夕方の図書館
食器やグラスを洗うと、シンクも泡が残らないように水で流していく。
微かに充満するお酒の臭いを消そうと、ベランダの窓を開けに行った。
すると、外からセミの鳴き声が室内にも響いた。
生ぬるい風を全身に浴び、眠気を感じたのか小さく欠伸をした。
少し寝ようかとも思ったが……まだ16時を過ぎたくらいで、寝るには勿体ない。
こんな時こそ図書館に行こうかと閃いた。
とはいえ、月曜日はやっているのだろうか?
洗面所に置きっぱなしだったスマートフォンを拾い、図書館を検索しようとした。
「しまった……何ていう名前だっけ」
週1ペースで行っているのに、肝心な図書館の名前をど忘れしてしまった。
仕方なく『ここから近い図書館』と検索し、現在地からそれっぽいところを探し当てる。
方向的に見ると『阪峰記念図書館』と名前がヒット。
自治体とかが管理しているのではなく、個人で運営しているらしく、全国でも珍しい図書館とのこと。
月曜日である今日も開いていることが確認できた。
だが、僕が知る金曜日の夜については一切記載されていなかった。
キリのいいところで、スマートフォンの画面を切り、僕はラフな私服に着替える。
自分の姿を鏡で見ると、ドライヤーを使わなくてもいいくらい髪は乾ききっていた。
***
日が昇っている時間に、図書館の外観を見るのは今日が初めて。
イメージしていた以上に古びた建物だった。
当然、入り口前の急な上り坂はあるが、夜に来たときよりも短い距離感だなと思ってしまう。
毎週金曜日の夜に通う図書館で間違いないのに「違う図書館ではないか?」と錯覚する。
なぜならば……扉を抜けると、開かずの階段が遮られていないからだ。
パーテーションを仕切って立ち入り禁止なのは、金曜日の夜限定らしい。
目の前の光景が不思議でしょうがなかった。
入り口近くのカウンターは、香菜子さんではない別の女性が入っている。
目を合わせるのは難しかったが、浅い会釈をして歩みを進めた。
僕がいつも使う1階フロアは、夜に開放されているときと同じように机と椅子はあるが……。
この日、コーヒーはワゴンごと撤去されていた。
そうだ……香菜子さんも言っていたが、館内は飲食禁止。
夜だけは特例で良いとされていたけれど、ここは厳粛な公共の場だ。
夜の図書館は「貸し切り状態か」と思うほど閑散としているが、日中は満遍なく人がいる。
無論、静かな空間ではある。
夜の図書館を知っているせいで、やはり変な感じだった。
目線を上げ、一度も行ったことがない上の階へ足を踏み入れることに。
階段はわりと広く、重厚感のあるワインレッドのカーペットが敷かれた造りだった。
フロアは5階まであり、上のフロアも階段を真ん中に、左右に分かれてスペースが出来ている造り。
2階には地元の資料館や寄贈品の展示、本の検索機や、貸し出し受付のカウンター。
3階から5階は、ありとあらゆる本が置かれていた。
そして、無数の本に囲まれる中、自習をしに利用する学生がちらほらいる様子も伺える。
大学入試の勉強で使う赤本を開いている人を見ると、勝手に懐かしく感じていた。
ノートは開いているのに、居眠りしている人を見ると、クスッと笑ってしまうし、睡魔との戦いに共感してしまう。
10年前の自分もああだったなと思うし、もう10年も経つのかと思うと、妙な切なさも感じさせる。
思い出に浸りながら、3階から4階へとゆっくり歩き回った。
「そういえば……」
館内の半分以上を見て回ったが、香菜子さんの姿を見かけなかった。
日中は結翔くんの育児もあって、仕事で図書館へ行くことは難しいのかもしれない。
それと同時に、真夜中こそ図書館にいて大丈夫なのかと心配にもなった。
***
最上階までやってくると、階段から見下ろした景色に圧倒された。
ここでもゆっくりとした足取りで、5階のフロアを回ってみる。
進むにつれて、理系、生物系といった僕の専攻分野であろうジャンルのコーナーを発見。
指で辿っていき、本の見出しをサラッと見ていると、
「!」
驚いたことに、香織と出会うきっかけになった本を見つけたのだった。
「あぁ……」
あまりの嬉しさから小さく息を吐き、手に取って中をじっくり見返した。
めくればめくるほど笑みが溢れて……そして泣きそうになる。
「……」
手にしているのは、実際に僕が持っていた本。
香織は図書館にある本だと勘違いして、僕が読み終わったら貸してほしいと言ってきたあの日。
すべてはこの本から始まった。
頬に伝った水分を軽く拭って、当時の余韻に浸っていく。
そんなときだった。
「あの、すみません……」
「!」
突然誰かに呼ばれて、両肩が跳ね上がった僕。
顔を上げると、声の正体は若い男の人だった。
左手に紙を持っていて、ものすごく申し訳なさそうな顔をしていた男性。
香織とのファーストコンタクトと同じ表情だった。
「すみません驚かせて……あの、その本って今日借りますか?」
お目当ては僕が持っていた本だった。
「これですか? いや、そんなつもりは……」
「あ、よかった!」
安堵したのか、声が大きくなってしまったようだった。
咄嗟に人差し指で「し!」と彼にジェスチャーをする。
が、あまりにもあの頃のデジャヴに笑ってしまった。
「すみません……」
反対に彼はますます申し訳なさそうな顔をしていた。
「違うんです。 その……前もこんなことあって、まさかの同じ本だったのでつい……」
「そう、でしたか……」
必死に小声で事情を説明した。
無意識とはいえ、いきなり笑ってしまったことを心の中で反省する。
「その本、買おうか買わないか迷っていて、ダメ元で図書館に行って検索したらあったので……お兄さんが持っていた時『終わったな』って思いました」
「あぁ、申し訳ない……」
手には検索機で印字された紙を持っていた。
話し方が若者らしく、面白みもあった。
僕も謝りながら、相手に釣られて笑っていた。
「君は大学生?」
「はい。 レポート提出があるので、参考になりそうな資料が欲しかったんです」
当時の僕と境遇がドンピシャで、共感が増していくばかりだった。
「そうすると理系かな? 大変でしょう。 僕も君くらいの時、かなり苦労したから」
初対面の人なのに、余計なことまで話してしまった。
自分から喋った後、後悔することがたまにある。
相手の人『何こいつ喋っているの?』とか引いたよね、きっと。
「そうなんです! 自分、薬学部なんですけど本当に大変で」
想定していたこととは裏腹に、良いリアクションが返ってきてホッとした。
しかも薬学部の大学生だった。
「薬学部なの? わぁ……僕も薬学部出ているんだ!」
こんな偶然が重なるだろうか。
一瞬ボリュームを上げてしまったが、はっとして小さく彼に言った。
「え! ってことは、今お仕事は薬剤師ですか?」
彼の目はキラキラとしていた。
「そう! 見えないでしょ?」
自虐的に言ったが、彼は「いえいえ!」と盛大に否定してくれる。
すると、小さくマナーモードの音が聞こえてきた。
「すみません……僕です」
音の正体は彼のスマートフォンだった。
着信だろうか……少し慌てている様子。
「僕はこれで。 あ、勉強頑張ってね」
持っていた本を彼に渡した。
薬学部の先輩に相当な感動をしてくれたのか、目が無くなってしまうほどの笑みで頷いてくれた彼。
小声での会話だったが、頼もしい姿を見せてもらえた瞬間だった。
「何となく」の気持ちで図書館に来たけれど……今日のこの時間に、図書館に行って良かった。
僕はまた図書館に救われたんだ、そう思った。




