第28話 「名前だけが、思い出せない」
終わった。
……そう思った。
拳に残る感触は、確かだった。
さっきの一撃は通っている。
崩れたのも、見た。
それなのに。
妙に静かだった。
荒い呼吸だけが、やけに響く。
風も、音も、何もない。
「……」
違和感が消えない。
視線を落とす。
何もない。
敵がいたはずの場所に、痕跡が残っていない。
血もない。
破片もない。
影すらない。
ただ、空間だけがそこにある。
まるで最初から何もなかったみたいに。
「……おい」
後ろに声を投げる。
返事が来るはずだった。
来ない。
少しだけ、間を置く。
「……聞こえてるか」
もう一度。
それでも、返ってこない。
眉をひそめる。
さっきまで、すぐ後ろにいた。
距離も近かった。
気配も、ちゃんと感じていた。
なのに。
振り返る。
いない。
思考が、一瞬止まる。
「……は?」
視界の中に、人の気配がない。
さっきまでの位置。
そのままの距離。
そこに、誰もいない。
おかしい。
確かに、一緒に戦っていた。
それは間違いない。
でも。
そこから先が、曖昧になる。
どんな動きをしていた?
どんな声だった?
思い出そうとして。
引っかかる。
輪郭がぼやける。
「……なんだよ、これ」
喉が乾く。
名前を呼ぼうとして。
止まる。
出てくるはずの言葉が、出てこない。
知っているはずなのに。
口にしようとすると、引っかかる。
思考が滑る。
焦りが、じわじわと広がる。
「……ふざけんなよ」
視線を戻す。
さっきまで敵がいた場所。
何もない。
そして。
ログも出ていない。
いつもなら、何かしら表示されるはずなのに。
沈黙したまま。
反応がない。
……ありえない。
確実に倒した。
それは間違いない。
なのに、記録がない。
まるで。
“成立していない”みたいに。
嫌な予感が、胸の奥に沈む。
さっきの一撃。
触れた瞬間、何かがおかしかった。
軽かった。
いや、違う。
“中身がなかった”。
殴ったはずなのに、確かな手応えがなかった。
あれは。
“ここにあるもの”じゃなかった。
息を吐く。
冷静になれ。
状況を整理する。
敵は消えた。
ログは出ない。
そして。
さっきまでいたはずの存在が、いない。
そこまで考えて。
また止まる。
“存在”。
誰だ。
その言葉に、自分で引っかかる。
さっきまで一緒にいたはずなのに。
“誰と”戦っていた?
思い出せない。
でも。
確実に、いた。
その確信だけが残っている。
気持ち悪い。
胸の奥がざわつく。
足元が、少しだけ不安定になる。
視線を上げる。
遠く。
何かが、引っかかった気がした。
気のせいかもしれない。
でも。
誰かに、見られているような感覚。
はっきりとは分からない。
ただ。
さっきの“何か”と、同じ気配。
奥歯を噛む。
ここにいたらまずい。
理由は分からない。
でも。
直感が、そう言っている。
その場を離れる。
振り返らない。
振り返ったら、何かが決定してしまう気がした。
だから。
見ない。
考えない。
ただ、離れる。
――それでいいはずだった。
なのに。
頭の奥に、引っかかる。
消えたはずの存在。
思い出せないはずなのに。
なぜか。
その“距離”だけは、はっきり覚えている。
すぐ後ろにいた。
手を伸ばせば届く距離。
そこに、確かに。
――誰かがいた。
なのに。
名前だけが、思い出せない。
その違和感が。
いつまでも、消えなかった。




