あなたの傍にいる 1
夜道を歩いているとき、頭の中は香織のお母さんとの電話のことでいっぱいだった。
「はっ、忘れ物!」
用意したお土産と紅茶セットを家に忘れてきたかと思ったが、手にちゃんと持っていた。
「あぁ大丈夫か、良かった……」
あの後、僕は香織のお母さんにちゃんと返事ができなかった。
しかも「誠司くんのタイミングでいいからね」と結局フォローまでしてもらって……。
きっと僕に電話をかけるだけでも、すごく勇気と気力が必要だったと思う。
考えれば考えるほど、香織のお母さんに申し訳ない気持ちが増してくる。
数十分後、開館時間に合わせて図書館に到着した。
そして、入口の前にいる月岡さんの後ろ姿を見つけた。
「月岡さん!」
「……野上くん」
割れ物のティーポットを持っていたので、あまり揺らさないよう小走りで近寄る。
僕の声に気づいた月岡さんは後ろを振り向いたが、どこか浮かない顔をしていた。
「……開いてないんだ、図書館が」
「え?」
月岡さんが言った通り、重い扉はびくとも動かなかった。
それもそのはず。
唯一、開放されている1階のフロアは照明が落とされていた。
「香菜子さん……やっぱり気にしているんですかね」
金曜日の夜に行くと、必ず開いていた図書館。
やはり先週のことが原因だろう……心当たりはそれしかなかった。
「美味しいバウムクーヘン、持ってきたんだけどな……」
月岡さんはわざわざお菓子を持って来てくれたようだった。
僕だってそうだ。
今日は紅茶を振る舞おうと、ティーポットまで自前で持ってきた。
実際は香織の私物だけど……。
「もし、よければ僕の家に来る?」
月岡さんはサラっとそう言ってくれた。
「い、いいんですか?」
このまま家に帰るという気分ではなかったので、僕としては率直に嬉しかった。
「『じゃあ、各々帰ろうか!』っていうテンションじゃないでしょう? 僕が現にそうなんだけど」
月岡さんも同じ気持ちでいてくれていた。
尚更有り難い。
「じゃあ、お言葉に甘えて……」
その時、子供の泣き声が聞こえてきた。
「……結翔くん?」
視線の先には、泣いている結翔くんを抱きかかえた香菜子さんの姿が。
普段は大人しい結翔くんが、珍しく大袈裟なほど泣きじゃくっていた。
「結翔が全然寝てくれないのと……ぐずってしまっていて……」
香菜子さんはあまり目を合わせてくれず、俯いたままそう話していた。
先週の夜、香菜子さんの泣き顔を初めて見てしまった。
衝撃的な過去を打ち明けた香菜子さんが、僕に気まずいと思ってしまうのも無理はない。
そんな中、図書館の入口に体を向けて、激しく泣いている結翔くん。
まるで「図書館に連れて行ってほしい」と香菜子さんに訴えているようだ。
「香菜子さん。 今日も図書館開けて、いつもの閉館時間までここにいましょう!」
月岡さんは優しく微笑んで、香菜子さんに言いかけた。
香菜子さんは困惑した顔をしていたが、僕も月岡さんの言葉には同感だった。
「そうしましょう、香菜子さん」
「ですが……」
「ここは香菜子さんと結翔くんの場所です。 僕たちも居させてもらっていますが……香菜子さんが居なくちゃ、ここには入れませんから」
念を押すように、僕も何とか香菜子さんを諭してみた。
香菜子さんがこの時間に図書館を開けていたことで、僕はここに通い、いくつもの出逢いがあった訳だ。
「偶然なんですけど……今日、美味しい紅茶を持ってきたので、みんなで飲みませんか? 月岡さんもお菓子、持ってきてくれたみたいで」
「紅茶あるの? 野上くん、ナイス!」
笑顔でグッドサインを送る月岡さん。
月岡さんと目を合わせて笑い合っていると、
「……っ」
香菜子さんは鼻をすすり、涙を流していた。
今日までの1週間、ずっとネガティブな感情を抱えていたのだろう。
それを救い上げるような言葉を聞いた途端、緊張状態だった心が解けていったのか。
「今、開けますね」
