第63話 「アナライズ」
図書館は静かだった。
静かな昼過ぎ。
窓から差し込む光が、長い机を柔らかく照らしている。
古い紙の匂い。
乾いた木の匂い。
遠くで誰かがページをめくる音。
静かだった。
なのに。
今日は妙に落ち着かない。
「……なんか変なんだよな」
頬杖をつきながら、リオンがぼそっと呟いた。
向かい側。
分厚い本を開いていたリシアが、リオンを見る。
「……リオンも?」
「“も”ってことは、お前もか」
リシアが小さく頷く。
白い髪が肩へ落ちた。
今日は、ページをめくる手が少し遅い。
集中できていない。
たぶん、向こうも同じだ。
「なんか」
一拍。
「近い」
「近い?」
「……ずっと、リオンが近くにいる感じがする」
その言葉に。
リオンの胸の奥が、少しざわついた。
頭の奥。
微弱なノイズ。
意識すると分かる。
リシアがどこにいるか。
今、どうしているか。
ぼんやり。
感覚だけで伝わってくる。
近い。
手を伸ばしているわけでもない。
隣に座っているわけでもない。
なのに、妙に近い。
気味悪い。
そう思うべきなのに。
不思議と、嫌じゃなかった。
「……気味悪くねえ?」
なんとなく聞いた。
言ってから、少しだけ後悔した。
もし、リシアが嫌だと言ったら。
もし、気持ち悪いと言ったら。
この近さが、急に怖くなる気がした。
けれど。
リシアは少しだけ瞬きした後、すぐに答えた。
「別に」
「即答だな」
「嫌なら離れてる」
「確かに」
リオンが小さく笑う。
胸の奥にあった変な力が、少しだけ抜けた。
リシアも、少しだけ口元を緩める。
前より、こういう顔をする回数が増えた。
そのことに気づいて。
リオンは、少しだけ視線を逸らした。
窓の外で風が鳴る。
ページが揺れる。
静かな時間。
なのに。
頭の奥だけ、ずっと騒がしい。
昨日。
接続した時から。
何かがおかしい。
「……なあ」
「なに?」
「昨日」
一拍。
「どうやって繋がったと思う?」
リシアの指が止まる。
ページの端を押さえていた白い指先が、少しだけ強張った。
「……分からない」
「だよなぁ」
リオンは椅子へ深く座り直した。
あの時。
確かに繋がった。
感覚。
空気。
思考。
一瞬だけ。
境界が曖昧になった。
自分の中に、自分じゃないものが流れ込んだ。
それが怖かった。
でも。
リシアだったから、耐えられた。
「……もう一回やってみる?」
リシアが小さく言う。
「お前最近、平気で危ないこと言うよな?」
「リオンよりマシ」
「便利だなその返し」
少し笑う。
けれど、リシアの目は笑っていなかった。
怖くないわけじゃない。
きっと、リシアだって怖い。
自分の中にあるものを覗くことも。
誰かと繋がってしまうことも。
それでも、確かめようとしている。
その横顔を見て、リオンは小さく息を吐いた。
止めたい。
でも。
試したいのは、自分も同じだった。
リオンは目を閉じる。
昨日の感覚。
繋がった瞬間。
理解しすぎない。
固定しない。
ただ。
“触れる”。
【ログ】
状態:接続準備
ノイズ。
頭の奥で何かが揺れる。
その瞬間。
「――待って」
リシアが突然顔を上げた。
声が少し強い。
珍しい。
その声に、リオンの胸が跳ねた。
「ん?」
リシアはリオンを見ていない。
空中。
そこに表示されているログを見ていた。
顔色が変わる。
【ログ】
Subroutine: Link
対象検索中
「リオン、止めて…」
止めようとする。
でも。
遅かった。
【接続成立】
対象:不明
「――っ」
ノイズ。
一気に流れ込む。
重い。
眠い。
肩痛ぇ。
仕事だる。
煙草吸いてぇ。
「……は?」
リオンが顔をしかめる。
