第72話「再開」
朝の光が、白いカーテンを透かしていた。
薄い布越しに入ってくる光は柔らかくて。
診療所の静かな空気を、ゆっくり白く染めている。
薬草の匂い。
遠くで聞こえる小鳥の声。
廊下を歩く誰かの足音。
穏やかな朝だった。
「……」
リシアは、自分の荷物を見下ろしていた。
小さな鞄。
本。
着替え。
観測用のデバイス。
数日しかいなかったはずなのに。
妙に、この部屋に慣れてしまった気がする。
その時。
病室の扉が開いた。
「起きてるか」
聞き慣れた声。
リオンだった。
朝なのに、もう完全に起きている顔。
しかも。
なぜか紙を持っている。
リシアが目を瞬く。
「……何それ」
「先生から聞いた注意事項」
即答。
「あと、薬の時間と睡眠時間の目安」
「……」
リシアは少しだけ目を細めた。
「……真面目」
「当たり前だろ」
リオンは、そのまま病室へ入ってくる。
視線が自然にリシアへ向く。
顔色。
呼吸。
立ち上がれるか。
無意識に、全部確認してしまう。
たぶん、自分でも止められていない。
あの日から。
ずっと。
リオンは、少し過敏になっていた。
「忘れ物ないか?」
「ない」
「着替えは?」
「入ってる」
「デバイスは?」
「持った」
「ちゃんと持ったか?」
「……持った」
「予備の魔力結晶は?」
「入ってる」
「ホントに?」
「ホント」
リオンは、じーっと見る。
疑っている顔だった。
リシアが少しだけ呆れる。
「……子供じゃない」
「お前、自分のことになると雑だからな」
「そんなことない」
「ある」
即答。
リシアが少しだけむっとする。
でも。
否定しきれない。
リオンは、そのまま確認を続けた。
「体調は?」
「大丈夫」
「ちゃんと寝たか?」
「寝た」
「頭痛は?」
「ない」
「ホントか?」
「ホント」
そこで。
リオンは、一瞬だけ言葉を止めた。
聞きたいことは、まだあった。
苦しくないか。
怖くないか。
また、頭の中へ“あれ”が入り込んできたりしていないか。
でも。
そこまで聞いたら、本当に過保護すぎる気がして。
リオンは小さく息を飲み込む。
「……無理してねぇよな」
「してない」
「辛かったら?」
リシアが、小さく息を吐く。
でも。
ちゃんと答えた。
「……すぐに言う」
「なんかあったら?」
「すぐに言う」
「夜は?」
「ちゃんと寝る」
「薬は?」
「ちゃんと飲む」
「約束な?」
リシアは、少しだけ目を細めた。
それから。
柔らかく笑う。
「……うん。約束」
その瞬間。
リオンの肩から、少しだけ力が抜けた。
リシアは、それを見逃さなかった。
「……そんなに心配?」
「するだろ」
即答だった。
リオンは、小さく息を吐く。
「前、お前マジで危なかったんだからな」
リシアの睫毛が、小さく揺れる。
数週間前。
裏路地。
崩れ落ちた身体。
震える呼吸。
涙。
あの時の感覚は、まだ完全に抜けていない。
「……ごめん」
小さい声。
リオンは少し黙る。
それから。
視線を逸らしたまま、低く言った。
「謝れって意味じゃねぇよ」
「……」
「……あの時、お前、マジで消えそうだったから」
声が少し掠れていた。
リシアは静かにリオンを見る。
本当に。
怖かったんだ。
怪物より。
敵より。
自分が壊れかけたことの方が。
この人には、ずっと。
「……ねぇ、リオン」
「ん?」
「ありがと」
「……何が」
「ずっと、心配してくれてたから」
リオンは少し視線を逸らした。
「……当たり前だろ」
ぼそっと返す。
でも。
耳が少し赤い。
リシアが、少しだけ笑った。
「……過保護」
「うるせぇ」