目元を手のひらで拭い、笑顔でそう言ってくれた。
「あ、そしたら僕、結翔くん抱っこしますよ」
「お願いしていいですか」
「野上くん、荷物預かるよ」
僕は月岡さんに持っていたトートバッグをお願いして、香菜子さんから結翔くんを少し預かる。
さっきまで泣いていた結翔くんは、香菜子さんと同じく潤んだ目をしながらも、僕に笑った顔を見せてくれた。
辛くて苦しい香菜子さんを見たからこそ、結翔くんには少しでも笑っていてほしい。
そう思いながら、結翔くんの背中を優しく撫でた。
***
図書館に入ってすぐ、先に軽井沢のお土産を渡した。
2人とも喜んでくれた様子だった。
「結翔にもお土産もありがとうございます。 お礼を言いそびれてしまってすみません」
「いいえ! 全然!」
「結翔、猫のぬいぐるみが気に入ったようで、いつも遊んでますよ」
「それなら良かったです!」
少しずつだが、いつもの香菜子さんに戻ってきてくれてホッとした。
紅茶のお湯を沸かしている間、香菜子さんに素朴な疑問を振ってみることに。
「香菜子さん、コーヒーを置くようになったきっかけって何だったんですか?」
第一、香菜子さん本人がコーヒーを飲めないのに、どうしてコーヒーを置いたのか……。
聞けるタイミングはいつだってあったが、そんな質問をしないまま時だけが過ぎていた。
「コーヒー好きの祖父がよく飲んでいたんです。 祖父が図書館に来ると『コーヒーが飲みたい気分だ』って言い出して、いつの間にか『常備しておけ』ってことになりました。 置いているコーヒーは、祖父のお気に入りの銘柄なんです」
亡くなったばかりのおじいさんの話をさせてしまい「しまった」と思ったが、どこか穏やな表情の香菜子さん。
そして、気になっていたコーヒーの銘柄についても話に出てきた。
保積家のおじいさん御用達なら、そう簡単にスーパーでは買えないだろう。
「その頃はお腹に結翔がいたので、祖父が私を心配して様子見に図書館へ来てくれたんだと思います。 苦いのは飲めないって知っているのに『香菜子は飲むんじゃないぞ!』って毎回言ってくるんです」
妊娠中だった香菜子さんを思って、カフェインのことを気にしていたんだと察した。
「もしかして、あの髭生やしたおじいさん?」
何かを思い出したような月岡さんは、香菜子さんに確認する。
「はい、あれが祖父です」
「そうだったのか……どうりで品のあるおじいさんがいるなと思ったけど」
僕よりも長く図書館に来ていた月岡さんなら、香菜子さんのおじいさんと会っていそうだ。
「どういう雰囲気の方でしたか?」
「見た目がね、スッとした鼻と切れ長の目。 少し腰は曲がっていたけど、年配のわりに背もあったな」
腕組みをしながら、香菜子さんのおじいさんを思い出してくれた月岡さん。
「そうですね。 祖母曰く、昔はかなりの男前みたいで。 白黒写真でも分かるくらい、確かにそうでした」
こうまで聞くと「香菜子さんのおじいさんの写真を見てみたい」と思ってしまう。
月岡さんは穏やかに微笑みながら、
「そしたら結翔くんは、おじいさんみたいな男前になるかもね? それとも香菜子さんみたいに可愛い感じかな?」
泣き疲れた結翔くんは、籠の中でスヤスヤと眠っていた。
寝顔を見つめながら、香菜子さんは小さく呟く。
「結翔は……弘樹の子供の頃によく似ているんです」
「!」
突然、弘樹さんの名前が出てきてしまい、言葉を詰まらせる僕と月岡さん。
「まだ赤ちゃんですけど、目とか笑った顔とかよく似ているんです。 弘樹を思うとやるせない気持ちになりますけど」
結翔くんの子育てをする中で、弘樹さんの姿が重なって見える。
そんな状況で、香菜子さんは辛くないだろうか。
そう思っていた。
「でも、結翔のことは後悔してないです。 弘樹と私を繋ぐ、大切な子ですから」
強く言い切った香菜子さんを見て、僕と月岡さんは頷きながら微笑んだ。




