月岡エピソード 先生に恋したあの日 2
思考が一瞬だけ停止してしまったので、とりあえず先生の言葉を口にしてみる。
「離婚協議?」
「うん。 少し前に離婚したの」
すんなり答えた先生。
「ていうか、結婚していたんだ、先生」
何故だか僕のほうがダメージを受けていた。
まるで、第一ラウンドで一撃食らって負けた気分のよう。
「これだけ生きていたら結婚もするし、離婚だってあり得る。 子供がいなかったから、そこまで面倒ではなかったからまだマシよ……」
最後の言葉は、流石の先生も苦し紛れに言っていた。
「そっか。 色々と苦労されたんですね……」
「ふふっ、なんか私が知っている月岡じゃなくて変な感じだな。 もっとこう『先生、離婚とかやばくね?』って弄ってくるかと思ったけど、キャラ変わったの?」
先生は運転席にいる僕の方に顔を向け、手で口元を添えて笑みを浮かべていた。
「ち、違いますよ、そんな……」
言葉を続けたかったが、信号が青に変わってしまった。
ブレーキを離し、車をゆっくり前進させる。
「まぁ、私は大丈夫よ。 今日は月岡に会えたお陰かな、倦怠感はほとんど無いよ。 病は気からって間違ってないわね!」
左に曲がったタイミングで、先生の横顔を見た。
車から外の様子を見つめ、凛とした姿が妙に綺麗だった。
体調が悪くて、つい最近は離婚をした先生。
何か励ましたいのに、どんな言葉がいいのか……。
「あ。 そこの細道入る手前、コンビニあるでしょう。 そこで降ろしてもらえたら丁度いいかな」
もうすぐ2人だけの時間が終わろうとしていた。
僕は先生の言った通り、コンビニの駐車場に入る。
「ここから近いんですか?」
「うん。 歩いてすぐだから平気よ。 ちょうどコンビニで買い物したかったし」
急激な寂しさなのか。
いつもと違った何かが、僕の心に引っかかってきた。
「今日は本当にありがとう。 久々に会えて嬉しかった。 これからも頑張るんだよ!」
満面の笑みで、先生は僕の肩に手をそっと包むように触れた。
コクリと頷きながら「はい」と言った僕だが、
「やめてよ、その寂しそうな顔。 卒業式と同じ顔している」
僕の表情が面白かったのか、先生は吹き出していた。
「卒業式の僕って……どんな感じでした? あんまり覚えていなくて」
高校の卒業式から10年以上が経つ。
証書を受け取ったくらいしか覚えていない。
先生は懐かしむように話し始めた。
「最後のホームルームが終わったとき、私のところに月岡が来てくれたの。 まだ国立大学の合否が出てなかったせいか、あまりいい表情じゃなかったの。 今みたいにね」
確かに僕は国立大を志望していた。
友達は私立大への入学が決まっていて、僕は焦りや不安を感じていたのだろう。
「私がね、少しでも笑わせようと思って『そんな顔していないで、制服の第二ボタンを好きな子に渡すとか、最後の高校生活を楽しく締めくくりなさい』って冗談言ったの。 そしたら月岡が『じゃぁ、先生が貰ってください』って言ったのよ。 覚えてないか」
目を大きく見開いて、頭を抱えた。
そんなことがあったのか。
というか、そんなことを自らしたのかと思うと、顔から火が出るほど恥ずかしかった。
「で、本当にくれたの。 冗談のつもりで言った私がそれを貰ったの」
カバンを広げ、中からペンケースが出てきた。
見覚えのある赤い合皮の小ぶりなペンケースだ。
チャックを開けると、小さいポケットから古びたボタンが出てきた。
「ほらね。 華衣高校の校章でしょ」
人差し指と親指で優しく包み、僕に見せてきた。
そして先生は僕の手首をゆっくり動かし、手のひらにボタンを置き……。
「結果、第一志望の国立大学に実力で受かったのでしょう。 貰ったボタンは、私の筆箱にずっと大事に入れていたわ」
穏やかな口調で、先生は僕に感謝するように言ってくれた。
「これからは、貴方が持っていなさい」
手のひらに置いたボタンを握らせるように、僕の手の上から先生は両手で包んでくれた。
先生は「じゃあ、気を付けて帰ってね」と、最後まで笑ってドアに手を掛ける。
「先生待って!」
助手席から出ようとした先生を引きとめた。
先生は体ごと振り返り、首を傾げてこちらを見る。
「今日が最後とか無しにしてほしいんだけど……」
「え?」
「先生は僕のこと教え子の1人かもだけど……ほら、今じゃ先生としては先輩後輩だし、相談とか乗ってほしいし!」
次もまた先生に会いたい。
その一心で、どうにか理由を並べてみたが……。
先生はちょっと困った顔をしていて、何なら面倒くさそうな感じでもあった。
でも、こんなことはこれから先無いと思ったから。
今、この瞬間を逃してはいけないという直感があった。
こうして先生は僕の圧に負けて、連絡先を交換し、次も会うことを約束してくれた。
***
その後、先生はステージ2の乳がんという診断結果が出た。
僕と他愛のない会話をしていた最中、いきなりその話を告げてきたのだった。
しかも、先生はケロッとした様子で。
今思うと、僕と久々に再会した日の時点で、先生は『自分は病気を患っているのかも』と察していたのかもしれない。
仮にそうだとしたら、何故あの時、先生にもっと寄り添えなかったのだろうと……。
時々思い出しては、強く自分を責めてしまう。
ただ、第二ボタンのくだりを思い出すと、先生のことを意識していなかったはずの高校生の僕は、実は恋心を寄せていたのだろうか。
もしくはあの時、先生のふざけた冗談にイラついて、咄嗟にやったことなのか。
大人になった僕には、当時の真相が思い出せなかった。
それでも先生の記憶の中に、自分が第二ボタンを渡したことが大きく関わっていたとすれば……18歳の自分を褒めてあげたいと思ってしまう。
よくやった、高校3年生の僕。
病気のことを聞いても、僕の心は何ら変わりなかった。
だって、病気になったからって、先生が先生じゃなくなるってことはないでしょう?
病院での再会から3回目の時、病気のことを聞かされたと思う。
先生と毎回会うたびに、懐かしさと恋しさが増していた矢先だった。
先生は辛いことを隠し通そうとする癖が昔からあって。
当時も笑いながら「乳がんだって!」と言ってきた先生。
でも、そんな先生を見て決心した。
『この人とずっと一緒にいよう。これから先、何があっても』
野上くんが言っていた『彼女の良いところもそうじゃないところも、全部好きだ』という話は、本当にその通りだと僕も思う。
でも、この時の僕は甘かったな。
初期段階と聞いていたので、治るだろうと過信していた。
当時の先生は38。
回復も早ければ、がんの再発や転移もあり、8年の月日が経った。
亡くなる少し前の会話が、今でも忘れられない。
『私を好きになってくれてありがとう』
『貴方のお陰で、ここまで生きられた』
『最期にこうして自分を愛してくれる人に見守られて、本当に幸せなことね』
『ありがとう。 愛しているわ』
先生。
いや、美佳子さん。
僕も貴方の傍にいられて幸せでした。
もし僕らが出会った高校で、僕が高校生として戻ったら、真っ先に「好き」と伝えてもいいでしょうか。
きっと先生は即行で断るだろうけど。
それでも貴方に恋してもいいでしょうか。
いつかこの先、もっと先になるかもしれない。
僕が貴方のところに逝く日が来たら……。
また僕を叱ってくれると嬉しいな。
それまで僕は、この世界で貴方を一生思い続けているからね。




