19、秋(8)
ライオネルさんはとても良い客人だった。
美味しい美味しいと、何を食べても大げさなくらい喜び、楽しみ、訊ね、褒める。
聞き上手で話題豊富な話し上手。
いつもは大人しくじっと黙っているだけのアストリアも、大人同士の会話にはつまらなさそうな顔しか見せないフィーネリアも、目をきらきらさせてライオネルさんの話に耳を傾けていた。
そうして、たらふく食べて飲んで笑って、とても楽しい時間を過ごした後、彼は去っていった。
彼に剣の心得があると知ったお父様は館への逗留を勧めたけど、“自分は流浪の木こり(?)だから”と丁重に辞去されれば、無理に引き留めることも出来ず。
送りの馬車さえ断った彼を家族総出で見送る。
小さくなっていく逞しい背中が、とうとう丘の向こうへ消えた時、寂しさのようなものが胸を過ぎった気がした。
*
カンテラを掲げて真っ暗闇の中を行く。
月の光も届かず、夜道よりも暗い闇に支配された空間では、手元の光と足元の感覚が頼りだ。
深夜、空腹を覚えた私は寝台をそっと抜け出し、またもや秘密の抜け穴のお世話になっていた。
お客様の前でがっつくわけにいかなくてごはんあんまり食べられなかったんだよねぇ。レディってこれだから辛いわ。
――と言っても、さすがに私も馬鹿ではないから、こんな夜中に外へ出かけたりはしない。
一応は森に囲まれた土地に暮らすものとして、夜間外出の恐ろしさは分かっているつもりだ。狼とか出るし。
地中の虫の寝息さえ彼方の静寂。
柔らかい室内履きのおかげで、自分の足音も聞こえない静かの闇の中、ふと物音が聞こえた気がして、私は歩みを止めた。
じっと耳を澄ます。
――聞こえる。何者かの息づかいが……。
私はぱっと駆け出した。
息を呑むような気配を感じたのは、きっと気のせいではない。
何度も辿った石畳は、その窪みの場所だって覚えている。背後の慌ただしい空気を感じながら、早すぎないように走った。
道先に見える闇の濃さが目的の場所を教えてくれる。私は、その丸い闇の中へ飛び込んだ。
背後の気配が私に続いたのを感じ――
「わっ」
「ぎゃああああああああ!!」
「きゃああああああああ!!」
子どもらしい甲高い絶叫がサラウンドで響き渡った。
「……まだ頭がガンガンするわ」
「ごめんなさい姉さま」
「ごめんなさい……」
狭い地下洞、間近で食らった音の攻撃は思いがけず強烈だった。
「いいのよ。驚かせた私も悪かったわ」
可愛い弟妹らが後をつけてきているのに気付いて、ちょっと悪戯心がムクムクと……。つい脅かしてみたら鼓膜に反撃を受けた、というわけだ。
「それにしてもどうしたのあなた達、こんなところで」
もしや私と同じ目的だろうか。
「アスがおしっこしたいって。でもひとりじゃ行けないっていうからついてきた」
「ふぃ、フィーも行きたいって!」
弟は慌てて言い募り、こちらをチラリと見上げて赤く染めた頬を伏せた。なんだその美少女のような反応は……。アイドルトイレイカナイ。
「あの、そうしたら、リューネ姉さまがいらっしゃるのを見かけて……」
「姉さま、姉さま! あれ何?! あれ! いすギーッ! ってやったらバターン! って!! そんでそんで」
フィーネリアが擬音多めで語っているのは、恐らく抜け穴に至るためのからくりのことだろう。抜け穴の中には椅子を所定の位置に動かしたり、本棚の本を入れ替えたりといった手順を踏むことで入り口が現れるものもある。
「姉さま、ここはいったいなんですか……?」
アストリアが、不安と好奇心の入り混じった様子で辺りを見回した。
「抜け穴の一つよ。領主館にはね、こういった秘密の道が幾つもあるの。あなた達も今度探してみなさい」
言うと、二人の顔が輝いた。
うむ。ワルトの館に暮らすもの、抜け穴を冒険すべし! ……と、昔の人が言ったかどうかは分からないけど。抜け穴探しは、私の小さい頃のお気に入りの遊びだった。
