第65話 「毒波」
朝だった。
窓の外から、街の音が聞こえる。
荷車。
遠くの呼び込み。
パンを焼く匂い。
宿の部屋へ、柔らかい光が差し込んでいた。
リオンはぼんやり天井を見上げる。
昨日のことが、まだ頭に残っていた。
黒いコートの男。
共有〈シンク〉。
あの瞬間。
頭の奥へ、何かが触れてきた感覚。
思い出そうとすると、違和感が蘇る。
嫌な感じだけが、強烈に残っていた。
「……」
小さく息を吐く。
横を見る。
ベッド。
白い髪が、毛布から少しだけはみ出している。
「……リシア」
呼ぶ。
反応がない。
「リシア、朝だぞ」
「……んぅ……」
毛布が、もぞ、と動く。
数秒後。
ゆっくり。
ほんとにゆっくり。
リシアの顔が出てきた。
目が半分閉じてる。
完全に寝ぼけてる。
「……おはよ……」
「……おう。おはよう」
返事は返ってきた。
でも。
明らかに寝ぼけている。
髪も少し跳ねてる。
いつもの冷静さが、どこにもない。
「……ふにゃ……」
「……なんだ今の」
思わず真顔になる。
リシアが、ぽやーっとしたまま首を傾げた。
「……?」
「いや、お前……朝そんな感じなのか」
「……あさ……?」
「駄目だなこれ、脳みそ寝てる」
リシアはそのまま、ぽす、と枕へ倒れた。
「おい寝るな」
「……あとさんぷん……」
「お約束か」
「……むぅ」
毛布をぎゅっと抱きしめる。
しかも。
ちら、とリオンを見る。
「……リオン」
「なんだよ」
「……いる?」
「いるだろ」
「……よかった……」
安心したみたいに、ふにゃっと笑った。
「……」
リオン、数秒固まる。
「……お前、寝ぼけてる時だけ変わりすぎだろ…」
「……んー……?」
伝わってない。
完全に無意識だった。
リオンは額を押さえる。
「……ほら、起きろ」
「……ふにゃぁ……」
「鳴き声みたいになってんぞ」
仕方なく、ベッドの横へ行く。
「立てるか」
「……むり」
「即答かよ」
「……ねむい……」
「だろうな」
リオンは小さく息を吐いた。
でも。
昨日より顔色はいい。
ちゃんと休めたらしい。
少し安心する。
「……頭痛は」
「……ない……」
「気持ち悪いとか」
「……ない……」
「寒気」
「……リオンがあったかい……」
「真面目に答えろ」
「……ふにゃ」
「誤魔化すな」
リオンは小さく息を吐いた。
「……とりあえず水持ってくる」
立ち上がる。
その瞬間。
服の裾を、きゅ、と掴まれた。
「……」
振り返る。
リシアが、半分寝た顔のままこっちを見ていた。
「……どした」
「……ほんとに戻ってくる?」
「すぐそこだぞ」
「……んぅ」
不満そう。
リオンは数秒黙った。
それから。
「……じゃあ一緒に行くか」
「……いく……」
即答。
「寝ぼけてんのにそこだけ早ぇな」
リシアは、ふらふらしながら立ち上がる。
危ない。
案の定、ぐらっと傾いた。
「おっと」
リオンがすぐ支える。
「……あぶな」
「お前なぁ……」
そのまま自然に肩を抱く。
リシアが、こて、と頭を預けてきた。
「……リオン」
「なんだ」
「……あったかい……」
「朝からそればっかだな」
「……落ち着く……」
小さい声。
でも。
妙に素直だった。
リオンが少しだけ目を逸らす。
「……お前、それ、反則だろ……」
「……んー……?」
伝わってない。
リシアはそのまま、ぎゅ、と服を掴んだ。
「……離れないで」
「離れねえよ」
「……ん……」
安心したみたいに、肩へ額を擦り寄せる。
猫か。
リオンは小さく息を吐いた。
でも。
その手は、自然とリシアの頭を撫でていた。
柔らかい髪が、指に絡む。
リシアが気持ちよさそうに目を細める。
「……ふにゃ……」
「お前、それ、癖になってるだろ…」
でも。
そのやり取りが、妙に平和だった。
昨日の嫌な空気が、少しだけ薄れるくらいには。
昼。
街を回る。
昨日のカフェ。
周辺の通り。
裏路地。
何度か見回った。
でも。
黒いコートの男に繋がる情報はない。
気配も。
ログ異常も。
何も。
「……完全に消えてんな」
「……うん」
リシアも周囲を観測している。
でも、反応はない。
「……あ」
リオンが立ち止まる。
「カイル」
「……?」
「情報屋なら、何か知ってるかもしれねえ」
端末を取り出す。
通信。
数回のコール音。
『……はいはい、もしもし』
気の抜けた声。
「お前な」
『リオン? 珍しいね』
「ちょっと聞きてえことある」
黒いコートの男の話をする。
沈黙。
数秒。
『……はぁ』
「なんだよ」
『いや、それ、関わんない方がいいやつっぽい』
「心当たりあんのか」
『断定はできない。でも嫌な感じする』
一拍。
『リシアいる?』
「ああ」
『顔色悪かったりしてない?』
リオンが横を見る。
