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今宵、図書館で逢いましょう。  作者: さきみやめぐ
第八夜

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悪夢のような朝

 僕以外の気配をまったく感じない……物音も一切しない静かな空間。

寝室に入ってどれだけ時間が経過したのだろう。


カーテンの隙間から朝を知らせる光がうっすら射し込む。

もう起き上がらないといけない。


右に顔を向けると落胆する。

僕のベッドの真横は、不気味なほど布団が美しく整っているのだ。

もしかして僕はまだ寝ぼけているのか?

あとどれくらい、こんなにも重く気だるい朝を迎えるのだろう。


カーテンを開けず、照明も点けないまま寝室を出た。

短い廊下を抜け、リビングへと向かう。


キッチンに視線をやると、当然誰もいない。

強いて言うなら、洗った食器がカゴに置いてあり、いつも使っているパステル調のマグカップ2個と白くて平たい皿が2枚。

昨日、箸とスプーンもそれぞれ2つも使っただろうか。


「……」


ただただ見つめている。

まだ寝ぼけているようだ。


『お湯、沸かしておいて!』


起きて間もない僕に、いつもなら声をかけてくる彼女だが、今日はそんな声がしない。

お湯、沸かしておく……?

いや、食欲ないから別にいいか。


再びパステル調のマグカップに視線を落とす。

ところで……マグカップの色は前からこんなにも淀んでいただろうか?

