第30話「戻された境界」
視界が、薄くなる。
音が遠い。
さっきの感覚が、まだ残っている。
いや――違う。
残っているんじゃない。
続いている。
状態:空白化
対象:自身
進行率:不明
足の感覚が消える。
地面に立っているはずなのに、重さがない。
距離も、位置も、曖昧になる。
ここにいるのかどうかすら、分からない。
――まずい。
これは、“使った”んじゃない。
巻き込まれている。
一歩、踏み出そうとする。
だが。
踏み出したはずの足が、“成立しない”。
前に出たのか、止まったのか、判定できない。
「……っ」
声も、掠れる。
出ているのかすら分からない。
このままいけば――
戻れない。
「――やめて」
はっきりとした声が、割り込んだ。
ぼやけていた世界に、一本だけ芯が通る。
「それ以上行ったら、戻れなくなる」
掴まれる。
腕を。
確かな力で。
「戻ってきて」
引かれる。
こちら側へ。
視界が戻る。
色が戻る。
音が、一気に流れ込む。
そこにいた。
リシアが。
「……何やってんの」
息を切らしながら、それでも睨んでくる。
「勝手に消えかけないでよ」
言葉が出ない。
ただ、呼吸だけが荒くなる。
今のは、分かる。
完全に、外れかけていた。
状態:安定
――外部接続:確認
ログが、静かに更新される。
「……今の、何」
リシアが問う。
短く、まっすぐに。
「分からん」
正直に答える。
「でも……」
少しだけ、間を置く。
「通る」
「は?」
「当たるとか、防ぐとか、そういう話じゃない」
うまく言葉にできない。
だが、確信だけはあった。
「“成立してないのに通る”」
リシアが、眉を寄せる。
「なにそれ……」
「こっちが聞きたい」
短く息を吐く。
体の感覚は戻っている。
だが。
ほんのわずかに、ズレが残っていた。
敵は動かない。
いや――
動けない、のかもしれない。
距離を取ったまま、こちらを見ている。
それ以上の戦闘は、起きなかった。
終わったわけじゃない。
ただ。
“これ以上は成立しない”と、判断されたように。
「……帰るぞ」
「うん」
今度は、迷わずついてくる。
さっきまでの不安定さは、もうない。
足取りも、呼吸も、ちゃんと戻っている。
並んで歩く。
少しだけ、距離は近い。
「ねえ」
リシアが、前を向いたまま言う。
「さっきの、やめて」
「……ああ」
「なんか、嫌な感じする」
「……そうだな」
短く答える。
それ以上、言葉は続かない。
だが。
その沈黙は、不安じゃなかった。
一歩、踏み出す。
今度は、ちゃんと地面を踏んでいる。
ただ。
状態:正常
――一部ログ:欠損
ログの最後に、それだけが残った。
何かが、消えている。
だが。
何が消えたのかは、分からない。
空を見上げる。
何も変わっていないはずの景色。
それでも。
少しだけ、“現実感”が薄かった。




