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第64話 「OMEN」


 店を出た瞬間だった。

 

 リシアは、足を止めた。

 

 ぴたり、と。

 

 まるで、見えない壁に阻まれたみたいに。

 

「……っ」

 

 小さく息を呑む音。

 

 リオンは聞き逃さなかった。

 

「リシア?」

 

 無反応。

 

 じっと、店の入口を見ている。

 

 顔が白い。

 

 唇の色まで、少し薄くなっている。

 

「おい」

 


 リオンは、リシアの前に立った。

 リシアを、庇える位置に。

 

「何があった?」

 

「……いた」


 

「何が?」

 

「黒い、コートの男」


 

 一拍。


 

「……人じゃ、ない」

 


 その声音は、明らかに怖がっていた。


 

「どこだ?」

 

「……あそこ」


 

 リオンは視線を追った。


 

 人混み。


 

 買い物帰りの客。

 

 紙袋を抱えた女。


 

 店員の呼び込み。

 

 笑い声。


 

 でも。

 

 怪しい男はどこにもいない。


 

「……いねえぞ」

 

「消えた」


 

 リシアの声が、少し震えていた。


 

 その瞬間。

 

 リオンの背中に、冷たいものが走る。


 

「……リシア」

 

 反応が遅い。

 明らかに、無理している。

 

「おい、大丈夫か?」

 

「……大丈夫」

 

「それ、ダメなヤツの返事だぞ」

 


 即答すると、リシアの表情が少し曇った。


 

「…平気」

 

「顔、真っ白だ」


 

「元から」

 

「そういう意味じゃねえ」


 

 リオンはリシアの手を取った。


 


「……冷たい」

 

「……」


 

「手、震えてる」

 

「……少しだけ」


 

「少しじゃねえ」


 

 リオンはリシアの顔を覗き込んだ。


 

「宿、戻るぞ」

 

「……え」


 

「今日は終わり」

 

「でも…」


 

「でもじゃねえ」

 

 少し強く言った。


 

「お前、明らかに変だぞ」

 

「……」


 

「自分じゃ分かってねえだろ」


 

 リシアは黙った。


 

 小さく唇を噛む。

 

 図星だった。


 

 でも。

 

「……もう、少しだけ」


 

 小さく言う。


 

「確認したい」

 

「何を?」


 

「入口にいたなら、店員は見てるかもしれない」


 

 リオンは眉を寄せた。


 

 確かにそうだ。

 

 ここで戻ったら、リシアの気は晴れない。



「……分かった」

 

 リオンは短く言った。


 

「ただし、これが最後だ」

 

「……うん」


 

「絶対だ」

 

「分かってる」


 

「分かってねえ顔してるな」


 

「……してない」

 

「してる」 


 

 リシアは少しだけ目を伏せた。

 

 リオンは、少しだけ息を吐く。


 

「俺が聞く」

 

「……」


 

「いいな?」

 

「……うん」


 

 小さい返事。

 

 納得していない空気。


 

 でも、ひとまず頷いた。


 

 店へ戻る。

 

 レジ奥の店員が顔を上げた。


 

「いらっしゃ――」

 

「すみません」


 

 リオンが割って入った。


 

「さっき、黒いコートの男、来ませんでした?」

 

「え?」


「背が高くて……たぶん、入口の近くにいた」


 

 言いながら、リオンは言葉に詰まった。


 

 特徴が少ない。

 

 黒いコート。

 

 背が高い。

 

 それだけで誰か分かるなら苦労しない。


 

 案の定、店員は困ったように笑った。


 

「ええと……すみません。毎日かなりのお客様が来るので……」

 

「……ですよね」


 

 リオンは小さく息を吐いた。


 

 普通なら、ここで詰みだ。


 

 けど。

 

 ふと、頭に浮かんだ。


 

 繋げばいい。  


 

 店員の感覚に。

 

 記憶に。

 

 さっきの入口を見た視界に。 


 

「……リオン?」

 

 リシアが気づいた。


 

 でも。

 

 もう遅い。


 

「…やってみるか」

 

 リオンは意識を沈めた。


 

 境界。

 

 自分と他人の間。

 

 それを、少しだけズラす。


 

【LOG】

対象:接続中

同期率:12%


 

 ノイズ。

 

 耳鳴り。


 

 視界の端が揺れる。

 

 でも、止めない。


 

 もっと深く。


 

【LOG】

同期率:34%

感覚共有:開始


 

 ――流れ込む。

 

 立ちっぱなしの足。


 

 制服の擦れる感覚。

 

 頬に貼りついた接客用の笑顔。


 

 レジ音。

 

 硬貨の音。


 

 知らない香水。

 

 客の声。


 

 疲労。

 

 足の痛み。


 

 面倒くさい。

 

 早く休憩に入りたい。

 

 いらっしゃいませ。

 

 ありがとうございました。

 

 いらっしゃいませ。

 

 ありがとうございました。


 

 何度も。

 

 何度も。


 

