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第62話 「共鳴」

 図書館は静かだった。


 昼を少し過ぎた時間。


 高い窓から差し込む光が、長い机の上を白く照らしている。


 古い紙の匂い。


 乾いた木の匂い。


 遠くで、誰かがページをめくる音。



 嫌いじゃない。



 むしろ、落ち着く場所のはずだった。



 けれど。



 静かすぎる。



 何も起きていない時間が続くと、逆に落ち着かない。



 リオンは窓際の席で頬杖をつきながら、ぼんやり天井を見上げていた。



「……お前、ほんと集中力あるよな」


 向かい側。


 分厚い本を開いたまま、リシアが視線だけを上げた。



「リオンが落ち着きないだけ」


「否定しづらい返しやめろ」



 小さく返すと、リシアはまた本へ視線を戻した。



 白い髪が、肩へ静かに落ちる。


 横顔はいつも通り淡々としている。



 でも、まだ少し顔色が悪い。



 退院して数日。


 歩ける程度には回復した。


 話もできる。


 食事も取れる。



 けれど、完全に戻ったわけじゃない。



 それなのに、リシアは朝からずっと本を読んでいる。


 かなり集中して。


 まるで、時間を取り戻そうとしているみたいに。



「……ほんとに大丈夫か」



 気づいた時には、口から出ていた。



 リシアの指が、ページの上で少し止まる。



「大丈夫」


「信用できねえな、その返事」


「なんで」


「病み上がりのやつ全員そう言うから」



 リシアは少しだけ黙った。


 それから、小さく息を吐く。



「……心配しすぎ」


「お前が無茶するからだろ」


「リオンほどじゃない」


「それはまあ、そう」



 即答すると、リシアがほんの少しだけ口元を緩めた。



 本当に少しだけ。



 でも、前よりそういう表情を見る回数が増えた気がする。



 窓の外で風が鳴る。


 ページが微かに揺れる。



 静かな時間だった。



 なのに、リオンの頭の奥はずっと落ち着かない。



 あの日から。



 ログの見え方が、少し変わった。



 世界の揺らぎ。


 記録のズレ。


 触れたものと、触れている感覚のわずかな遅れ。



 今まで気づかなかったものが、少しずつ視界の端へ滲み始めている。



 そして今。



 リシアが読んでいる本にも、同じような言葉が並んでいた。



 観測。


 未確定。


 干渉。


 整合性。


 接続。



 意味はまだ全部分からない。



 でも、もう完全に他人事ではなかった。



「……なあ」


「なに」


「観測でログ見えるんだろ」


「うん」


「だったらさ」



 少し考える。



 言葉にすると、急に曖昧になる。



 でも。



 あの時。



 確かに、“繋がった感覚”があった。



 リシアが苦しんでいた時。


 自分の中へ、ほんの一瞬だけ別の感覚が流れ込んだ。



 呼吸。


 痛み。


 焦り。



 自分のものではないはずなのに、なぜか近かった。



 あれが、ずっと頭に残っている。



「……他人のログって、見れねえのか?」



 リシアの手が止まった。



 ページを押さえていた白い指先が、少し固まる。



「……普通は、無理」



 静かな声だった。



「観測って、自分を基点にするから」


「他人を直接見るのは、たぶんできない」


「たぶん?」


「……例外はある」



 一拍。



 リシアはゆっくり目を上げた。



「繋がってる時なら」



 その言葉で、頭の奥にあの感覚が蘇った。



 ノイズ。


 空白。


 一瞬だけ流れ込んできた、知らない感覚。



「……あの時か」



 リシアが小さく頷く。



「たぶん」



 短い返事。



 でも、その目は真剣だった。



「……試してみる?」


「できんのか?」


「分からない」



 リシアは本を閉じる。



 小さな音が、机の上に落ちた。



「でも、価値はあると思う」



 リオンは少しだけ笑った。



「お前、たまに危ねえこと普通に言うよな」


「リオンほどじゃない」


「便利だな、それ」


「事実だから」



 少しだけ間が空く。



 静かだった。



 でも、嫌な沈黙ではない。


 前みたいに、張り詰めた空気でもない。



 リオンは椅子から立ち上がった。



「……じゃ、やるか」



   ◇



 図書館の奥に、ほとんど使われていない閲覧室があった。



 薄暗い空気。


 古い机。


 閉め切られた窓。



 人の気配はない。


 外の音も遠い。



 リオンとリシアは、向かい合って座った。



 距離が近い。



 机を挟んでいるはずなのに、妙に近く感じる。



「……で、どうすんだ」


「落ち着いて」


「毎回それ言うな」


「大事だから」



 リシアが目を閉じる。



 呼吸が静かになる。



 空気が少し変わった。



 観測状態。



 以前は分からなかった。


 でも今は、少しだけ分かる。



 リシアの周囲だけ、空気の密度が変わる。


 音が遠ざかる。


 輪郭が、細く研がれる。



「……あの時の感覚、覚えてる?」


「なんとなくは」


「理解しようとしないで」


「固定される、だろ」



