第66話 「死滅」
薬草の匂いがした。
白い天井。
薄いカーテン。
窓の外では、夕方の光がゆっくり沈んでいる。
診療所の部屋は静かだった。
静かすぎて。
時計の針が動く音まで、やけに大きく聞こえた。
「……」
リオンは、ベッドの横に座っていた。
リシアは眠っている。
呼吸は落ち着いている。
さっきまで乱れていた息も、今は整っている。
けれど。
顔色はまだ白い。
指先にも、力がない。
あの裏路地で崩れ落ちた時よりは、ずっとマシだ。
でも。
安心できるほどじゃなかった。
昨日の光景が、頭から離れない。
息ができなくなっていた。
震えていた。
泣いていた。
あのリシアが。
冷静に観測して、淡々と答えるリシアが。
理屈じゃなく、本能で怯えていた。
「……」
気づいたら、リオンは立ち上がっていた。
毛布の端を直す。
額に手を当てる。
熱はない。
でも、少し冷たい。
指先に少しだけ触れる
まだ震えが残っていないか確認する。
目を離したら、また何かが起きる気がした。
「……また見てる」
窓際から、呆れた声がした。
カイルだった。
椅子に腰掛けたまま、頬杖をついている。
「見てねえ」
「見てるよ」
「念のためだ」
「うん。それを見てるって言うんだよ」
カイルは軽く笑った。
でも、目は笑っていない。
「水飲ませて、毛布直して、熱確認して、呼吸確認して」
一拍。
「キミ、そんなに過保護だったっけ」
「……うるせぇ」
いつもなら、もっと強く返していた。
でも、声に力が入らなかった。
カイルも、それに気づいたらしい。
少しだけ声のトーンを落とす。
「……怖かったんだね」
リオンは答えなかった。
否定もできなかった。
怖かった。
たぶん、それが一番近い。
怪物より。
黒いコートより。
訳の分からないログより。
リシアが、自分の腕の中で壊れそうになったことが。
「……」
その時。
ベッドが、もぞ、と動いた。
「……ん」
小さな声。
リオンはすぐに振り向いた。
「リシア」
「……リオン……?」
掠れた声。
目は開いている。
でも、まだ完全には起きていない。
白い睫毛がゆっくり瞬いて、リシアはぼんやりしていた。
「……おはよ」
「もう夕方だ」
「……そっか」
間の抜けた返事。
いつものリシアなら、もう少し冷静に返してくる。
リオンは少しだけ眉を上げた。
「まだ寝ぼけてるだろ」
「……寝ぼけてない」
「今の間は寝ぼけてる奴の間だった」
「……む」
小さく不満そうにする。
声が少し柔らかい。
カイルが窓際で、面白そうに目を細めた。
「へぇ」
「なんだよ」
「いや。リシアって、寝起きそんな感じなんだ」
リシアが一拍遅れてカイルを見る。
それから、少しだけ目を伏せた。
「……今のは、忘れて」
「無理かな」
「……カイル」
「はいはい。そうするよ」
全然忘れる気のない声だった。
リオンはコップを取る。
「水飲むか」
「……ん」
リシアが手を伸ばす。
その指先が、ほんの少し震えた。
リオンはカップを渡しながら、自然にその手を支える。
「ゆっくり」
「……大丈夫」
「落としそうだった」
「……落とさない」
「怪しい」
リシアは少しだけ眉を寄せた。
「……心配しすぎ」
「当たり前だろ」
即答だった。
リシアが黙る。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「……知ってる」
寝起きの名残が残った、柔らかい声だった。
リオンは一瞬だけ視線を逸らす。
「……頭痛は」
「少し」
「まだあるのか」
「……少しだけ」
「少しだけ、って言う時は大体少しじゃねえ」
「……過保護」
「今まで見てきた結果」
リシアが小さく視線を逸らす。
図星らしい。
カイルが、そのやり取りを眺めながら小さく笑った。
「……なんか、空気変わった?」
「は?」
「前より距離近いなって」
「気のせいだろ」
「いや、絶対違う」
カイルがくすっと笑う。
「キミ、さっきからずっとリシア見てるし」
「普通だ」
「普通の頻度じゃないんだよなぁ」
リオンは眉を寄せた。
でも、否定しきれない。
さっきから、何度も見ている。
呼吸。
顔色。
指先。
少しでも異変がないか、勝手に確認してしまう。
リシアが、小さく困ったみたいに笑った。
「……ほんと、心配しすぎ」
「お前が無茶するからだろ」
即答。
でも、声は前より少し柔らかかった。