いつもの返事。
でも。
どこか安心した声だった。
荷物を持つ。
立ち上がる。
少しだけ、ふらつく。
その瞬間。
リオンの手が、ほとんど反射みたいに伸びた。
「おい」
肩を支える。
近い。
リシアは少し目を瞬いた。
「……大丈夫」
「全然説得力ねぇ」
「今のはちょっとバランス崩しただけ」
「そういうのが危ねぇんだよ」
リオンは眉を寄せたまま、しばらく離さなかった。
触れて。
ちゃんと立っていることを確認しているみたいに。
リシアが、小さく息を漏らす。
「……リオン」
「ん?」
「近い」
そこでようやく。
リオンが、はっとしたみたいに手を離す。
「……悪い」
でも。
離したあとも、まだ少し不安そうだった。
そのまま自然に、リシアの荷物を持つ。
「持つ」
「……自分で持てる」
「今日は却下」
即答。
リシアが少しだけ困った顔をする。
でも。
嫌じゃなかった。
病室を出る。
廊下。
窓から朝日が差し込んでいる。
静かな診療所。
数週間前まで、この場所で苦しんでいたのが、少し遠いことみたいに感じた。
入口まで降りると。
外で、カイルが待っていた。
壁にもたれながら、軽く手を上げる。
「お、来た」
いつもの軽い声。
でも。
リシアを見る目は、ちゃんと安心していた。
「リシア、退院おめでとう」
リシアは少しだけ目を瞬く。
それから。
小さく頷いた。
「……ん」
カイルが、くすっと笑う。
「相変わらず反応薄いなぁ」
「……カイルが軽いだけ」
「ひど」
でも、楽しそうだった。
リオンは、その横でまだ気にしている。
「階段大丈夫だったか?」
「大丈夫」
「ふらついてた」
「あれはちょっとだけ」
「ちょっとでもダメだ」
カイルが吹き出した。
「うわ、重症だ」
「うるせぇ」
「いやぁ、ここまで過保護になるとはねぇ」
リオンが露骨に嫌そうな顔をする。
でも。
数秒後。
ぼそっと小さく呟いた。
「……心配になるだろ、普通」
その声は。
思っていたより、ずっと弱かった。
リシアが、少しだけ目を細める。
朝の風が吹く。
白い髪が、少し揺れた。
その顔色は。
入院した時より、ずっと穏やかだった。
◇
ギルド本部。
会議室には、既に数人の冒険者が集まっていた。
机の中央には、地下遺跡の地図。
侵入経路。
崩落危険区域。
そして。
中央部に描かれた、黒い円。
空気が少し張っている。
ギルドオーナーが、静かに口を開いた。
「では、最終確認を行う」
全員の視線が集まる。
オーナーは、リシアを見る。
「リシアくんは、安全な後方で遺跡全体の状況を把握してくれ」
リシアは静かに頷いた。
「……分かりました」
その横で。
リオンの眉が、少しだけ寄る。
「本当に後方だけだからな」
「分かってる」
「絶対前出るなよ」
「出ない」
「ホントに?」
「……リオン」
少し呆れた声。
カイルが横で笑いを堪えていた。
「いや、今日それ何回目?」
「知らん」
「たぶん十二回目くらい」
「うるせぇ」
でも。
リオンは笑っていなかった。
まだ不安なんだ。
それが分かる顔だった。
オーナーが、小さな箱を机へ置く。
「これを渡しておく」
中には、小型の通信デバイスが入っていた。
耳掛け式。
薄い魔力結晶が埋め込まれている。
「通信用デバイスだ」
オーナーが続ける。
「リシアくんとリオンに渡しておこう」
リオンが受け取る。
リシアも静かに受け取った。
「動きがあれば、すぐ彼に連絡を」
「……了解です」
リシアが、小さく頷く。
その瞬間。
リオンが、小さく息を吐いた。
少しだけ。
安心したみたいに。
“繋がれる”ことに。