自分のものじゃない。
明らかに違う。
知らない誰かの感覚。
知らない疲労。
知らない苛立ち。
頭の中に、他人の生活の匂いが混ざってくる。
同時に。
少し離れた席。
スーツ姿の男が突然顔を上げた。
「……?」
目が合う。
知らない男。
疲れた顔。
目の下に薄い影。
指先に残る煙草の匂いの記憶。
だが。
一瞬だけ。
確かに繋がった。
「え、ちょ……成功した?」
「たぶん……」
「たぶんってなんだよ!?」
リシアも少し驚いていた。
珍しい。
完全に想定外らしい。
いつもなら静かに受け止めるリシアが、今は明らかに動揺している。
それを見て、リオンは逆に少し怖くなった。
リシアが分からないものを、自分は今、触っている。
男は不思議そうに周囲を見回したあと、また本へ視線を戻した。
向こうは分かっていない。
でも。
リオンの中にはまだ残っていた。
知らない人間の疲労感。
だるさ。
煙草の匂いの記憶。
「……気持ち悪」
反射的に頭を振る。
「どうやって切るんだこれ」
「逆」
「逆?」
「繋ぐんじゃなくて、離す」
リシアの声は静かだった。
でも、少しだけ焦りが混じっていた。
リオンはそれに気づいて、口を閉じる。
余計なことを言うより、今は切る方が先だ。
接続。
重なり。
境界の曖昧化。
じゃあ逆は。
戻す。
切り離す。
境界を戻す。
その瞬間。
【接続解除】
ノイズが消えた。
「……切れた」
「ほんとだ……」
リシアも、ホッとしたように息を吐く。
その顔を見て。
リオンは少しだけ肩の力を抜いた。
「……なら、お前とのも切れるか?」
「たぶん」
試す。
意識を向ける。
分離。
切断。
戻す。
【ERROR】
対象:観測者
状態:接続維持
「……は?」
切れない。
もう一度。
ダメ。
まだいる。
リシアの気配。
近い。
頭の奥に、静かな灯りみたいに残っている。
近すぎる。
なのに。
嫌じゃない。
それが余計に、リオンを困らせた。
「なんで切れねえんだよ」
「……分からない」
リシアも少し眉を寄せる。
困っている。
でも、怯えてはいない。
むしろ。
ほんの少しだけ、安心しているようにも見えた。
「こんなの、普通じゃない」
「今さらだろ」
「確かに」
少し笑う。
不安なはずなのに。
妙に空気が軽かった。
変な感じだ。
こんなの絶対危ない。
なのに。
嫌じゃない。
「……まあ」
リオンが椅子へ背を預ける。
「今んとこ困ってねえし」
「適当」
「考えても分かんねえもんは分かんねえ」
「リオンっぽい」
「褒めてねえだろ」
「半分くらい」
「半分かよ」
また少し笑う。
静かな図書館。
でも。
昨日までより、空気が柔らかかった。
隣にいなくても、近い。
触れていなくても、届いている。
それを危険だと思う自分と。
少しだけ安心している自分がいる。
リオンは、その感情を、上手く言葉に出来なかった。
その時。
「……っ」
リシアが少し顔をしかめた。
ほんの少し。
でも。
リオンはすぐ気づいた。
「おい」
「……なに」
「無理してるだろ」
「してない」
「してるやつは、大体そう言うんだ」
「……」
「図星かよ」
リシアが少しだけ視線を逸らす。
顔色が少し白い。
まだ病み上がりだ。
なのに朝からずっと観測している。
昨日からずっと、何かに触れ続けている。
リオンの中で、また胸の奥がざらついた。
「今日はここまでにしとけ」
「まだ大丈夫」
「ウソつけ」
「なんで」
「お前、自分を雑に扱い過ぎなんだよ」
リシアが少し黙る。
言い返さない。
それが答えみたいなものだった。
でも。
少しだけ、嬉しそうだった。
心配されることに慣れていない顔。
それをどう受け取ればいいか分からない顔。
