく笑う。

 

 でも。

 

 その笑いは、少し寂しかった。

 

「正直、私もよく分かってない」

 

 リオンの眉が寄る。

 

「……じゃあ、お前も自分の力を理解してないのか」

 

「全部は」

 

 リシアは静かに頷く。

 

「感覚でやってることも多い」

 

「危ねぇだろ、それ」

 

「……うん」

 

 否定しない。

 

 それが余計に、リオンの胸をざわつかせた。

 

「母は、あまり家にいなかったから」

 

 一拍。

 

「だから、母がどんな人だったのかも、実はあんまり知らない」

 

「……」

 

「ただ」

 

 リシアが少しだけ視線を逸らす。

 

「昔、一回だけ言われた」

 

「なんて」

 

「“あなたは、人の痛みを視すぎる”って」

 

 静かな声。

 

「視すぎると、自分まで壊れるから気をつけなさいって」

 

 リオンの胸が、少しだけ重くなる。

 

 地下遺跡でのリシアを思い出す。

 

 あれは。

 

 “視すぎた”結果なのかもしれない。

 

「……」

 

 沈黙。

 

 リオンはゆっくり息を吐いた。

 

 そして。

 

 低く言う。

 

「お前の作戦参加は、俺が止める」

 

 リシアが顔を上げた。

 

「……リオン」

 

「病み上がりだろ」

 

 声が少し強くなる。

 

「まだ顔色だって完全じゃねぇ」

 

「……」

 

「地下遺跡で、あんな状態になったばっかだろ」

 

 リオンの拳が少しだけ握られる。

 

「あれ見て、平気で戦場に出せる訳ねぇだろ」

 

 リシアはしばらく黙っていた。

 

 怒らない。

 

 否定もしない。

 

 ただ。

 

 静かにリオンを見る。

 

 そして。

 

 少しだけ、柔らかく笑った。

 

「……リオン」

 

「なんだ」

 

「心配してくれるの、本当にうれしい」

 

 リオンが黙る。

 

 リシアの声は静かだった。

 

 でも。

 

 ちゃんと届く声だった。

 

「すごく、うれしい」

 

 一拍。

 

「前の私だったら、多分」

 

 少しだけ目を伏せる。

 

「“大丈夫”って言って、勝手に行ってたと思う」

 

「……」

 

「でも今は」

 

 リシアが、小さく毛布を握る。

 

「ちゃんと止めてくれる人がいるって、安心する」

 

 リオンの目が少し動く。

 

 リシアが続ける。

 

「怖いんだよ、私も」

 

 その言葉は、予想外なくらい弱かった。

 

「前、本当に怖かった」

 

 白い指先が、少し震える。

 

「頭の中に、何か入ってくる感じがして」

 

「……」

 

「自分じゃなくなるみたいで」

 

 リシアが、小さく息を飲む。

 

「もし、あのまま戻れなかったらって思った」

 

 リオンの胸が、ぎゅっと痛くなる。

 

「……リシア」

 

「でも」

 

 ゆっくり顔を上げる。

 

「リオンがいたから、戻れた」

 

 静かな声。

 

「ちゃんと、怖いって思えた」

 

「……は?」

 

「前の私だったら、多分、自分を優先しなかった」

 

 一拍。

 

「でも、今は」

 

 少しだけ笑う。

 

「リオンが悲しむの、嫌だから」

 

 その瞬間。

 

 リオンの呼吸が止まりかけた。

 

「……ずりぃだろ」

 

 ぽつりと漏れる。

 

 リシアが少し瞬く。

 

「そんな言い方されたら、止めづらくなる」

 

 リシアが困ったみたいに笑う。

 

「……止めないで」

 

 小さい声。

 

 でも。

 

 その声は少し震えていた。

 

「私も、リオンを守りたい」

 

「……」

 

「私にできることがあるなら、やりたい」

 

 白い指先。

 

 まだ少し細い。

 

 まだ少し弱っている。

 

 でも。

 

 その目だけは、まっすぐだった。

 

「だって」

 

 リシアが小さく笑う。

 

「私は、リオンと一緒にいたいから」

 

 静かだった。

 

 でも。

 

 その一言が、胸に深く落ちた。

 

 リオンは、すぐ返事ができなかった。

 

 地下遺跡。

 

 泣いていたリシア。

 

 震えていた指。

 

 苦しそうな呼吸。

 

 全部、まだ頭に残っている。

 

 怖い。

 

 また壊れそうになるんじゃないか。

 

 また失いかけるんじゃないか。

 

 その恐怖が消えない。

 

 でも。

 

 リシアは逃げようとしていない。

 