 他人の一日が、頭の中に流れ込む。


 

「……っ」


 

 気持ち悪い。

 

 自分じゃない感覚が、頭の中で響いている。


 

【WARNING】

境界曖昧化


 

 それでも探す。 


 

 黒いコート。 

 

 入口。 


 

 少し前。

 

 記憶の奥。


 

 見えろ。

 

 見せろ。


 

 リシアを怯えさせたものが、何なのか。


 

 その瞬間。 


 

【ERROR】

Record : Undefined


 

 ログが乱れる。


 

 ノイズ。

 

 文字化け。


 

 視界が、一瞬白くなる。


 

 そして。


 

【最上位ログ】

共有〈シンク〉

状態:完全接続

実行:成功


 

 一瞬だけ。

 

 別の表示が割り込んだ。


 

【Record Blade】

status:lock


 

「……は?」


 

 ぶつり、と。

 

 接続が切れた。


 

「っ……!」 


 

 店員が怪訝な表情でリオンを伺う。 


 

「あ、あの……大丈夫ですか?」

 

「あ……悪い」


 

 リオンは額を押さえた。


 

 頭が重い。

 

 けど、有益なものは拾えなかった。


 

 黒い影のようなもの。

 

 入口を通った気配。


 

 それだけ。


 

 顔も、声も、歩き方も。

 

 曖昧すぎる。


 

 でも。

 

 問題はそこじゃなかった。


 

 今のログ。


 

 共有〈シンク〉。

 

 完全接続。

 

 そして、最後に割り込んだ表示。


 

 あれは何だ。


 

「……リオン」 


 

 リシアの声がした。 


 

 振り向く。

 

 その瞬間、リオンの中で血の気が引いた。


 

 リシアが頭を押さえていた。


 

 指先が震えている。

 

 呼吸が乱れている。


 

 立っているのも、やっとに見えた。


 

「おい!」


 

 リオンはすぐに駆け寄った。


 

「何やったんだよ!」

 

「……アナライズ」

 

「はぁ!?」


 

「ログ、追えそうだったから……」

 

「無茶するなって!」


 

 思ったより強い声が出た。


 

 店員がびくっと肩を揺らす。

 

 でも、そんなこと気にしてる余裕はなかった。


 

 リオンはリシアの肩を支える。


 

 軽い。

 

 力が入っていない。


 

「だから言っただろ」

 

「……少しだけなら」


 

「少しでこれかよ」

 

「……」


 

「顔見ろ。真っ白だぞ」

 

「……見えない」 


 

「そんな事、言ってる場合か」


 

 リシアが少しだけ目を伏せる。

 

 悔しそうだった。


 

 けど、否定できない顔だった。


 

「帰るぞ」

 

「…まだ…」


 

「まだじゃねえ」

 

「でも」


 

「いいから」


 

 リオンはそこで言葉を切った。

 

 もう、交渉する気はなかった。


 

「…歩けるとか、言うつもりだろ」

 

「……」


 

「図星か」

 

「……ちょっと、だけ」


 

「だめだ」


 

 リオンは小さく舌打ちして、リシアに背を向けた。


 

「ほら」

 

「……え」


 

「おぶる」

 

「歩ける」


 

「ふらついてる」

 

「……」


 

「いいから。倒れてからじゃ遅ぇんだよ」


 

 リシアは少しだけ迷った。


 

 けれど、すぐに諦めたように、リオンの背中へ身体を預けた。 


 

 軽い。

 

 本当に軽い。


 

「……ちゃんと食ってんのか、お前」

 

「食べてる」


 

「嘘だな」

 

「嘘じゃない」


 

「じゃあもっと食え」

 

「……今それ言う?」


 

「今だからな」


 

 背中越しに、リシアの息がかかる。


 

 熱い。

 

 でも、体は冷えていた。


 

 リオンは眉を寄せる。 


 

「寒いか」

 

「……少し」

 

「少しじゃねぇだろ」


 

 自分の上着を少しずらして、リシアの腕にかける。


 

「リオンが寒い」

 

「なんてことない」 


 

「……」

 

「風邪ひかれるよりマシ」


 

 店員に軽く頭を下げ、店を出る。


 

 夕方の空気が冷たい。

 

 街はまだ騒がしい。


 

 でも、リオンの意識は背中に向いていた。


 

 呼吸。

 

 体温。


 

 腕の力。

 

 少しでも弱くなったら、すぐ分かるように。


 

「……眠いのか」

 

「……ちょっと」


 

 掠れた声。

 

 かなり限界に近い。


 

「とりあえず寝ろ」

 

「…平気」

 

「平気じゃねえだろ」

 

「……大丈夫」

 

「その“大丈夫”はもう禁止」

 

「禁止?」

 

「禁止」


 

「……勝手」

 

「倒れそうなやつに説得力ねえ」


 

 リシアが背中で少しだけむっとする気配。


 

「……む」

 

「む、じゃねえ」


 

「子供扱い」

 