このとき、眼鏡を寝室に置いたまま、キッチンへ来てしまったことに気付いていなかったのだ。


すると、僕の耳に突如聞こえてきたのはインターホンの音だった。


目を凝らして画面を見ると、スーツ姿の片瀬が立っていた。


「え、着替えてない?」


扉を開けると、手にはコンビニの袋、大きな紙袋と黒い布製の袋を持っていた片瀬。

ずいぶんと大荷物だ。

僕の姿を見て発した言葉は、溜め息を吐いたようだった。


「ごめん、今起きて……」


片瀬は特に表情を変えなかった。


「もう9時過ぎてるぞ。 お邪魔します」


落ち着いたトーンでそう言い、僕の同意も無しに片瀬は家へ入っていく。

というよりも、片瀬の訪問に驚かないほど、僕は気持ちが沈んでいた。


真っ直ぐ進み、リビングのカーテンを勢いよく開け、キッチンへと向かう片瀬。

手を軽く洗い、持ってきたビニール袋からインスタントのスープ、おにぎり、カットされた野菜を手際よく出していた。


「ケトル、借りていい?」

「あ、うん」


お湯を沸かす僕のルーティンを、代わりに片瀬がこなしていった。


「片瀬が黒いスーツ着ているの、新鮮だな」


キッチンが見えるカウンターに回り、片瀬の姿を見つめながら言った。


「そうか? まぁ、俺たち普段、仕事では白衣だしな」


いつものように歯を見せて返事をしてくれたが、すぐにその表情は消えた。


「飯、まだだろ? コップ、どれ使っていいとか、ある?」


僕に背中を向け、食器棚を上下に眺めながら片瀬は尋ねてきた。


「僕はいいや。 コップなら棚を開けた2段目にあるから、何でも使って」

「そうか。 でも、スープ開けちゃったし、それくらいは飲んでよ」

「うん、ありがとう」


せっかくの厚意を断るのも悪いなと思い、そこはお礼を言うことにした。

会話が途切れた数秒後、お湯が沸いたことを知らせる音が鳴った。


片瀬が持ってきてくれたものがテーブルに出揃ったところで、椅子に座ろうとした直後……。

片瀬がテーブルの前で立ち止まった。


「俺、どこに座って平気?」

「え? どこでもいいけど、なんで?」


僕はいつものように座り、片瀬の疑問に疑問を重ねた。


「野上の前は、香織ちゃんの席かなって。 そういうの、気にするかと思って」

「あ……そっか。 ごめん、大丈夫だから」

「おう」


片瀬のちょっとした気遣いに不意を突かれ、力が抜けるように笑ってしまった。

一方、片瀬はちょこんと僕の前に座ったのだ。


「いただきます」

「……いただきます」


片瀬の後に続いて、コーンポタージュにスプーンを入れる。

口には運ばず、円を描くようにグルグルと混ぜていた。


「いつから食べてない?」


コーンポタージュに意識していると、片瀬から短い質問が飛んできた。

逆に短すぎて、片瀬の質問が理解できなかった僕。

そんな僕を見かねて、もう一度質問をしてきた。


「最後に飯食べたの、いつ?」

「いつって……」

「香織ちゃんが、事故に遭った日が最後か?」


片瀬の一言を聞いた途端、全身の細胞が死滅したような感覚になった。


しばらく沈黙が流れる。

何か言葉を発そうとしても、僕の唇は震えるだけで、文章どころか音にすらならない。

沈黙を破ったのは片瀬のほうだった。


「玄関開けたら血色ない顔しているし、服だってスウェットとかパジャマじゃなくて仕事着のままだし……キッチンのカゴ見たら、食器が2個ずつ置いたままだし。 全然食べてないし、ちゃんと寝てないだろ……」


同情なのか、励ましなのか……正直僕には分からなかった。

返事ができない僕をよそに、片瀬は椅子から立ち上がる。


「ハサミ、借りるぞ」


片瀬はハサミと一緒に、持参した大きい紙袋と黒い布製の袋を手にする。

出てきたのは新品のワイシャツに黒いネクタイ、黒い靴下、黒い革靴……片瀬が自腹で持ってきた、喪服一式だった。


「片瀬、どうしてこれを……」

「俺が払ってまで用意したら、流石に着るだろ?」


黙々と包装されていたものすべて開け、付いていたタグをハサミで切り、空いた袋に余分な物をまとめていく。


「……」


普段、仕事で着る白衣とは正反対の黒。

黙ってスーツをじっと見つめてしまう。


「……着替えるぞ」


片瀬は座っている僕を自分の方に向け、着替えさせようと僕の洋服をめくりあげた。

片瀬にされるがまま、呆然としている僕は片腕ずつ袖を抜かれる。

上に着ていた服を脱いだ後、薄手の肌着姿に。

片瀬は折り畳まれたワイシャツに手を伸ばしたが、


「野上……」

「……自分で、着るよ」


片瀬の手をそっと遮り、自分で着ようとする。

シワが1つも無い綺麗すぎるワイシャツ。

いつもなら香織がアイロンをかけて、用意してくれたんだっけ。


『襟、ちゃんとして。 後ろが立っているよ』

「ちゃんとしたはずだけど」

『なってないから!』


笑いながら僕の襟元を直してくる香織の姿が浮かぶ。

それが今では、無機質なワイシャツが目の前に……。

一気に現実に引き戻された。


覚束ない手でボタンを留める。

片瀬は涙を堪えようと、時折天井を仰ぎ見つつ、僕の着替えを見守っていた。

重たい体を起こし、ズボンもスーツ用に着替える。

ようやくジャケットを羽織るところまできた。


『カッコイイ、似合っている』


スーツのボタンを留める最中、香織からかけられた言葉を思い返した。


『これからも末永く……よろしくね? あなた』


小さい手で、小さい顔を隠して笑う彼女が目の前にいた。

はずだったのに……。


「……香織」


着替えが終わった瞬間、床に座り込んでしまった。


「野上!」


片瀬は僕が倒れると思ったのか、咄嗟に体を支えようと僕の肩を持った。


着替え終えたばかりのスーツのズボンには、無いはずのシミが。

そして、そのシミを広がるように、もう1つ、もう2つと目から零れ落ちたのだ。


僕の震える肩を落ち着かせるように、片瀬は背中をさすってくれた。

「泣いていい」と心で言ってくれたのだろうか。

そう思っていると、抑えきれない涙が溢れ出た。


「どうして僕、スーツ着ているの……どうして白衣じゃないの……香織……」


彼女が事故に遭った日から今日まで、何もかも空白だった僕。

止まらない涙と嗚咽で僕が苦しむ中、片瀬は斎場に向かうまで、ずっとそばにいてくれたのだった。


これが彼女と別れる朝のこと。

この日に泣いたのはこの時だけで……。

葬式では、彼女の両親がいた手前、泣くことができなかった。


ねぇ、香織。

香織が事故に遭ってしまう運命を辿るなら、僕たちは最初から出会うべきではなかったのかな。

もしそうだったら、香織は今でも笑って過ごせていたんじゃないのかなって。


君を失った今、そんなことを思うのは遅いのに……。

香織のことを最後まで守ってあげられなくて、本当にごめん。

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