 怖くない訳じゃない。

 

 それでも。

 

 一緒にいようとしている。

 

「……お前さ」

 

 リオンが低く言う。

 

「なんで、そんな無茶できんだよ」

 

 リシアが少し考える。

 

 それから。

 

 静かに答えた。

 

「……多分」

 

 一拍。

 

「リオンが、無茶するから」

 

「は?」

 

「ひとりで危ない場所行くし」

 

「……」

 

「怪我しても平気そうに笑うし」

 

「……」

 

「自分のこと、後回しにするし」

 

 リシアが少しだけ睨む。

 

「だから、私も一緒に行かないと、たぶんリオン無理する」

 

 リオンが言葉を失う。

 

 図星だった。

 

 リシアが、小さく笑う。

 

「だから、一緒にいる」

 

「……」

 

「私、リオンが思ってるより、リオンのこと心配してるよ」

 

 その声が。

 

 妙に優しかった。

 

 リオンは、たまらなくなった。

 

 ベッドの横へ近づく。

 

 そして。

 

 そっと、リシアの頭へ手を置いた。

 

 白い髪。

 

 柔らかい。

 

 リシアが少しだけ目を細める。

 

「……退院はいいとして」

 

 リオンが小さく息を吐く。

 

「ちゃんと先生の指示は聞いとかないとな」

 

「……」

 

「しばらくは常備薬も必要だろうし……」

 

 ぶつぶつと確認するみたいに続ける。

 

「無理な観測は禁止されるだろうし、睡眠もちゃんと取らねぇとダメだろうし……」

 

 リシアが、じっとリオンを見る。

 

 リオンは気づかないまま続けた。

 

「あと、退院してもしばらくは単独行動は禁止な」

 

「……禁止」

 

「当たり前だろ。まだ本調子じゃねぇんだから」

 

「……」

 

「今は大丈夫か?」

 

 リオンの声が少し低くなる。

 

「ちゃんと寝れてるか?」

 

「……」

 

「頭痛は?」

 

「……少し」

 

「まだあんのか」

 

「前よりはマシ」

 

「でもあるんだろ」

 

「……ある」

 

 リオンの眉が寄る。

 

「やっぱ退院、早ぇ気がするな……」

 

「リオン」

 

「あと食事ちゃんと食ってるか? 数日前よりは顔色いいけど、まだ細――」

 

「リオン」

 

「ん?」

 

 そこでようやく。

 

 リオンは、リシアがずっと自分を見ていたことに気づいた。

 

 静かな目。

 

 でも。

 

 少しだけ、嬉しそうだった。

 

 リオンは、無意識に少し顔を近づける。

 

 距離が近い。

 

 白い睫毛が見える。

 

 淡い銀色の瞳。

 

「……なんだよ」

 

 低い声。

 

 リシアは、逃げなかった。

 

 嫌がる様子もない。

 

 ただ。

 

 近づいたリオンを、静かに見返していた。

 

 それから。

 

 少しだけ目を細める。

 

「……過保護」

 

 一瞬。

 

 リオンが止まる。

 

「……うるせぇ」

 

 でも。

 

 声は、前みたいに強くなかった。

 

 リシアが小さく笑う。

 

「ずっと心配してる」

 

「……当たり前だろ」

 

 即答だった。

 

 近い距離のまま。

 

 リオンは少し眉を寄せる。

 

「お前、自分で思ってるより無茶するし」

 

「……」

 

「しかも、限界来るまで隠すし」

 

「……少しは反省してる」

 

「少しかよ」

 

 リシアが、くすっと笑う。

 

 呼吸が近い。

 

 静かな病室。

 

 夜風が、ゆっくりカーテンを揺らす。

 

 リシアは、そのまま小さく呟いた。

 

「でも」

 

「……?」

 

「こうやって、心配してくれるの、好き」

 

 リオンの目が少しだけ止まる。

 

 リシアは少し照れたみたいに視線を逸らす。

 

「大事にされてる感じ、するから」

 

 その言葉に。

 

 リオンは、少しだけ困ったみたいに息を吐いた。

 

「……お前、たまにそういうこと普通に言うよな」

 

「本当のことだから」

 

 リシアが静かに見上げる。

 

 その視線が、妙に柔らかい。

 

 リオンは数秒黙って。

 

 それから。

 

 そっと、額を軽く小突いた。

 

「無茶すんな」

 

「リオンも」

 

「俺はいい」

 

「よくない」

 

 また即答。

 

 リオンが少し笑う。

 

 リシアも、小さく笑った。

 

 その空気が。

 

 少しだけ、甘かった。

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