エピローグ
雨が降っていた。
静かな雨だった。
診療所の窓を、水滴がゆっくり流れていく。
白い天井。
薄い薬品の匂い。
遠くで聞こえる足音。
どこにでもあるような、小さな診療所。
でも。
リオンはここ数日、ほとんどここから動いていなかった。
「……ほら」
小さく声をかける。
ベッドの上。
リシアが少しだけ嫌そうな顔をした。
「……いらない」
「駄目だ。薬飲めって言われてただろ」
「……苦い」
「子供か」
呆れながら、水の入ったコップを差し出す。
リシアはしばらく睨むように見ていたが、観念したように小さく息を吐いた。
「……」
受け取る。
薬を飲む。
案の定、少し顔をしかめる。
「……苦い」
「知るか」
「……絶対楽しんでる」
「楽しんでねえよ」
即答する。
だが。
少しだけ安心はしていた。
こういうやり取りが出来るくらいには、回復している。
最初は、本当に危なかった。
遺跡から運び込まれた直後。
リシアはまともに喋ることも出来なかった。
呼吸は浅く。
顔色は真っ白で。
指先まで冷えていた。
診療所の医師も、最初は顔を青くしていた。
『……あり得ない』
『心臓の位置がズレています』
『どうして生きているんですか……?』
その時。
リオンは本気で殴りそうになった。
そんなこと聞かれても知るか。
こっちだって分かってない。
でも。
リシアが死にかけてることだけは分かった。
だが。
そのあと医師は、更に顔色を悪くした。
『……戻ってる』
『少しずつですが、正常位置に近づいています』
『自然治癒ではありません。こんなの……』
途中から、半分独り言になっていた。
結局。
最低一週間の安静入院。
それが診断結果だった。
そして今。
その一週間が、もうすぐ終わる。
「……また変な顔してる」
リシアがぼそっと言う。
「してねえよ」
「……してる」
「してない」
「……してる」
即答だった。
リオンが少し顔をしかめる。
リシアは小さく笑った。
本当に少しだけ。
でも。
その顔を見て、リオンは少し安心する。
ちゃんと、生きてる。
あの時。
本当に死ぬと思った。
自分の目の前で。
何も出来ないまま。
「……」
自然と拳に力が入る。
グラディス。
あの男を思い出すだけで、胃の奥が冷える。
強いとか、そういう話じゃない。
“違った”。
あれは。
完全に、人間の枠から外れていた。
「……なぁ」
ぽつりと口を開く。
リシアが視線だけ向ける。
「……なに」
「あの男」
一拍。
「……知ってるのか?」
空気が少し静かになる。
リシアはすぐに答えなかった。
窓の外を見る。
雨音だけが続く。
「……分からない」
小さい声。
「……ただ」
そこで止まる。
少しだけ迷うように。
「……昔、父から聞いたことがある」
リオンが眉を寄せる。
「父親?」
「……うん」
静かに頷く。
リシアが、自分から父親の話をするのは珍しかった。
いや。
ほとんど初めてかもしれない。
「……アーカイブには、“超越者”がいたって」
「……超越者?」
聞き返す。
リシアは少しだけ視線を落とした。
「……四人」
「……人間なのに、人間じゃない人たち」
静かな声。
でも。
その言葉には妙な重みがあった。
「……観測も、干渉も、普通の理屈が通じない」
「……アーカイブの中でも、特別危険視されてた」
グラディスの姿が頭に浮かぶ。
納得してしまう。
確かに。
あれは普通じゃない。
「……あの人、多分」
リシアが小さく呟く。
「……その一人」
沈黙。
雨音だけが続く。
リオンは小さく息を吐いた。
嫌な予感しかしない。
そんな化け物が、まだ複数いる。
頭が痛くなる。
「……あと」
リシアがぽつりと続ける。
「……あの人」
少しだけ視線が揺れる。
「……どこかで会ったことある気がする」
「……は?」
「……分からない」
小さく首を振る。
「……でも」
一拍。
「……声、聞いた時」
リシアの瞳が少し揺れる。
「……懐かしい感じがした」
リオンが眉を寄せる。
懐かしい?
あんな奴が?
「……“お前には死なれては困るのでな”って」
アヴェルの声を思い出す。
低く。
静かで。
妙に感情が薄かった声。
「……なんか」
リシアが小さく呟く。
「……昔、聞いたことある気がする」
そこで止まる。
思い出せない。
でも。
確かに引っかかっている。
幼い頃の記憶。
ぼやけた景色。
父の背中。
誰かと話している声。
黒い外套。
低い声。
そして。
優しく頭を撫でられた感触。
そこまで浮かんで。
記憶が途切れる。
「……」
リシアが小さく眉を寄せる。
頭の奥が少し痛む。
その様子を見て、リオンがすぐ立ち上がった。
「おい、大丈夫か?」
「……ん」
「無理に思い出そうとすんな」
額へ手を伸ばす。
熱を確かめるみたいに。
リシアが少しだけ目を丸くする。
「……子供扱い」
「病人だろ今」
「……もうだいぶ治った」
「医者は安静って言ってたぞ」
「……リオン、過保護」
「うるせえ」
即答だった。
でも。
否定はしなかった。
リシアは少しだけ視線を逸らす。
その口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
窓の外。
雨は、まだ止まない。
静かな雨だった。
でも。
確実に。
何かが始まっている。
そんな気がしていた。




