第68話「勝算」
診療所へ戻った時には、もう空が赤かった。
森の奥。
夕焼け。
風が冷たい。
なのに、リオンの額には嫌な汗が残っていた。
頭の奥が重い。
まだ、あの感覚が消えていない。
脳の裏側を、何かが這い回るみたいな感触。
思い出すだけで気分が悪かった。
「……っはぁー……」
後ろで、カイルが盛大に息を吐く。
「マジで寿命縮んだ……」
「うるせぇ」
「いやいや、キミよく普通に歩けるね?」
カイルが苦笑する。
顔色が悪い。
服も泥だらけだった。
モンスターの体液。
死骸の汚れ。
乾ききっていない血。
リオンも似たようなものだった。
診療所の扉を開けた瞬間。
受付にいた看護師が、びくっと肩を震わせる。
「えっ!? リオンさん!? カイルさん!?」
目を見開く。
「ど、どうしたんですかその格好!」
「診察頼む」
短く言った。
声に余裕がない。
看護師も、それに気づいたらしい。
「す、すぐ先生呼びます!」
診察室。
白衣姿の医者が、二人を見るなり顔をしかめた。
「……随分酷い場所へ行ってきたみたいですね」
「行きたくて行った訳じゃないけどねー……」
カイルが椅子へぐったり座る。
「頭の中まだ気持ち悪いし」
「頭?」
「変なの入ってきた感じ」
「……は?」
「冗談です」
「冗談に聞こえません」
医者が真顔で返した。
リオンは何も言わない。
視線が落ちている。
考えている。
地下遺跡。
女の影。
死骸。
視線。
リシア。
もし。
また、あれがリシアへ向かったら。
その想像だけで、胸の奥が重くなる。
「……リオンさん」
「……ああ」
「聞いてます?」
「聞いてる」
「お二人とも外傷は軽いです。ですが」
一拍。
「精神疲労が異常です。今日は絶対休んでください」
「無理だ」
即答だった。
医者が露骨に眉を寄せる。
「無理でもです」
「悪い」
「悪いじゃありません」
でも。
リオンはもう立ち上がっていた。
「おいおい」
カイルが呆れた顔をする。
「キミ、自分のことになると雑すぎない?」
「お前も似たような顔してる」
「僕はちゃんと弱音吐いてるからセーフ」
「知らねぇよ」
軽口。
でも。
二人とも、少しだけ安心していた。
少なくとも。
今すぐ壊れるような異常はない。
それが分かっただけでも大きかった。
診察室を出る。
白い廊下。
薬草の匂い。
静かな空気。
リオンの足が、少しだけ速くなる。
無意識だった。
リシアの病室へ向かっている。
ちゃんと起きているか。
また苦しんでいないか。
熱は。
頭痛は。
呼吸は。
考え始めると止まらない。
「……」
カイルが、その横顔を見る。
少しだけ笑った。
「過保護」
「は?」
「いや別に?」
「なんだよ」
「いやぁ、分かりやすいなって」
「殺すぞ」
「怖っ」
でも。
カイルはそれ以上言わなかった。
病室の前で止まる。
リオンが、一瞬だけ呼吸を整える。
それから、扉を開けた。
夕焼けの光が、白い部屋へ差し込んでいた。
静かな病室。
カーテンが揺れている。
ベッドの上。
リシアは、本を読んでいた。
でも。
扉が開いた瞬間。
すぐに顔を上げる。
「――リオン」
その声が。
少しだけ震えていた。
リオンの肩から、少しだけ力が抜ける。
普通に喋っている。
呼吸も乱れていない。
顔色も。
朝よりはマシだった。
「起きてたのか」
「……待ってた」
小さい声。
リオンは病室へ入る。
カイルは空気を読んだらしい。
「あ、僕ちょっと外いるわ」
軽く手を振って、そのまま扉を閉めた。
静かになる。
