少年との約束 1
先週の金曜日は軽井沢にいたので、図書館に来たのは2週間ぶりだった。
少しドキドキしながら図書館に向かったが、中に入ると心はスッと落ち着く。
夜の図書館ならではの空気感にも、ずいぶん慣れたものだ。
カウンターに香菜子さんはいなかった。
ぐるりと見渡すと、1階にも人がいないことを確認する。
上は当然、誰もいない……今のところ貸し切り状態だ。
テーブル席へと向かい、持ってきた紙袋をテーブルの上にそっと置く。
紙袋には、軽井沢で買ったお土産がたくさん入っていた。
香菜子さんや月岡さん、そして遼くんにも会えたら嬉しいな……。
閉館の時間まで余裕はある。
誰か来ることを待ちながら、図書館のコーヒーを味わうことにした。
コーヒーサーバーの近くに行き、慣れた手つきでドリップをセット。
「軽井沢のコーヒー、美味しかったな……」
1泊2日の軽井沢旅行は、片瀬のお陰で有意義に過ごすことができた。
教会にもお邪魔して、パイプオルガンの神聖な音に耳を澄まし……。
雨予報が外れたことで、2時間程度のサイクリングで風を切って。
薬局長おすすめのパン屋と、お土産を買うために旧軽井沢銀座へ行き……。
帰る直前まで、片瀬は僕たちを連れ回してくれた。
時間が経った今でも、ハルニレテラスで起きたことは鮮明に覚えている。
何かの間違いだと思っても、自分の耳には「誠司」と香織の声がしたのは確実だった。
できあがったコーヒーを飲もうとすると、
「うううぅ……」
誰もいないはずの図書館から、赤ん坊らしき声が聞こえた。
今にも泣いてぐずりそうな……。
驚きはしたものの、声がした方向へ歩いてみた。
心当たりはただ1つ。
「結翔くん?」
小さい籠の中で、大人しくしている結翔くんを見つけた。
僕が図書館に着いたとき、結翔くんがいることに気づかなかった。
さっきまで眠っていて、ちょうど今起きたところだろう。
母親である香菜子さんが近くにいないせいか、何やら不安げな顔をしている。
それとも、寝起きでご機嫌斜めだからだろうか。
子供は好きだけど、こういうときはどう対処するべきか迷うところだ。
「あ……」
僕を見た途端に目を潤ませて、小さく泣き出しそうだった。
香菜子さんは一体、何処にいるのだろうか。
辺りを見渡すが、香菜子さんが居そうな気配すらない。
僕は意を決し、ゆっくりと近づいた。
「ごめん、結翔くん。 お母さん、ちょっと手が離せないみたいだから……」
捲れていた布団をそっと体に包み込ませ、お腹辺りを優しくポンポンと手をのせた。
自分なりに結翔くんをあやしてみると、興味を示したかのように、小さすぎる手を僕のほうに伸ばしてきた。
僕も同じように手を伸ばすと、指をきゅっと握ってくれる。
「ふふっ……かわいい」
少し気持ちが高ぶった僕は、ふとこんなことを思った。
今なら結翔くんと通じ合えるのではないか……。
もちろん、そんなはずはない。
「抱っこする?」
冗談交じりに小さく呟くと、さっきの結翔くんには無かった笑顔が見られた。
本当に通じたのか……?
「失礼します……」
首がすわってきた結翔くんだが、赤ちゃんらしく頭はしっかり重たい。
慎重に慎重にと、自分の方へ抱き寄せた。
小さいのにずっしりと厚みがある。
僕との距離がより近くなったことで、僕の顔面に手を伸ばしてくる。
頬を叩かれたり、鼻を摘ままれたり……痛いけど、そんな行動も許してしまう。
「お腹空いてない? それともおむつの交換かな?」
僕の心配を無視して、ご機嫌に笑っている結翔くん。
そんな顔をされたら、僕も一緒になって笑うしかない。
「まぁ、大丈夫そうかな」
少しでも結翔くんを寂しくさせないようにと、1階フロアを回ってみた。
図書館なので、可愛らしい装飾品は無いが、雑誌や新聞など、観葉植物など見当たるものを見せてみる。
「これ、三木愛花っていう女優さんなの。 結翔くん、会ったことあるかな? 図書館にね、来たことあるんだよ。 綺麗な人でしょう?」
雑誌の表紙に載っている愛花さんを見せると、僕の胸に顔を埋めている結翔くん。
愛花さんを見て、恥ずかしがっているのか?
