第61話 「兆し」
退院の日は、妙に晴れていた。
数日降り続いていた雨が嘘みたいに、空が青い。
診療所の扉を開けた瞬間、湿った風が頬を撫でた。
雨上がり特有の匂いが、まだ街に残っている。
石畳は薄く濡れていて、水溜まりに灰色の空が揺れていた。
「……寒」
小さく肩をすくめる。
その瞬間。
ふわりと、黒い上着が頭から被せられた。
「……」
顔を上げる。
目の前。
少し不機嫌そうな顔のリオン。
「病み上がりだろ」
「……そこまで弱ってない」
「医者は安静にしろって言ってた」
「……」
リシアは少しだけ黙る。
そのあと、小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
リオンが少しだけ視線を逸らす。
「別に」
短い返事。
でも。
診療所にいる間、ずっとこんな感じだった。
水を持ってくる。
薬を確認する。
食事を運ぶ。
寝ろ。
無理するな。
ちゃんと食え。
最初は少し大袈裟だと思っていた。
でも。
あの日、遺跡で倒れてから。
リオンは明らかに変わった。
まるで、一瞬でも目を離したら、また自分が倒れると思っているみたいに。
「……」
診療所の階段をゆっくり降りる。
数段降りただけなのに、少しだけ息が上がる。
胸の奥が、まだ鈍く重い。
完全には戻っていない。
そういう感覚だけが、身体の奥に残っていた。
「……おい」
不意に声が飛ぶ。
「段差」
「……」
視線を戻す。
いつの間にか、目の前に小さな段差があった。
一瞬、反応が遅れる。
その前に。
リオンの足が少しだけ止まった。
自分が躓く前提みたいに。
「……大丈夫」
そう言って段差を降りる。
リオンは何も言わなかった。
でも、完全には安心していない顔をしている。
その反応が、少しだけ可笑しかった。
「……リオン」
「ん?」
「……心配しすぎ」
ぽつりと呟く。
その声に、リオンが少しだけ眉を寄せた。
「誰のせいだと思ってんだ」
低い声。
でも、本気で怒っているわけじゃない。
リシアは小さく視線を落とす。
胸の奥が、少しだけ温かい。
同時に。
少しだけ申し訳なくもなった。
あの日。
自分が苦しんでいた時。
リオンの声は、少しだけ震えていた。
あんな声、初めて聞いた。
多分。
怖かったんだと思う。
自分を失うのが。
「……」
外へ出る。
雨上がりの街は静かだった。
人通りも少ない。
遠くで店を開ける音だけが聞こえる。
「……それで」
歩きながら、リオンが口を開く。
「今日、本当に来る必要あったのか?」
「……ある」
「まだ完全じゃねえだろ」
「……だから」
リシアが前を見る。
「……今しか出来ないことやる」
「今しか?」
「……身体動かせないなら、別のことやる」
風が吹く。
白い髪が少し揺れた。
「……観測の訓練」
「訓練?」
「……もっと深い方」
リオンが少し眉を寄せる。
リシアは少しだけ空を見る。
青空の向こう。
流れる雲を眺めるみたいに。
「……父が言ってた」
「“本物の観測者は、表示されたログだけ見ない”って」
その言葉に、リオンが少し黙る。
リシアが、自分から父親の話をするのは珍しかった。
「……ログの流れを見るの」
「流れ?」
「……どうして、その結果になったのか」
「……どこから干渉されたのか」
「……何が繋がってるのか」
一拍。
「……そういうのを見る」
静かな声だった。
でも。
その横顔は少しだけ真剣だった。
リオンは小さく息を吐く。
正直、難しいことはよく分からない。
でも。
リシアが、“あの化け物たち”を見て変わったのは分かった。
グラディス。
アヴェル。
旧アーカイブ。
あれは、自分たちとは違う。
なら。
こっちも変わらなきゃいけない。
その焦りみたいなものが、リシアから少しだけ伝わってきていた。
「……無理すんなよ」
ぽつりとリオンが言う。
「……うん」
小さく返事をする。
「……でも、止まってる時間もない」
その声は静かだった。
静かだけど。
ちゃんと前を向いている声だった。
リオンは少しだけ黙る。
そのあと、小さく息を吐いた。
「……なら俺もやる」
「?」
「お前一人でやるよりマシだろ」
「……観測、出来るの?」
「出来ねえ」
即答。
リシアが少しだけ目を細める。
その反応を見て、リオンが少しだけ肩を竦めた。
「でも、あっただろ」
「……?」
「あの時」
リオンが少しだけ視線を落とす。
「なんか、変な感覚」
遺跡。
あの極限状態。
一瞬だけ。
リシアの痛みが、自分の中へ流れ込んできた気がした。
呼吸。
焦り。
苦しさ。
全部が、一瞬だけ近かった。
上手く説明出来ない。
でも。
確かに、何かが繋がった感覚があった。
「……」
リシアが少しだけ黙る。
実は、自分も感じていた。
あの時。
一瞬だけ。
リオンの感覚が、近かった。
まるで。
呼吸が重なるみたいに。
「……気のせいかもしれない」
リオンが言う。
「でも、試してみる価値はあるだろ」
「……うん」
リシアは小さく頷いた。
その時だった。
不意に。
リシアが立ち止まる。
「……?」
「どうした」
リオンが聞く。
リシアは少しだけ遠くを見る。
誰もいない路地。
でも。
一瞬だけ。
そこに、“ノイズ”が走った気がした。
「……」
視界の端。
何かが揺れた。
黒い影。
いや。
違う。
“記録のズレ”。
その感覚だけが、妙にはっきり残る。
「……リシア?」
「……今」
言いかけて、止まる。
分からない。
でも。
今まで見えていなかったものが、少しだけ見えた気がした。
まるで。
世界の裏側が、一瞬だけ覗いたみたいに。
「……なんでもない」
小さく首を振る。
「……行こ」
「……ああ」
再び歩き出す。
だが。
リシアはまだ知らない。
自分の“観測”が、少しずつ変わり始めていることに。