リオンは、ベッドの横へ来た。
まず。
顔を見る。
呼吸を見る。
指先を見る。
無意識だった。
「……何」
リシアが少し困ったみたいに笑う。
「顔色」
「そんな悪い?」
「まだ白い」
「リオンの方が白い」
「俺は元からだ」
「誤魔化さない」
少し低い声。
リオンが黙る。
「……頭痛は」
「少し」
「吐き気」
「ない」
「熱は」
「ないと思う」
「確認したのか」
「……してない」
「倒れたばっかだろ」
リシアが少し目を伏せた。
リオンは椅子を引いて座る。
距離が近い。
前より、少しだけ。
「リオン」
「なんだ」
「怪我」
「してねぇ」
「嘘」
「してねぇって」
「顔色悪い」
「……」
「あと、目」
リオンの動きが止まる。
リシアは、じっと見ていた。
「疲れてる」
「平気だ」
「平気じゃない」
即答だった。
少しだけ。
声が震えていた。
「……何がいたの」
静かな声。
リオンは数秒黙った。
でも。
隠せないと思った。
「女みたいな影だった」
リシアの肩が、ぴくっと揺れる。
「見た瞬間、頭に入ってきた」
その瞬間。
リシアの顔色が、少しだけ白くなった。
リオンは反射で身を乗り出す。
「リシア」
「……大丈夫」
「顔色悪い」
「平気」
「平気じゃねぇだろ」
少しだけ声が強くなる。
リシアは小さく息を吸った。
「……怖かった」
リオンの動きが止まる。
「診療所、静かだから」
窓の外を見る。
夕焼け。
長い影。
「ずっと時計の音、聞こえてた」
小さい声だった。
「帰ってこなかったらどうしようって、ずっと考えてた」
リオンは、何も言えなかった。
ただ。
胸の奥が重くなる。
リシアが毛布を少し握る。
「……次、無茶したら」
一拍。
「本当に診療所に閉じ込めるからね」
かなり本気の声だった。
リオンが少し固まる。
「……監禁かよ」
「それくらいする」
「怖ぇな」
「怖かったの」
静かな声。
でも。
その一言の方が、ずっと重かった。
「本当に心配したんだから」
少し拗ねたみたいに言う。
リオンは、小さく息を吐いた。
「……悪かった」
その謝罪に。
リシアが少しだけ目を見開く。
「でも、放っとけねぇ」
リオンの声が低くなる。
「あれ、多分また出る」
リシアも静かに頷いた。
「……うん」
「だから対策する」
「対策?」
その時。
病室の扉が、こんこん、と鳴った。
「入るよー?」
カイルだった。
返事を待たずに入ってくる。
「いやぁ……空気重い重い」
「うるせぇ」
「怖っ」
でも、カイルは少し笑っていた。
さっきより顔色が良い。
「で、作戦の話なんだけど」
椅子へ座る。
「見ちゃダメなら、見ずに撃てばよくない?」
リシアが少し目を瞬く。
「……遠距離?」
「そ」
カイルが指を立てる。
「魔銃」
部屋が静かになる。
「ギルドの宝物庫にある。古いけど、まだ使えるはず」
「お前、使えんのか」
「昔ちょっとね」
「ちょっと?」
「まぁ、建物くらいなら抜ける程度?」
「どこがちょっとだ」
カイルがけらけら笑う。
でも。
すぐ真顔へ戻った。
「問題は連携」
「……」
「視線管理、位置確認、撤退判断」
「全部ミスれない」
リオンも頷く。
「ギルドからも数人出るらしい」
「だから数日かけて訓練」
カイルが続ける。
「徹底的にリハーサルする」
リシアは静かに二人を見ていた。
それから。
そっと、リオンの服の裾を掴む。
「……ちゃんと戻ってきて」
リオンは、少しだけ目を細めた。
「ああ」
短い返事。
でも。
その声は、前より少しだけ柔らかかった。