カイルがさらに面白そうに目を細める。
「……へぇ」
「なんだよ」
「いや、別に?」
完全ににやけている。
リオンは露骨に嫌そうな顔をした。
けれど。
空気は、すぐに静かになった。
リオンはベッドの横に座ったまま、低く聞く。
「……あの時、何見えた」
リシアの表情が変わった。
寝起きの柔らかさが消えていく。
白い指が、毛布の上で止まる。
「……はっきりは、覚えてない」
小さい声だった。
「ただ」
一拍。
「女の影、みたいなのが見えた気がする」
部屋が静かになる。
リオンの眉が動いた。
「……俺も見た」
「え?」
「シルエットだけだ」
はっきりじゃない。
でも、確かにいた。
覗き込むみたいに。
頭の奥に入り込んでくる何か。
カイルが小さく息を吐いた。
「……やっぱり」
「心当たりあんのか」
「最近、増えてるんだよ」
カイルの声が低くなる。
「ダンジョンとか、クエスト先で、妙な怪物が出るって話」
「怪物?」
「形はバラバラ。共通点もほとんどない」
一拍。
「でも、必ず一緒に目撃されるものがある」
「……黒コートか」
「うん」
カイルが頷く。
「男だったり女だったり。人数も一定じゃない」
「……」
「しかも、その後に誰かが壊れてる」
空気が重くなる。
「精神汚染。行方不明。発狂。死体が出た例もある」
リオンの顔から表情が消えた。
知らない誰かの話だったはずなのに。
もう、遠い話ではなかった。
リシアが壊されかけた。
同じものが、また現れるかもしれない。
次もリシアに。
そう考えた瞬間、胸の奥が冷えた。
「……ギルドは?」
「ピリついてる。最近、怪物被害が増えすぎてるから」
「冒険者ギルドか」
「うん。オーナーが詳しいと思う」
リオンは少し黙った。
そして、ベッドを見る。
リシア。
まだ顔色が戻り切っていない。
コップを持つ手も、少し震えていた。
連れていけない。
今は、休ませる。
「俺とカイルで行く」
リシアが顔を上げた。
「……私も」
「ダメ」
即答。
「まだ入院中だろ」
「……もう歩ける」
「歩けるのと、動いていいのは別」
「……」
「頼むから、今は休んでろ」
強くはない。
でも、譲る気もない声だった。
リシアがしばらく黙る。
やがて、小さく息を吐いた。
「……分かった」
リオンの肩から、少しだけ力が抜けた。
「すぐ戻る」
「……うん」
「無理すんなよ」
「……リオンも」
その言葉に、リオンは少しだけ目を細めた。
「分かってる」
けれど。
診療所を出る直前。
無意識にもう一度だけ振り返ってしまう。
リシアが苦しそうじゃないか。
ちゃんと座っているか。
確認してしまう。
カイルがそれを見て、小さく笑った。
「……重症だね、キミ」
「は?」
「いや、なんでも」
冒険者ギルドは、昼なのに空気が重かった。
入口をくぐった瞬間、酒の匂いより先に薬草と血の匂いが鼻につく。
いつもなら、もっと騒がしい場所なのだろう。
依頼を探す冒険者。
報酬の話で揉める声。
受付に並ぶ人間。
笑い声。
怒鳴り声。
そういう雑多な熱があるはずだった。
でも、今は違う。
包帯姿の男が壁にもたれている。
片腕を吊った女が椅子で俯いている。
奥では担架が運ばれていた。
受付の職員も顔色が悪い。
疲弊。
焦燥。
不安。
全部が空気に混ざっていた。
「……酷ぇな」
リオンが小さく呟く。
「最近、もっと悪くなってる」
カイルが低く答えた。
「ギルドがここまでやられるって、普通じゃねえだろ」
「普通じゃないよ」
一拍。
「だからオーナーが直接動いてる」
カイルが受付へ声をかけると、職員はすぐに奥を指した。
案内された先は、薄暗い廊下だった。
扉の前に立った瞬間、リオンは妙な違和感を覚える。
中に誰かいる。
当たり前だ。
けど、それだけじゃない。
胸の奥が少しだけざわついた。
カイルが扉を叩く。
「カイルです。連れてきました」
「入れ」
低い声。
扉が開く。
オーナー室。
中にいた男を見た瞬間、リオンの足が少し止まった。
「……?」
初めて会うはずなのに。
知っている気がした。
どこかで見たような。
男は四十代くらいだった。
短い灰色の髪。
疲れた目。
でも、視線だけは妙に鋭い。
机の上には書類が山のように積まれている。
被害報告。
討伐失敗。
行方不明者。
地図。
赤い印。
綺麗な仕事場ではなかった。
追い詰められている人間の机だった。
「君がリオンか」
低い声。