「今のお前は半分病人」


 

「そこまでじゃない」

 

「ふらついてた」


 

「……」

 

「頭押さえてた」


 

「……」

 

「顔真っ白」


 

「……」

 

「反論できねぇだろ」


 

 背中で、小さく息を吐く音がした。


 

 それから。

 

 こて、と。


 

 額がリオンの肩へ預けられる。


 

「……リオン」

 

「なんだよ」


 

「……あったかい」

 

「そりゃ人間だからな」


 

「……落ち着く」


 

 小さい声。

 

 妙に素直だった。


 

 だから余計に心配になる。

 

 いつものリシアなら、こんなに素直に甘えない。


 

 それだけ弱っているということだ。


 

「……いいから寝ろ」

 

「……うん」


 

 今度はちゃんと頷いた。


 

 でも。

 

 その後、背中へぎゅっと腕が回る。


 

「……五分だけ」

 

「…仕方ねぇな」


 

「……リオンが甘やかすから」

 

「今はいいだろ」


 

 リシアが少しだけ笑った気配がした。


 

「……過保護」

 

「うるせぇ」


 

 即答。

 

 でも。

 

 歩く速度は、さらに少しだけ遅くなった。


 

 宿へ戻る。

 

 階段を上がる。


 

 古い木の軋む音。

 

 夕方の薄暗い廊下。


 

 部屋の前。

 

 リオンは片手でリシアを支え直しながら、鍵を開けた。


 

「落ちるなよ」

 

「落ちない」


 

「信用できねえ」

 

「……しつこい」


 

「今だけな」


 

 扉を押し開ける。

 

 リシアを背負ったまま中へ入る。


 

 ベッドの横まで行って、ゆっくり膝を折った。


 

「降りれるか」

 

「……ん」


 

 でも。

 

 リシアは離れなかった。


 

 背中へくっついたまま。


 

「……リシア」

 

「……あと少し」


 

「お前なぁ」


 

 困ったように息を吐く。

 

 けれど、無理やり剥がしたりはしない。


 

 数秒。

 

 静かな時間が落ちる。


 

 それからようやく、リシアがゆっくり離れた。


 

 ベッドへ座る。

 

 少しふらつく。


 

「ほら見ろ」

 

「……大丈夫」


 

「大丈夫じゃねぇだろ」


 

 リオンはすぐに水を取った。


 

 カップへ注ぐ。

 

 手渡す前に、一度自分で温度を確かめる。


 

「冷たすぎるか」

 

「平気」


 

「一口だけでも飲め」

 

「……うん」


 

 リシアが水を飲む。


 

 その間に、リオンは窓を閉めた。

 

 カーテンを引く。


 

 毛布を引っ張る。

 

 枕の位置を直す。


 

 椅子をベッドの横へ寄せる。


 

 完全に世話焼きだった。


 

「頭痛は」

 

「……少し」


 

「目は」

 

「……少し重い」


 

「吐き気」

 

「ない」


 

「寒気」

 

「……少し」


 

「あるじゃねえか」


 

 リオンは毛布をもう一枚かけた。


 

「暑かったら言え」

 

「……うん」


 

「我慢すんな」

 

「……うん」


 

「ほんとに言えよ」

 

「……リオン、うるさい」


 

「心配してんだよ」


 

 即答。

 

 リシアは少し黙った。


 

 それから、ほんの少しだけ笑う。


 

「……知ってる」


 

 その声が。

 

 少しだけ安心したみたいで。


 

 だから余計に。

 

 リオンは、無茶を簡単には許せなかった。


 

「とりあえず寝ろ」


 

「……リオンは」

 

「ここにいる」


 

「……ほんと?」

 

「嘘ついてどうすんだよ」


 

「……なら寝る」

 

「条件付きかよ」


 

 リシアは目を閉じた。

 

 白い髪がシーツへ広がる。


 

 呼吸はまだ浅い。

 

 でも。


 

 さっきよりは、少し落ち着いている。


 

 リオンは椅子へ腰を下ろした。


 

 水の位置を確認する。

 

 毛布の端を直す。


 

 もう一度、リシアの顔色を見る。


 

 大丈夫。

 

 たぶん、さっきよりは。


 

「……無茶ばっかりしやがって」


 

 小さく呟く。

 

 でも、その声には。


 

 少しだけ安心が混じっていた。


 

 頭の奥は、まだ重い。


 

 共有〈シンク〉。

 

 完全接続。


 

 あれだけでも異常だ。


 

 なのに。

 

 最後に一瞬だけ見えた、知らない表示。


 

 それが、妙に引っかかっている。


 

「……なんだよ、あれ」


 

 答えはない。

 

 リオンは小さく息を吐く。


 

 そして、もう一度ベッドを見る。

 

 リシアは目を閉じたまま、浅く呼吸していた。


 

 今は、それでいい。

 

 考えるのは後でいい。


 

 まずは。

 

 こいつを休ませる。


 

 それだけだった。

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