僕の知らない彼女
軽井沢から東京に帰り、薬局で仕事をする日々に戻った。
片瀬と久々に会えて、軽井沢の雰囲気を楽しむことができて……。
何より、香織とのことが印象的だった。
2人で行ったことある場所ではないのに、まるで香織との思い出が新たに増えたような感覚。
軽井沢の出来事を図書館の人たちに言いたいけど、関谷くんにも共有したい気も……。
昔の香織もこんな感じで、関谷くんに話を聞いてほしかったのかなと思えた。
今日は関谷くんから受け取ったレポートに目を通していた。
一つ一つの言葉が丁寧で、気づきや改善点を細かく書いていたのだ。
実習生を指導できるか最初は不安だったが、レポートを読んでいると「引き受けてよかった」と実感する。
あと、関谷くんは綺麗な字を書くのだなと感心していた。
僕と片瀬も字が綺麗とは言えないので、羨ましいなと思うところだ。
すると、休憩室に誰かが入って来た。
「あら、野上先生」
やって来たのは休憩に入った薬局長だった。
機嫌が良さそうな雰囲気。
「お疲れ様です」
紙袋を手に持って僕のところに近づいてきた。
「関谷くんのレポート?」
「はい。 昨日受け取ったので、今見てまして」
僕の斜め前に腰を掛けながら「そっか」と相槌をするも、薬局長の視線は紙袋だった。
「野上先生もいる? 焼きたてのクロワッサン」
ご機嫌な理由はパンだった。
確かに良い香りがする。
「僕は大丈夫です。 せっかくの焼きたてですから、薬局長が食べてくださいよ」
「いいの? じゃあ、私は頂くよ」
薬局長はそう言って、野菜ジュースを冷蔵庫から取り出そうとしていた。
「関谷くん、すごく良い子でしょう」
薬局長の言葉に、僕はすぐ頷いた。
「本当に良い子です。 いつも彼の人柄に僕が救われていまして……」
僕の返しが気になったのか「そうなの?」と笑い交じりに驚く薬局長。
「最初の頃、関谷くんから話しかけてもらうことが多かったので……」
「ははっ! まぁ、関谷くんは誰とでも話せるタイプだからね」
薬局長の「誰とでも話せるタイプ」という表現で、片瀬のことが頭に浮かんだ。
「あと見た感じ、片瀬に似ていませんか?」
「あぁ、片瀬先生? そうね、身長が高くてちょっと色黒で……笑ったときの感じとか?」
同感だったのか、野菜ジュースを飲みながら気まずそうに苦笑いしていた。
「ですよね。 薬局で初めて会ったとき、片瀬が戻ってきたのかと錯覚してしまいました」
「えぇ、そこまで!?」
薬局長に大ウケだった。
「ところで、片瀬先生とは連絡取っているの?」
姿勢を変えて、改まって聞いてきた薬局長。
「たまにしますね。 向こうから『そっちはどう?』みたいな感じで来ますよ」
「そういう軽井沢はどうなのかしら……向こうから何か言ってないの?」
「彼は彼で、軽井沢の生活を穏やかに送っているみたいですよ? あぁ、そうだ薬局長。 これなんですけど……」
取り出したのは、片瀬と一緒に行ったパン屋さんのトートバッグ。
「え、これどうしたの?」
薬局長イチオシのパン屋。
しかも軽井沢限定だ。
「実は先週末の有給、片瀬のところに行ってきまして……お土産です」
「いいの!? ってことは食べてきた?」
「はい、おすすめのパン屋さんに行きました。 すごく美味しかったです」
「でしょ? いやぁ羨ましい! 軽井沢で食べるから美味しいっていうのもあるけど!」
トートバッグを気に入ってくれた様子でホッとした。
「片瀬も食べていましたよ。 確かセサミが入った限定のパンでした。 美味しかったと……」
片瀬は頑なにご飯派と言っていたが、その日のお昼は一緒にパンを食べてくれた。
「そう……なら良かったわ」
薬局長は平然を装った感じで言葉を返すも、さっき買ってきたクロワッサンを頬張り、嬉しそうな顔を浮かべた。
「片瀬先生と関谷くんね……違うのは内面的な部分かしら? 片瀬先生は体育会系で熱いタイプだけれど……関谷くんはそこまでガツガツしてなくて。 でも、根は明るくて好奇心もあって……関谷くんは色んな人に好かれるタイプよね」
正にそうだ。
僕だけでなく、他の先生や事務員さんとの会話も円滑にできていて……。
関谷くんと図書館で会ったときから、人柄の良さは伝わっていた。
「そうですね」
僕は微笑みながら返事をする。
「そういうところは……なんとなく香織さんに近いかしら?」
突然『香織』の名前を耳にしてハッとした。
それと同時に、前から少し気になっていたことを尋ねてみる。
「どうして薬局長……香織のことを……知っているん……」
香織と付き合っていて、入籍のことも話していたが……。
僕の記憶では、香織と薬局長は会ったことがないはずだ。
薬局長は机にティッシュを敷き、持っていたクロワッサンを置いて話し始める。
「実は前に一度、香織さんに薬局で会ったことがあったの。 その日、野上先生はお休みだったんだけど……点鼻薬を貰いにここへ来たの」
僕が勤める薬局に、香織が来たことは初耳だった。
「野上先生がいるから気を遣わせちゃうと思って、来るのは避けていたらしいけれど……その日は仕事終わりだったのかな。 かかりつけの薬局は営業が終わっていたのもあって、野上先生がお休みの日に来ていて」
「僕、知らなかったです……」