「……元気にしているかな、愛花さん」
渡米してから日が経っている。
ふと、最近の愛花さんが気になって、独り言を発していた。
雑誌を棚に戻し、別のところに視線を変える。
「あ、そうだ。 お土産」
紙袋の中を片手で漁り、結翔くんに見せてみた。
「これはね、結翔くんに買ってきたの。 可愛いでしょ」
軽井沢に住むハンドメイドの作家さんが作った、猫のぬいぐるみを結翔くんに買ってきた。
興味を持った結翔くんは、口に含もうとする。
「気に入ってくれたかな? でも、食べられないよ?」
本当に食べられたら困るので、口元から少し離した状態にする。
それでも結翔くんは手からぬいぐるみを離さず、ニコニコとしていた。
「ん?」
入り口のところから音がした。
香菜子さんが戻ってきたと思い、体を反転させて入り口付近に行ってみる。
「誠司さん……」
現れたのは遼くんだった。
僕が結翔くんを抱っこしている姿を見て、不思議そうな顔をしていた。
「遼くん!」
やっと遼くんに図書館で会えたことが嬉しい僕は、笑顔で迎え入れた。
「え、抱っこしているのって結翔くん? え、いつの間に大きくなっている!」
人見知りをしない結翔くんは、遼くんが近づいてきても泣かない。
結翔くんの柔らかい頬をつんつんと触る遼くん。
間近で遼くんの顔を見ると、今日も血色があまり感じられなかった。
それでも、表情は薬局で会ったときよりも明るい。
遼くんと結翔くんの平和な雰囲気を、僕も笑顔で見守っていた。
「全然泣かないですね。 誠司さんに抱っこされていて、僕に頬を触られているのに」
「うん。 寝起きなんだけど、香菜子さんがいないから、僕が抱っこしていて」
「そうだったんですね。 ふふっ、可愛い……」
こうして話してみると、何も変わりない。
僕と遼くんが図書館で会うことが久々とは思えないぐらい、自然な会話をしていた。
「香菜子さん、どこにもいないんですか?」
「うん、1階にいなくて」
「じゃあ、上とか」
「まさか? あり得ないでしょう!」
いつも通り2階から上は真っ暗。
逆に人がいたら恐怖だ。
人が入らないように、仕切りも置かれている。
「うー」
結翔くんは2階の階段に視線を移していた。
上へ行きたいかのように、体重を前方にかけてくる。
抱きかかえていた僕もバランスを取ろうとすると、上へ行きそうになる。
暗闇の先には、できれば行きたくない。
「ちょっと、結翔くん……」
そのとき、一瞬だけ僕の視界に白い何かが映った。
「え?」
しかも階段の先である2階。
僕はもしかして、見てはいけないものが見えてしまったのか。
結翔くんを守るように、僕は少しだけ体勢を縮めて、自分の背中を階段側に向ける。
「誠司さん?」
僕の異変に遼くんも気づいた様子。
口を開くことも怖く思えて、呼びかけに黙っていた。
目線だけ階段の方に恐る恐る向けていく。
すると、誰かのつま先が見えた。
「誠司さんと遼くん?」
「あ……香菜子さん?」
ゆっくりと階段を下りて、1階にやって来た香菜子さん。
白い何かは香菜子さんが来ていた白いロングスカートだった。
恐怖心から解放された僕は、
「香菜子さんか……良かった! さっき見ちゃいけないものを見た気がして怖かったんですよ!」
早口で事情を話す僕に、香菜子さんは「すみません、怖がらせて」と謝っていた。
「でも、どうして真っ暗な上の階にいたんですか?」
「2階に飾るお花を変えようとしたんです。 スマホのライトで間に合ったので」
数輪のお花を手に持っている香菜子さん。
枯れている花を受付に近いゴミ箱へ捨てていたが、香菜子さんの表情がどこか暗かった。
「あ、遼くん。 久しぶりね。 来てくれたんだ」
香菜子さんから話題を転換され、遼くんにスポットが当たった。
「はい。 今日はわりと体調良いので。 誠司さんにも会えてラッキーでした」
「元気そうで良かった。 ゆっくりしていってね」
いつも通りの会話だが、どこか香菜子さんの雰囲気に違和感を覚えていた。
「誠司さんもごゆっくり」
「あ、あの! 香菜子さん!」
僕らの横を通り過ぎ去る香菜子さんを慌てて呼び止めた。
「結翔くん、さっき起きたみたいなんですけど」
結翔くんを抱っこしている僕に驚き、駆け足で戻ってきた。
「すみません、結翔のことを見ていてくださって」
申し訳なさそう言われて、結翔くんを香菜子さんへと渡した。
「起きちゃったか、おはよう。 まだ夜だけどね」
結翔くんに目を合わせ、香菜子さんは優しく話しかけていた。
そして、結翔くんを抱きかかえた状態で、
「本当に助かりました。 ありがとうございました」
頭を下げた香菜子さんは、静かに結翔くんとその場から離れていく。
「あ、お土産……」
猫のぬいぐるみを結翔くんに持たせたままだと後から気づき……。
結局、香菜子さんへのお土産も渡しそびれてしまった。