きっとお父様も。
幼い頃、抜け穴から泥だらけで帰ってきてオルガに怒られ、しょぼくれていた私を抱き上げて、こっそりと仰ったから。
「グリューネも見つけたのかい?」って。
一緒にくれたウィンクは共犯者への親しみに満ちていた。
ひょっとしてお父様だけじゃなくて、お祖父様やひいお祖父様も……代々この館に暮らす人はそうだったんじゃないかなって。
なんとなく、そう思った。
「さあ、二人とも行くわよ。ここは目的地じゃないの」
きゃわきゃわと囁き合う子どもらに言えば揃って同じように見上げてくる。むずむずする気持ちを抑え、澄まし顔でカンテラを土に置いた。
この場所は、一見ただの行き止まりだ。今まで通ってきた道よりもやや広く、例えばだけど、蟻の観察キットでここを外側から見たら、ぽっかりと丸い洞穴が開いているように見えるかもしれない。
イチゲンさんには、ここは身を潜めるための隠れ場所で、抜け穴は、ここに来るための道に思えるだろう。ちゃんと知らない人にはそう見える。
ちょうど、私の膝の辺り。
古い石壁の、凸凹した石を掴み、力を込めて引っ張った。
ズズ……ズ……、と冷えて湿った空気を震わせながら、徐々に四角い闇が顕になる。
石壁に偽装された隠し戸の奥。そこには、新たな通路が出現していた。
ぽかん、と。揃って口を半開きにする双子に、思わず吹き出してしまう。気分はイタズラ成功! だ。
「行きましょう」
カンテラを持ち上げ、身を屈める私を目にし、二人はやっとこちらの世界に戻ってきたようだった。
私ではもう四つん這いにならないと通れない狭い通路をこわごわついてくる。
やがて通路は行き止まり、私は先ほどと同じく隠された引き戸を開ける。
果たして、そこには――
「……ここ、どこ?」
楽園へようこそ。
私は心の内で嘯き、微笑んだ。
通路から出てきて辺りを見回す二人に教えてやる。
「ここは食料庫の地下よ。裏庭に食料貯蔵庫があるでしょう? 入ったことがないと知らないかもしれないけど、あそこには地下があってね。地上と地下とで保存するものを分けてるんだけど……さっきの抜け道はその地下の方に続いてるのよ」
ほら、そこに階段があるでしょう。と示してやれば、目にした二人はあからさまにがっかりした。ふっ甘いな。
いったい姉がここに何しに来たと思っているのだ。
「……姉さま?」
ごそごそと置かれた物品を漁る。
ここは食料貯蔵庫の地下だ。食料庫の地下だ。つまり食料が保存してあるのだ。それも主に果物のはちみつ漬けとか果物のリキュール漬けとか果物のコンフィチュールとか。
つまり!
「コケモモのジャムー!」
たりらりっらら~ん! と脳内で鳴り響く高らかなあのファンファーレと共に、お目当ての瓶詰めを両手で掲げる。
子ども達は、ぽかーんとそれを見つめていた。
しかし、子どもらしい悪戯心で察したのか、今度はすぐ我に返り、うきうきで封を解く私に寄ってきた。
まさかアストリアとフィーネリアに会うとは予想してなかったから、お皿もスプーンも一つずつしか持ってきていないけど。きょうだいだし、たまにはお行儀悪くても良いよね?
ガラスの縁から顔を覗かせた濃い赤が、とろりと白い皿に訪れる。つやつやの小さな実をスプーンですくって一口。
んんん~~~! すっぱああ~~い! あまぁあ~~い! あまずっぷぅわあ~い!
ああー! そうそうこれだよ、これ。コケモモのジャムって瓶に詰めた後も味が変わっていって段々まろやかになっていくんだけど、私は詰めてからちょっと経ってまだ結構酸味が残ってるこれくらいの状態のが一番好き!
今置いてあるのは越冬用の保存食だから実際食卓に乗るのは私的にジャストな頃合い過ぎてからで、いい塩梅のものを口にしたいと思ったらこうして盗み食いするしかないというわけだ。
盗み食い、致し方なし!
