悪夢のような朝
僕以外の気配をまったく感じない……物音も一切しない静かな空間。
寝室に入ってどれだけ時間が経過したのだろう。
カーテンの隙間から朝を知らせる光がうっすら射し込む。
もう起き上がらないといけない。
右に顔を向けると落胆する。
僕のベッドの真横は、不気味なほど布団が美しく整っているのだ。
もしかして僕はまだ寝ぼけているのか?
あとどれくらい、こんなにも重く気だるい朝を迎えるのだろう。
カーテンを開けず、照明も点けないまま寝室を出た。
短い廊下を抜け、リビングへと向かう。
キッチンに視線をやると、当然誰もいない。
強いて言うなら、洗った食器がカゴに置いてあり、いつも使っているパステル調のマグカップ2個と白くて平たい皿が2枚。
昨日、箸とスプーンもそれぞれ2つも使っただろうか。
「……」
ただただ見つめている。
まだ寝ぼけているようだ。
『お湯、沸かしておいて!』
起きて間もない僕に、いつもなら声をかけてくる彼女だが、今日はそんな声がしない。
お湯、沸かしておく……?
いや、食欲ないから別にいいか。
再びパステル調のマグカップに視線を落とす。
ところで……マグカップの色は前からこんなにも淀んでいただろうか?
このとき、眼鏡を寝室に置いたまま、キッチンへ来てしまったことに気付いていなかったのだ。
すると、僕の耳に突如聞こえてきたのはインターホンの音だった。
目を凝らして画面を見ると、スーツ姿の片瀬が立っていた。
「え、着替えてない?」
扉を開けると、手にはコンビニの袋、大きな紙袋と黒い布製の袋を持っていた片瀬。
ずいぶんと大荷物だ。
僕の姿を見て発した言葉は、溜め息を吐いたようだった。
「ごめん、今起きて……」
片瀬は特に表情を変えなかった。
「もう9時過ぎてるぞ。 お邪魔します」
落ち着いたトーンでそう言い、僕の同意も無しに片瀬は家へ入っていく。
というよりも、片瀬の訪問に驚かないほど、僕は気持ちが沈んでいた。
真っ直ぐ進み、リビングのカーテンを勢いよく開け、キッチンへと向かう片瀬。
手を軽く洗い、持ってきたビニール袋からインスタントのスープ、おにぎり、カットされた野菜を手際よく出していた。
「ケトル、借りていい?」
「あ、うん」
お湯を沸かす僕のルーティンを、代わりに片瀬がこなしていった。
「片瀬が黒いスーツ着ているの、新鮮だな」
キッチンが見えるカウンターに回り、片瀬の姿を見つめながら言った。
「そうか? まぁ、俺たち普段、仕事では白衣だしな」
いつものように歯を見せて返事をしてくれたが、すぐにその表情は消えた。
「飯、まだだろ? コップ、どれ使っていいとか、ある?」
僕に背中を向け、食器棚を上下に眺めながら片瀬は尋ねてきた。
「僕はいいや。 コップなら棚を開けた2段目にあるから、何でも使って」
「そうか。 でも、スープ開けちゃったし、それくらいは飲んでよ」
「うん、ありがとう」
せっかくの厚意を断るのも悪いなと思い、そこはお礼を言うことにした。
会話が途切れた数秒後、お湯が沸いたことを知らせる音が鳴った。
片瀬が持ってきてくれたものがテーブルに出揃ったところで、椅子に座ろうとした直後……。
片瀬がテーブルの前で立ち止まった。
「俺、どこに座って平気?」
「え? どこでもいいけど、なんで?」
僕はいつものように座り、片瀬の疑問に疑問を重ねた。
「野上の前は、香織ちゃんの席かなって。 そういうの、気にするかと思って」
「あ……そっか。 ごめん、大丈夫だから」
「おう」
片瀬のちょっとした気遣いに不意を突かれ、力が抜けるように笑ってしまった。
一方、片瀬はちょこんと僕の前に座ったのだ。
「いただきます」
「……いただきます」
片瀬の後に続いて、コーンポタージュにスプーンを入れる。
口には運ばず、円を描くようにグルグルと混ぜていた。
「いつから食べてない?」
コーンポタージュに意識していると、片瀬から短い質問が飛んできた。