薬局長はそのまま話を続ける。
「わざわざ菓子折りまで持っていてね、香織さんから『私が来たことは誠司に内緒でお願いします』って言われて……だから野上先生には言わなかったの。 ずっと黙っていてごめんなさい」
「いえいえ、香織にそう言われていたんですから……」
患者さんからのご厚意で、お菓子など頂くことは度々あった。
香織が用意してくれたものを、僕は何も知らずに食べていたのかもしれない。
謝ってきた薬局長をなだめたが、内心はとても困惑していた。
できれば僕もその場に居たかった……そう思っていると、
「話してみて感じたわ……あんなに笑顔が素敵で太陽みたいな人。 野上先生、幸せだろうなって」
薬局長の笑みに、僕は小さく「はい」と迷わず返事をする。
「でも、それ以上に……香織さん幸せなんだろうなって思ったわ」
片瀬以外に、薬局に勤める人の前で涙が出たのはこのときが初めてだった。
上司であり、香織と同じ女性からそう言ってもらえるとは……。
「香織はここで……どんなことを話していましたか?」
涙で顔を濡らしながら、僕は懸命に質問をした。
「ものすごく野上先生のことを褒めていたわ。 『私には到底できない仕事をしている彼が、本当に尊敬してやまないです』って」
香織の言葉をそのまま言ってくれた薬局長。
香織が目の前で言ってくれたみたいで、僕は涙で言葉を詰まらせた。
「婚約が決まったことは知っていたから、私も『おめでとうございます』って言って……初対面なのに、失礼ながら『結婚が決まった今の気持ちはどうですか?』みたいに聞いたの。 そしたら『私を選んで、人生を歩んでくれることに感謝しています』って……もうさ、百点満点の回答だよね」
香織の言葉を静かに聞きたいのに……涙が邪魔をして、そう上手くいかない。
お礼を言うのは僕のほうだ。
僕を好きになってくれて、僕のプロポーズを喜んでくれて、僕のすべてを受け入れてくれて。
本当に、本当に……。
「野上先生。 素敵な人と出会えて、本当に良かったわね」
薬局長の優しい微笑みと、温かい言葉を聞いて涙が止まらなかった。
「はい、本当に……良かったです」
関谷くんのレポートに涙をこぼさないよう、そっと端に置く。
「すみません……こんな、情けないところ見せて」
香織のことがあってから、負の感情を表に出さないよう気をつけていたが……。
予想もしていなかった薬局長の話に、感情を露わにしてしまった。
薬局長は僕の謝罪に首を振り、机にあった箱ティッシュを僕に差し出してくれた。
「実は関谷くん、香織が家庭教師のバイトをしていたときの教え子だったみたいで。 その話を最近、関谷くんから聞いて知ったんです。 僕の知らないところで、香織はこんなにも僕を想っていてくれたんだと思うと……なんか嬉しくて」
「そうだったの? そんな偶然があるなんて」
薬局長もかなり驚いていた。
「きっと香織さんが……関谷くんと野上先生を引き合わせてくれたのかもね」
「関谷くんとも同じこと喋っていました……香織に感謝しないとだねって」
僕の涙がうつったのか、薬局長はティッシュ1枚を折りたたんで目尻を抑えていた。
「香織さんのことを思い出してね……今回の実習生の指導を野上先生にしたの」
突如、薬局長はその話をしてきた。
「香織が……ですか?」
僕の疑問形に、薬局長はコクコクと頷く。
「先生はあまり自分に自信が無いタイプでしょう? でも、仕事は丁寧だし、人見知りでも患者さんとしっかり向き合っているから。 私はそう見ていたし、特に香織さんは先生を信頼と尊敬をしていたから」
薬局長との会話で、香織はどれだけ僕を褒めてくれたのか……。
僕は少し恥ずかしい気持ちだったが、薬局長の表情は明るかった。
「やっぱり野上先生にお願いして本当に良かった!」
「……ありがとうございます」
月岡さんに言われたように、自分の口からお礼を言った。
嬉しさと恥ずかしさが混ざった気持ちだったが、自分を受け入れる言葉を言っただけで、心がスッと軽くなる。
それでも涙は止まらなかった。
「その顔では表出られないわね!」
僕の顔を見ながら、薬局長は笑顔でそう言ってきた。
自分でも察する……泣きすぎて相当酷い顔をしているだろう。
「ですよね……落ち着いてから戻ってもいいですか?」
「そうしなさい!」
再びクロワッサンを食べだした薬局長。
歯並びの良い歯でかじった音が妙に気になった。
「薬局長、やっぱり貰ってもいいですか? クロワッサン」
涙を拭ってお願いをした。
「食べなさい! ほら、美味しいから!」
ぶっきらぼうに紙袋ごと渡されて、1つクロワッサンを手にした。
小さく「いただきます」と言って、ゆっくり口に入れる。
「お、美味しい」
程よい甘さに、思わず目が丸くなる。
僕のリアクションを見て、得意げそうに笑う薬局長。
「こういう風に野上先生と話ができたのも、関谷くんの実習担当をお願いできたのも……香織さんのお陰ね」
「薬局長、もう泣かせないでください!」
「あぁ、ごめんってば!」
慌ててティッシュを何枚も出し、僕の目の前に出してくれた薬局長。
自分を案じてくれる人がこうやっていることは、本当にありがたいことだ。
優しい涙がなかなか止まらなかった、午後3時の休憩室だった。