「姉さま、姉さま!」
目を輝かせ催促する妹の口にも、スプーンを運んでやる。同じく弟にも。
「ん~~~!!」
「「「すっぱぁ~い!」」」
きょうだい三人、頬を押さえてもだもだした。
「姉さま、お話して」
コケモモの他にも色々なジャムを“味見”して、結局最後には手も口もベタベタ。
寝間着一枚の二人が寒そうだったのでショールで丸ごと包んで、顔やら指やら布巾で拭ってやっていたら、どちらともなくそんなことを言い出した。
そう言えば、寝室が一つだった頃はよく寝る前に“お話”してあげたっけ。
「そうねえ……」
むかし、で始まるお話。
これは私の創作ではない、古くからこの地方に残る伝承だ。
むかし、この辺りには、闇の国がありました。
闇の国には、黒い王様がいました。
黒い王様は、とても強い魔法使いでした。
王様は魔法でなんでもできました。
ある日、王様は、ほんとうになんでもできるのか
ためしてみたくなりました。
王様は、まず、お山を消してみました。
川も消してみました。
民を消してみました。
街も消してみました。
王様には七人のお妃様がおりましたが
お妃様もみんな消してみました。
それからお城も消しますと、
王様だけがのこりました。
そこで王様は、王様を消してみました。
「おしまい」
しん、と沈黙が満ちる。
アストリアもフィーネリアも、何だか腑に落ちないという顔をしている。
気持はよく分かる。私も初めて聞いた時はもやもやしたものが残った。
昔話には基本的にオチがある。例えばこの湖はこういう理由で出来たんだとか、言葉の由来とか、教訓とか。それなのにこの話には“オチ”がない。
オチどころか、王様は結局どうなったのかすら分からず、この話は結局何を伝えたいのかが分からないのだ。だから私は考えた。
この話は、“この話自体”を伝えたかったんじゃないかなって。
大昔――それこそ昔話よりも遥か遠い昔に存在したと伝えられる、名も無き“帝国”。その存在の証として。
「ちゅんっ」
妹からこぼれた小さなくしゃみに、弟と顔を見合わせて笑い。
「そろそろ戻りましょうか。私は片付けがあるから、あなた達は先に戻ってらっしゃい。見つからないようにね」
妹達を先に帰して、片付けという名の証拠隠滅を図っていた時に、それを見つけた。
瓶詰めと麻袋の奥、地面から30cmほどの場所、石壁のように巧妙に偽装された取っ手を。
「これは……?」
今まで何回かここに足を運んでいるけどこんなもの初めて気付いた。
取っ手を引っ張ってみる。それは引き戸ではなく、小さな扉だった。
薄暗闇に石擦れの音を響かせて、扉が開く。中は20cm四方の空間になっており、秘密の隠し櫃といった風合いだった。しかもまさに、そこには、隠された何かが――布の袋に包まれた、何かがあったのだ。
ドキドキする。
何だろうこれ。私が触ってもいいものなんだろうか?
おっかなびっくり手を伸ばす。……ざらざらしてる! 袋は埃まみれだった。
中に埃が入らないよう、そっと中身を検める。
「本……?」
のように見えた。
それが一冊の本であることは分かったものの、カンテラの光ではタイトルすら判読不可能だ。
私は袋ごと本を持ち帰ることにした。冬の間のちょっとした暇つぶしにでもなるかな、という軽い気持ちで。
隠し戸を再び慎重に偽装し直し、自分の痕跡を消しつつ、また抜け穴を通り館に戻る。
この抜け穴の入り口は、今は使われていない客室の一つにある。最大限の注意を払って、極力音を立てないよう入り口のギミックを全て元に戻し、抜き足差し足で自分の部屋へと帰る。
間違ってもオルガやエリスに見つかってはいけない……!!!
今日一番心臓の鼓動がうるさかった。
自室に辿り着いてもまだ気を緩めるわけにはいかない。
本の入った袋を更にショールで包んで、隠し戸棚にしまう。口を軽くゆすぎ、口臭という証拠を隠滅して寝台に体を滑り込ませ、やっと一息ついた。
緊張の反動か、すぐに睡魔がやって来た。
うとうとと夢うつつを漂う意識の片隅で考える。
しかし……傷まないよう袋に包み、誰にも見つからないようあんな場所に隠しておくなんて……。
………………なるほど、エロ本か。