 リシアが少しだけ目を開ける。



「……覚えてたんだ」


「何回も聞いたからな」



 小さく笑う。



 リシアも、少しだけ肩の力を抜いた。



 リオンは目を閉じる。



 呼吸。


 静けさ。


 遠くでページをめくる音。



 意識を沈める。



 深く。



 頭の奥へ。



【ログ】

対象:周囲

状態:静穏



 見える。



 ノイズ。



 揺らぎ。



 机。


 椅子。


 古い紙。


 窓の光。



 そして。



 目の前。



 リシア。



 静かな呼吸。


 白い髪。


 伏せられた睫毛。



 その奥。



 何かがある。



 触れられそうで。



 でも遠い。



「……もう少し」



 リシアの声。



 少し掠れていた。



 集中している。



 リオンは意識を伸ばす。



 繋がる。



 あの時みたいに。



 ほんの少し。



 近づく。



 近づきすぎないように。


 でも、遠ざからないように。



 その瞬間。



【ログ】

対象:観測者

状態:接続反応



 ――繋がった。



「……ッ」



 一瞬だけ。



 感覚が混ざる。



 冷たい空気。


 白い光。


 誰かの声。


 知らない感情。



 不安。



 焦り。



 寂しさ。



 胸の奥を、細い糸で引かれるような感覚。



 違う。



 これは、自分のものじゃない。



 リシアの――



「っ……!」



 リシアが突然、頭を押さえた。



 椅子が揺れる。



「おい!」



 リオンは反射的に立ち上がる。



 リシアの呼吸が乱れていた。


 顔色が悪い。


 額に汗。


 指先も、少し震えている。



「……だいじょぶ」


「全然大丈夫そうじゃねえ」



 リオンは小さく舌打ちした。



 胸の奥に、嫌な感覚が残っている。



 さっき流れ込んできたもの。



 リシアの感情。



 いや、感情と呼ぶには薄い。



 もっと奥にある、癖みたいなもの。



 怖さ。


 諦め。


 慣れてしまった痛み。



 それを見た気がして、腹の底が冷えた。



「今日は終わり」


「……まだいける」


「ダメだ」



 思ったより強い声が出た。



 リシアが少し黙る。



 それから、小さく頷いた。



「……分かった」



 その返事に、リオンは少しだけ息を吐いた。



 しばらく、誰も喋らなかった。



 静かな閲覧室。



 古い木の匂い。


 閉め切られた空気。



 けれど、居心地は悪くない。



 リシアは少し俯いたまま、呼吸を整えている。



 リオンは隣に立ったまま、何か言おうとして。



 やめた。



 代わりに、少しだけ椅子を引いた。



「……腹減った」



 ぽつりと呟く。



 リシアが少し顔を上げた。



「珍しい」


「人を燃費悪い生き物みたいに言うな」


「違うの?」


「否定できないのが腹立つ」



 リシアが少し笑う。



 本当に少しだけ。


 でも、前より自然だった。



「なんか食いに行くか」



 一瞬、リシアが考える。



「……そういう店、慣れてない」


「俺もだ」


「じゃあ、なんで誘ったの」


「なんとなく」


「適当」


「今さらだろ」



 また少しだけ笑う。



 それで十分だった。



   ◇



 二人は図書館を出た。



 夕方を過ぎた街は、昼間より少し静かだった。



 石畳に残った雨の跡が、街灯の光を薄く反射している。



 選んだ店は、思ったより落ち着いていた。



 人は少ない。



 暖かい匂い。


 食器の音。


 小さな話し声。



 しばらく、静かに食べた。



 無理に喋る感じでもない。



 でも、気まずさはなかった。



 リオンはパンを千切りながら、ふと呟いた。



「……ちゃんとした飯、久しぶりかも」



 リシアがスープを飲みながら、小さく頷く。



「……屋台ばっかだったから」


「あー……」



 妙に納得した。



 それから、また静かになる。



 でも、嫌な沈黙じゃない。



 向かい側で、リシアが少しだけ力を抜いているのが分かった。



 そのことに、なぜか少し安心した。



   ◇



 宿へ戻る頃には、街の灯りも減っていた。



 夜の空気は冷たい。



 部屋へ入る。



 静かな夜。



 リシアはベッドへ腰を下ろす。



 少し疲れている顔だった。



「……今日はちゃんと休め」


「リオンも」


「俺は平気」


「そういう人が一番危ない」


「お前にだけは言われたくねえ」



 リシアが、小さく息を漏らした。



 笑ったのか、呆れたのか。



 たぶん、少しだけ両方だった。



 静かな夜だった。



 けれど。



 眠る直前。



 リオンの頭の奥で、ノイズが鳴った。



 一瞬だけ。



 誰かの呼吸が聞こえた気がした。



 隣の部屋。



 いや。



 もっと近い。



 同じ瞬間。



 壁の向こうで、リシアがゆっくり目を開ける。



 何かを感じたみたいに。



 静かな夜だった。



 だが。



 ふたりの中で、確実に何かが動き始めていた。

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