香織エピソード 紅茶の時間
洗面所で歯を磨いていると、向こうから鼻歌が……。
その正体はもちろん香織。
さぞかし機嫌が良いのだろうか。
歯ブラシを口に入れたまま、鼻歌が聴こえるリビングへ行ってみる。
香織は僕が近づいてきたことに気づかず、気分良さそうにアイロンをかけていた。
「それって何の曲?」
「!」
せっかくの鼻歌が止まってしまった。
僕の登場に驚いた顔を見せるが、香織はすぐに眉を寄せて困った表情に変わる。
「そんなこといいから。 歯磨いているなら、洗面所でしてきて!」
鼻歌を聴かれて恥ずかしかったのか、よく見ると耳が真っ赤になっていた。
だが、さっきの鼻歌が何の曲かどうしても気になる。
「ねぇ、僕も知っている曲?」
香織の周りをウロウロ歩いてみたが、
「歯を磨いたまま喋らないで。 誠司の白衣に歯磨き粉飛んでいるかもよ?」
そう冷たくあしらわれる。
歯磨き粉いっぱいの口をどうにかするため、その場を退場せざるを得なかった。
大人しく洗面所に戻り、口を濯いでいると……。
またしても僕の耳に鼻歌が聴こえてきた。
「ねぇ! 何か良いことでもあったの?」
香織のところへ行かない代わりに、声を上げて質問を振った。
すると、香織はパタパタと走って僕のところにやって来る。
洗面所の真横にある棚から、何かのボトルを取り出した。
「じゃーん! 新しい柔軟剤!」
自信満々で真新しい柔軟剤のボトルを見せつけてきた。
「おお、初めて見た! でも、なんで?」
「香織のテンションが高い理由」とあまり結びつかなかったので、香織に質問を振ってみる。
その直後、香織は企画会議でプレゼンテーションをするかのように話を続けた。
「ずっと誠司の白衣に使える柔軟剤を探してて、ついに見つけたの! 強すぎず、優しくほんのり香る程度だから間違いなく使える! ほらお客さん、匂い嗅いでみて!」
柔軟剤のキャップを外し、少し背伸びをして僕の鼻に柔軟剤を近づけてきた。
なんだか可愛く見えて、無意識のうちに口が緩む。
彼女の言うとおり、匂いを確かめた。
「本当だ……これは良い、買うわ」
香織の言っていたように清潔感があって、僕の好みの香りドンピシャだった。
僕の感想にご満悦の彼女は「毎度あり!」と言って戯けてみせた。
買い替えた柔軟剤で洗濯をして、仕上がった白衣にアイロンをかけて……だから気分が良かったのか。
そんな彼女のことが微笑ましいなと思っていた。
「さて、これが終わったら紅茶でも淹れますか!」
「やったね!」
定番のアールグレイか、スッキリとしたカモミールティーか、香織が好きなアップルティーか……。
今日は何の紅茶だろうかとワクワクしていると、
「誠司、さっき歯磨きしてたのに飲むの?」
真面目な顔して香織が言ったので、僕は本気で受け取ってしまった。
「え、だめ?」
僕がどんな顔していたかは分からないが、香織は僕の顔を見て吹き出していた。
「冗談だって! 飲もう! 一緒に!」
「もう……香織ったら……」
盛大にフォローしてくる香織に、少ししょんぼりした顔を見せた。
アイロンをかけ終えて、僕の白衣をピンと広げて伸ばす。
出来上がりに満足した香織は顔を近づかせ、白衣から漂うはずの香りを確かめてみると……。
「うん?」
大きい目をギョロっとさせて、険しい表情をしている。
「どうかした?」
「なんか、ここだけ歯磨き粉みたいな匂いする」
左の胸ポケット辺りを指摘した香織。
物凄く不貞腐れた顔をして、
「……誰かさんが歯磨きしながら喋っていたから……歯磨き粉が白衣に飛び散ったのかな」
噛むことなく捨て台詞を吐いた香織。
「え! そんな訳ないでしょ!」
歯を磨いたまま、そこまで長く香織につきまとっていなかったはずだ。
香織は匂いのことを諦めて、手際よく白衣を畳みながら、
「そんな訳あるよ。 だって、私の顔にも歯磨き粉が飛んできたよ?」
大きい目を最高に細くし、凍りついた表情で言い負かされた。
僕の完敗だ。
「本当に? それはごめん! 聞いている香織さん? あの……ちなみに顔のどこに飛んでいきましたか?」
香織は笑いを堪えながら、
「はい! もう分かったから! 紅茶の時間にするよ!」
そう言いながら僕の頬を包み込むように撫でて、笑顔でキッチンに向かっていった香織。
「お湯、沸かそうか?」
「ありがとう!」
ちょっとした口論になっても、紅茶が入ればいつもの僕たちに戻る。
同じ温かい紅茶を一緒に飲んで「美味しいね」と言えるだけで、心が満たされていたあの頃。
しばらく飲んでいなかった紅茶を思い出し、急に恋しくなった。
でも、香織とはもう一緒に飲めないけれどね……。