リシアは平然としてる。
……ように見える。
でも。
少し疲れてる気はした。
「……まあ、ちょっと」
『なら余計まずいかも』
「なんなんだよ」
『とりあえず合流しよっか』
「どこだ」
『裏路地。いつもの場所』
「分かった」
通信が切れる。
裏路地。
昼なのに薄暗い。
人気も少ない。
リオンは壁へ寄りかかった。
「……遅いな、あいつ」
「……うん」
その時だった。
ぞわ。
空気が変わる。
冷たい。
いや、違う。
冷たいんじゃない。
“削られる”。
「――っ」
リシアの呼吸が止まる。
「リシア?」
返事がない。
目が、見開かれていた。
焦点が合ってない。
次の瞬間。
「っ、ぁあ……!!」
崩れる。
「おい!!」
リオンは反射的に抱き止めた。
軽い。
でも。
その身体が、異常なほど震えていた。
「リシア!!」
「っ……ぁ……! ぁ、ぁ……!!」
呼吸が壊れてる。
過呼吸どころじゃない。
息を吸えてない。
指先が痙攣してる。
爪が、自分の腕を傷つけるくらい食い込んでいる。
「おい、しっかりしろ!!」
反応が薄い。
視線が泳いでる。
何かを見てる。
ここじゃない“何か”を。
「っ……や、ぁ……!」
怯えてる。
リオンの知らないレベルで。
その顔を見た瞬間。
背筋が凍った。
これは“痛み”じゃない。
もっと深い。
精神そのものを、直接抉られてる。
「くそっ……!!」
リオンはリシアを抱き寄せる。
冷たい。
体温が落ちてる。
「リシア!! 聞こえるか!!」
「っ……こ、な……」
「何!?」
「……み、られ……」
声が途切れる。
その瞬間。
リシアの瞳から、涙が落ちた。
ぼろ、と。
理性じゃない。
本能レベルの恐怖。
リオンの心臓が嫌な音を立てる。
「……っ」
頭より先に身体が動いた。
共有〈シンク〉。
境界を曖昧にする。
繋ぐ。
もっと深く。
「っ!!?」
リシアが目を見開く。
【上位干渉ログ】
共有〈シンク〉
状態:深度接続
同期率:51%
制御:不安定
流れ込む。
痛み。
圧迫感。
恐怖。
知らない視線。
覗かれてる。
頭の奥を、無理やり開かれる感覚。
「っ、ぐぁ……!!」
リオンの視界が歪む。
吐き気。
激痛。
脳を掴まれて、掻き回される。
耳鳴り。
ノイズ。
知らない声。
知らない景色。
知らない“何か”。
【WARNING】
認識汚染:進行
「っ……ぁ……!!」
リオンの膝が崩れかける。
やばい。
これ。
まともに受けたら壊れる。
でも。
その分。
リシアの呼吸が、少し戻った。
「っ……リオン……!」
掠れた声。
涙で滲んだ目が、こっちを見る。
「なんで……こんな……!!」
「ほっとけるかよ……!!」
強がる。
でも。
普通に限界だった。
頭が割れそうだ。
意識が揺れる。
「っ……切って……!!」
「嫌だ……!!」
「壊れる……!!」
「お前だけ壊れる方が嫌なんだよ……!!」
「っ……!!」
リシアが息を呑む。
その瞬間。
空間が止まった。
音が消える。
風が止まる。
空気が固定される。
落ちかけた水滴が、空中で停止する。
そして。
次の瞬間。
さっきまでリシアを蝕んでいた何かが、 一瞬だけ距離を取った。
「……大丈夫? 二人とも」
聞き慣れた声。
カイル。
路地の奥に立っていた。
その周囲だけ、世界が静止している。
軽い声。
でも。
目だけは笑ってなかった。
『……間に合った』
低い。
いつもの軽さが消えてる。
カイルの視線が、一瞬だけ空間の奥へ向く。
そこに“何か”がいるみたいに。
『かなりヤバい干渉だった』
『下手すると精神ごと持ってかれる』
リオンは荒い呼吸のまま顔を上げた。
「……カイル」
『とりあえず離れるよ』
『ここ、もう安全じゃない』
リオンは小さく舌打ちした。
頭痛が酷い。
視界もまだ揺れてる。
でも。
優先はリシアだ。
「……立てるか」
「……っ……」
返事が遅い。
呼吸もまだ不安定だった。
顔色も真っ白だ。
焦点も少し危うい。
リオンはすぐにリシアを背負った。
「リオン……」
「いいから」
「……ごめ……」
「謝んな」
即答。
「今は黙って掴まってろ」
リシアの腕が、震えながら首へ回る。
「カイル、診療所」
『分かってる』
歩き出す。
でも。
リオンの心臓は、ずっと嫌な音を立てていた。
背中の体温が、少しずつ下がってる気がして。
「……リシア」
「……だい、じょうぶ……」
掠れた声。
でも。
明らかに無理してる。
「寝てろ」
「……ね、ない……」
その返事すら弱い。
意識が落ちかけてる。
リオンは歯を食いしばった。
「……すぐ着く」
自分に言い聞かせるみたいに呟く。
その後ろ。
屋根の上。
黒い影が、三人を見下ろしていた。
静かに。
まるで。
観測するみたいに。