その瞬間、胸の奥が小さくざわついた。
「……どっかで会ったか」
「いや」
男は静かに首を振る。
「初対面だ」
でも、違和感は消えなかった。
「私は、このギルドのオーナーをしている」
男は名乗った。
けれど、リオンの耳には少し遠く聞こえた。
顔。
声。
視線。
どこかが引っかかる。
でも、思い出せない。
オーナーは地図へ視線を落とした。
「単刀直入に言おう」
一拍。
「怪物を討伐してほしい」
空気が止まる。
リオンの目が細くなった。
「……俺にか」
「そうだ」
「理由は」
「君が普通の冒険者ではないからだ」
カイルが少しだけ視線を動かす。
リオンは黙った。
オーナーは続ける。
「この街の周辺で、異常な怪物の出没が増えている」
淡々とした声。
でも、その奥に疲れが滲んでいた。
「低級モンスターの変質。未知個体の発生。冒険者の精神錯乱。行方不明者の増加」
一枚の報告書が机の上に置かれる。
「昨日だけで、死者が七名」
部屋が静かになる。
「今日、さらに三名が戻らなかった」
「……」
「このままでは、ギルドそのものが機能しなくなる」
オーナーの指が、地図の一点を押さえた。
「場所は地下遺跡だ」
「地下遺跡……」
カイルが少し眉を寄せる。
「そこ、最近封鎖された場所ですよね」
「ああ。だが、封鎖前に入った調査隊が戻っていない」
「生存者は」
リオンが聞く。
オーナーは少しだけ沈黙した。
「……ほぼいない」
一拍。
「戻った者もいる。だが、まともに話せる状態ではなかった」
「精神汚染か」
「近い」
オーナーは短く答える。
「言葉が通じなくなった者。自分の名前を忘れた者。存在しない誰かに怯え続ける者」
リオンの脳裏に、昨日のリシアがよぎる。
白い顔。
震える指先。
涙。
胸の奥が重くなる。
「黒いコートの奴らは」
オーナーの目が、わずかに動いた。
「目撃報告はある」
「男女問わず?」
「ああ」
カイルの情報と一致する。
リオンは小さく息を吐いた。
「報酬は出す」
オーナーが言う。
「だが、正直に言えば金の問題ではない。こちらも、もう人を選んでいる余裕がない」
「……」
「君に頼むしかない」
リオンはすぐには答えなかった。
リシアの顔が浮かぶ。
まだ入院中だ。
昨日の影響も残っている。
本当は離れたくない。
あんな状態のリシアを置いて、地下遺跡へ向かう。
それが正しいのか、分からない。
でも。
放っておけば、また誰かが壊れる。
また同じことが起きる。
もしかしたら。
またリシアに届くかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥が冷えた。
行きたくない。
離れたくない。
でも、離れないために行く。
矛盾している。
それでも、そう思った。
カイルが横からリオンを見る。
いつもの軽い顔ではなかった。
「どうする?」
「……」
リオンは黙る。
しばらく、沈黙が落ちる。
やがて。
「話は分かった」
短く言った。
「でも、今すぐ返事はしねえ」
オーナーの眉がわずかに動く。
「リシアに話してから決める」
「彼女は入院中だと聞いた」
「ああ」
「ならば、危険な判断を避けるべきではないか」
「だから話すんだよ」
リオンの声が少し低くなる。
「俺一人で勝手に決める話じゃねえ」
オーナーは黙った。
数秒。
それから、小さく頷く。
「分かった」
「明日、返事する」
「待とう」
リオンは地図を一度だけ見た。
地下遺跡。
赤い印。
戻らない冒険者たち。
黒コートの影。
嫌な予感しかしなかった。
診療所へ戻った時には、もう外は暗くなり始めていた。
窓の外。
夕焼けが、少しずつ夜へ沈んでいく。
静かな部屋。
薬草の匂い。
ベッドの上。
リシアは本を読んでいた。
でも、扉が開いた瞬間、すぐ顔を上げる。
「……リオン」
少し安心したみたいな声。
リオンの肩から、少しだけ力が抜けた。
「起きてたのか」
「……待ってた」
小さい声。
前なら、たぶん言わなかった。
リオンは少しだけ目を逸らす。
「……そうか」
部屋へ入る。
カイルは空気を読んだのか、
『僕、下いるね』
と言って、そのまま扉を閉めた。
静かになる。
リオンはベッドの横へ椅子を引いた。
「体調は」
「……大丈夫」
「顔色は朝よりマシだな」
「ずっと寝てたから」
リオンは小さく頷く。
それから、少し間が空いた。
リシアが先に気づく。