リオンは、少しだけ視線を逸らす。
真正面から見ると、何か余計なことを言ってしまいそうだった。
「……図書館だと危ねえな」
「うん」
普通の人がいる。
さっきみたいに巻き込むのはまずい。
リオンは立ち上がった。
「場所変えるか」
街へ出る。
昼下がり。
風が少し冷たい。
カフェは思ったより空いていた。
奥の席。
コーヒーの匂い。
静かな音楽。
窓際の光。
図書館よりも少しだけ、人の気配が柔らかい。
向かい側では、若い女性がノートPCを開いていた。
疲れた顔。
仕事中らしい。
リシアが小さく視線を向ける。
「……試す」
「まだやるのかよ」
「ちょっとだけ」
「その“ちょっと”、信用できねえ」
「リオンに言われたくない」
「ぐっ……」
軽く返しながらも、リオンはリシアの手元を見ていた。
指先が少し震えている。
隠そうとしている。
見ないふりをしてやるべきか。
止めるべきか。
迷う。
リシアは目を閉じる。
空気が変わる。
観測状態。
【ログ】
接続深度:上昇
観測経路:拡張
Subroutine: Chain
Record: Undefined
→ EXECUTE
→ FAILED
補助処理へ移行
【干渉ログ】
解析視〈アナライズ〉
状態:不完全成立
「……鎖?」
リオンが小さく呟く。
成立している。
でも、ただの観測じゃない。
何かを繋ぎ止めようとしている。
リシアの呼吸が少し浅くなる。
【思考取得開始】
その瞬間。
「――っ」
リシアが突然目を見開いた。
情報。
一気に流れ込む。
締切。
メール。
既読。
SNS。
疲れた。
帰りたい。
仕事。
眠い。
不安。
視線。
感情。
断片。
多すぎる。
「……っ、ぁ……」
リシアが目頭を押さえた。
呼吸が乱れる。
白い指先が少し震えていた。
「おい」
リオンがすぐ立ち上がる。
「……うるさい」
掠れた声。
「整理、できない……」
その声を聞いた瞬間。
リオンの中で、何かが強く引っかかった。
嫌だった。
リシアが苦しんでいるのに、何もできない事が。
見えているのに、届かない事が。
リオンはすぐリシアの肩へ手を置いた。
「今日は終わり」
「……まだ」
「ダメだ」
思ったより強い声が出た。
店内の客が少しこちらを見る。
でも構わなかった。
「顔真っ白だぞ」
「……」
「無理すんな」
リシアが少し黙る。
それから。
「……過保護」
「……うるせぇ」
言い返した声は、少し低かった。
本当は、もっと強く止めたかった。
怒りたいわけじゃない。
でも、怖かった。
自分の知らないところで、リシアが壊れていくみたいで。
その怖さを、うまく言葉にできなかった。
リオンはリシアのカップを引き寄せて、勝手に砂糖を入れた。
「甘い方がマシだろ」
「子供扱い」
「今フラついてたやつが言うな」
「……ちょっと入れすぎ」
「文句言えるなら平気だな」
リシアが少しだけ笑う。
本当に少しだけ。
でも。
その顔を見て。
リオンは少し安心した。
その時だった。
リシアの表情が止まる。
視線が、ゆっくり店の入口へ向いた。
「……リシア?」
返事がない。
顔色が変わる。
白く。
冷たく。
次の瞬間。
【ログ】
観測者接近
整合性:不明
ノイズ。
今までとは比べ物にならないほど強い。
頭の奥で、何かが軋んだ。
リオンは反射的に立ち上がりかけた。
でも。
身体が、一瞬だけ遅れた。
リシアが、息を呑む。
怖がっている。
明らかに。
理由も分からないまま、心の底から怯えている。
その反応だけで、リオンの胸の奥が冷えた。
そして。
店の入口で。
黒いコートの男が、ゆっくりこちらを見ていた。
その目だけが。
異様な光を宿していた。