逆に短すぎて、片瀬の質問が理解できなかった僕。
そんな僕を見かねて、もう一度質問をしてきた。
「最後に飯食べたの、いつ?」
「いつって……」
「香織ちゃんが、事故に遭った日が最後か?」
片瀬の一言を聞いた途端、全身の細胞が死滅したような感覚になった。
しばらく沈黙が流れる。
何か言葉を発そうとしても、僕の唇は震えるだけで、文章どころか音にすらならない。
沈黙を破ったのは片瀬のほうだった。
「玄関開けたら血色ない顔しているし、服だってスウェットとかパジャマじゃなくて仕事着のままだし……キッチンのカゴ見たら、食器が2個ずつ置いたままだし。 全然食べてないし、ちゃんと寝てないだろ……」
同情なのか、励ましなのか……正直僕には分からなかった。
返事ができない僕をよそに、片瀬は椅子から立ち上がる。
「ハサミ、借りるぞ」
片瀬はハサミと一緒に、持参した大きい紙袋と黒い布製の袋を手にする。
出てきたのは新品のワイシャツに黒いネクタイ、黒い靴下、黒い革靴……片瀬が自腹で持ってきた、喪服一式だった。
「片瀬、どうしてこれを……」
「俺が払ってまで用意したら、流石に着るだろ?」
黙々と包装されていたものすべて開け、付いていたタグをハサミで切り、空いた袋に余分な物をまとめていく。
「……」
普段、仕事で着る白衣とは正反対の黒。
黙ってスーツをじっと見つめてしまう。
「……着替えるぞ」
片瀬は座っている僕を自分の方に向け、着替えさせようと僕の洋服をめくりあげた。
片瀬にされるがまま、呆然としている僕は片腕ずつ袖を抜かれる。
上に着ていた服を脱いだ後、薄手の肌着姿に。
片瀬は折り畳まれたワイシャツに手を伸ばしたが、
「野上……」
「……自分で、着るよ」
片瀬の手をそっと遮り、自分で着ようとする。
シワが1つも無い綺麗すぎるワイシャツ。
いつもなら香織がアイロンをかけて、用意してくれたんだっけ。
『襟、ちゃんとして。 後ろが立っているよ』
「ちゃんとしたはずだけど」
『なってないから!』
笑いながら僕の襟元を直してくる香織の姿が浮かぶ。
それが今では、無機質なワイシャツが目の前に……。
一気に現実に引き戻された。
覚束ない手でボタンを留める。
片瀬は涙を堪えようと、時折天井を仰ぎ見つつ、僕の着替えを見守っていた。
重たい体を起こし、ズボンもスーツ用に着替える。
ようやくジャケットを羽織るところまできた。
『カッコイイ、似合っている』
スーツのボタンを留める最中、香織からかけられた言葉を思い返した。
『これからも末永く……よろしくね? あなた』
小さい手で、小さい顔を隠して笑う彼女が目の前にいた。
はずだったのに……。
「……香織」
着替えが終わった瞬間、床に座り込んでしまった。
「野上!」
片瀬は僕が倒れると思ったのか、咄嗟に体を支えようと僕の肩を持った。
着替え終えたばかりのスーツのズボンには、無いはずのシミが。
そして、そのシミを広がるように、もう1つ、もう2つと目から零れ落ちたのだ。
僕の震える肩を落ち着かせるように、片瀬は背中をさすってくれた。
「泣いていい」と心で言ってくれたのだろうか。
そう思っていると、抑えきれない涙が溢れ出た。
「どうして僕、スーツ着ているの……どうして白衣じゃないの……香織……」
彼女が事故に遭った日から今日まで、何もかも空白だった僕。
止まらない涙と嗚咽で僕が苦しむ中、片瀬は斎場に向かうまで、ずっとそばにいてくれたのだった。
これが彼女と別れる朝のこと。
この日に泣いたのはこの時だけで……。
葬式では、彼女の両親がいた手前、泣くことができなかった。
ねぇ、香織。
香織が事故に遭ってしまう運命を辿るなら、僕たちは最初から出会うべきではなかったのかな。
もしそうだったら、香織は今でも笑って過ごせていたんじゃないのかなって。
君を失った今、そんなことを思うのは遅いのに……。
香織のことを最後まで守ってあげられなくて、本当にごめん。