「……何かあった?」
「依頼の話が出た」
空気が少し変わる。
「ギルドから」
「……怪物」
「多分な」
リシアは静かに目を伏せた。
予想していた顔だった。
「受けるの?」
「まだ決めてねえ」
リシアが少し顔を上げる。
「お前に話してから決める」
「……」
リオンは視線を逸らした。
「本当は、お前置いて行きたくねえ」
リシアの睫毛が、小さく揺れる。
「でも放っとくと、多分もっと被害出る」
「……」
「だから、行くことになると思う」
静かな声。
でも、迷いは残っていた。
リシアは少しだけ考える。
それから、小さく言った。
「……優しい」
「うるせぇ」
即答。
でも、前みたいな強さはない。
リオンは小さく息を吐いた。
「しばらく離れる」
「……うん」
「だから」
一拍。
「無理すんな」
「リオンも」
「俺は平気」
「信用できない」
即答だった。
リオンが少し固まる。
リシアが小さく笑った。
「お互い様」
「……」
「リオンも、無茶する」
否定できない。
リオンは眉を寄せたまま、小さく息を吐いた。
「……なるべく気をつける」
「なるべく?」
「善処する」
「それ、絶対無茶する人の言い方」
少し呆れたみたいに言う。
でも、声は柔らかかった。
静かな沈黙。
そのあと、リシアが小さく裾を掴んだ。
「……リオン」
「ん?」
「ちゃんと戻ってきて」
その言葉が、妙に胸へ刺さった。
リオンは数秒黙る。
それから、そっとリシアの頭へ手を置いた。
「……当たり前だろ」
一拍。
「置いてく気ねえよ」
リシアが、少しだけ目を伏せる。
「……うん」
そのまま、軽く髪を撫でる。
「なんかあったら、すぐカイル呼べ」
「ん」
「無理して観測すんな」
「分かってる」
「ホントか?」
リシアが少しだけ息を吐く。
「……過保護」
「うるせぇ」
でも、声音は少し柔らかい。
リシアは小さく息を吐いた。
「リオン」
「なんだ」
「気をつけて」
一瞬。
リオンが少しだけ目を細める。
「ああ」
短い返事。
でも、扉へ向かう前に、もう一度だけリシアの顔を確認してしまう。
それを見て、リシアが少しだけ笑った。
「……ほんと、過保護」
「誰のせいだと思ってんだ」
リオンは小さく息を吐く。
でも、その表情は少しだけ穏やかだった。
翌日。
リオンは冒険者ギルドへ戻った。
カイルも一緒だった。
オーナー室。
机の上の地図。
赤い印。
昨日と同じ空気。
「受ける」
リオンは短く言った。
オーナーは静かに目を伏せた。
「感謝する」
「感謝は終わってからにしろ」
リオンは地図を見る。
「場所はここだな」
「ああ」
「同行者は」
「基本は君たちに任せる。ただし、これ以上の被害は出したくない」
リオンは頷いた。
「なら俺とカイルで行く」
カイルが横で肩をすくめる。
「僕も確定なんだ」
「逃げんのか」
「まさか」
軽く笑う。
でも、目は笑っていない。
「ただ、危なそうだからね」
「そうだな」
そして、ギルドを出る前。
一瞬だけ、診療所の方角を見た。
そこにリシアはいない。
でも。
置いてきた感覚だけが、胸に残っていた。
地下遺跡。
入口は、森の奥にあった。
石でできた古い門。
半分崩れた柱。
苔。
湿った土の匂い。
空気が重い。
入る前から嫌な感じがした。
「……行くぞ」
「うん」
カイルの声も、いつもより少し低かった。
中へ入る。
薄暗い通路。
湿った空気。
水滴の音。
でも。
おかしい。
静かすぎる。
「……敵の気配、ないな」
リオンが呟く。
「普通なら、低級モンスターくらいいるはずだけど」
カイルも周囲を見る。
嫌な予感がした。
一歩。
また一歩。
進む。
そして、曲がり角を抜けた瞬間。
「――っ」
足が止まった。
そこにあったのは。
大量の死体だった。
低級モンスター。
ゴブリン。
スライム。
虫型。
獣型。
全部、死んでいる。
しかも。
苦悶の表情のまま。
「……なんだよ、これ」
腐臭がない。
血の匂いも薄い。
ただ。
苦しんだ跡だけが残っていた。
まるで。
何かに侵されながら死んだみたいに。
リオンは、無意識に奥歯を噛んでいた。
昨日のリシアの顔が浮かぶ。
苦しそうに息をしていた顔。
涙。
震える指。
もし、これと同じものが。
リシアの中にも入っていたのだとしたら。
「……ふざけんな」
小さく漏れた。
その奥。
暗闇の向こうで。
何かが、ゆっくり動いた。




