月岡エピソード 先生に恋したあの日 1
今と同じくらいの気候だっただろうか。
あの頃も梅雨が明けるか否かの蒸し暑い7月だったと思う。
当時、僕は27か28歳だった。
今の野上くんと同じくらいの歳。
彼の姿を見ていると、どことなく僕と美佳子さんが重なるんだよね。
偶然、同じ図書館を利用していた僕と野上くんだけど、もしかして必然なのだろうか。
美佳子さんとの縁も関係しているのだろうか……話が逸れたね。
どうも年を重ねるごとに、些細なことで物思いに耽ってしまうようになった気がするんだ。
***
市内の大きい病院にいた僕。
診察を終えて、待合スペースへ歩いていたところだった。
「先生。 本当にすみませんでした……」
そう言ってきたのは、僕が顧問をやっていたテニス部2年の女子生徒だ。
右足を少し引きずって俯いたまま、小さく僕に謝ってきた。
彼女の歩くペースに合わせて、僕も横でゆっくり歩いていく。
「大怪我じゃなくて良かったよ。 しばらくは安静にして。 まずは治すことに専念しなさい」
怪我への苛立ちがあるのか、彼女の素直な返事は聞き取れなかった。
来月から夏の大会が控えていた彼女は2年生ながらも、3年生たちと大会に出るほどのレベルだった。
今回は、ダブルスで出場を予定していた矢先での怪我。
思わぬアクシデントに動揺していて、ペアを組む3年生にも負担がかかることを恐れているのだろう。
年頃の生徒にあれこれ言わないほうがいいと思い、僕からそこまで話しかけなかった。
この日は土曜日の午前練習を抜け、お昼を過ぎていた。
「お会計してくるからロビーで座って待ってなさい」
首を縦に振り、重い足取りでロビーに向かっていった女子生徒。
僕は受付に近いところで会計を待っていた。
「お名前でお呼びします。 コジョウミカコさん! コジョウミカコさん!」
事務員さんの声掛けに、はたと耳が反応した。
10年ほど前、僕が通っていた高校の先生と同じ名前だったのだ。
「久々に聞いたな」とぼんやり思っていた。
呼ばれて少し間が空くと、1人の女性がやってきた。
その人の姿が見えたところで、僕の中でデジャヴが発生した。
『はい! 席ついて! 授業始まるよ!』
化学の授業になると、決まって教室に入ってくる先生の光景が突如頭の中で再生される。
そして、僕の目にも恩師が紛れもなく映っていた。
「すみません! コジョウです!」
事務員さんと女性は話をしているが、僕はその様子に釘付けだった。
高校を卒業してから10年も経っているというのに、見た目はほとんど変わらない。
むしろ、綺麗の度合いが上がっていた気がする。
こげ茶のセミロングに、肌触りの良さそうなグレー色のブラウスに、黒いパンツ姿。
昔は膝丈のタイトスカートを履いていたのに……なんてちょっとだけやましいことまで思い出した。
「先生?」
声がした方を向くと、一緒に来ていた生徒だった。
「私の名前、呼ばれています。 精算しないと……」
足を引きずりながら、わざわざ僕のところまで来てくれたようだ。
呼ばれたことに気付かない僕は慌てふためき、その衝撃で自分の荷物を派手に落下させた。
自分でも呆れるくらい焦っていた様子。
「悪い。 これで払いに行ってもらえるか」
生徒に自分の財布を渡して、お会計を託す。
それと同時に、落とした物を拾おうと膝を曲げると、ほとんどの物が無くなっていた。
驚いた僕が周囲をキョロキョロしていると、
「どうぞ」
両手に僕の私物を器用にまとめて差し出してくれたのは、
「先生……」
さっきの女性、コジョウミカコ。
向こうは、僕の顔を見ても少し首を傾げた感じだ。
「美佳子先生ですよね。 僕、華衣高校で先生のクラスだった月岡聡志です!」
高校名を口にしたのは久しぶりのこと。
それを聞いた先生は目を見開いた。
「え! 月岡?」
手を口で抑えた瞬間、せっかく拾ってくれたものがまた床に落ちた。
「あ。 ごめん!」
「ふはっ。 大丈夫ですよ!」
茶目っ気は相変わらずのようだった。
それが妙に懐かしくて、ふと笑ってしまう。
落ちたものを拾いながら先生は言った。
「肌が焼けて、高校の時よりも背が伸びて……雰囲気変わったから驚いた」
高校卒業してから縦に伸び、テニス部の顧問をやっているせいで、生徒と一緒に日焼けしてしまった。
「僕、実はさっき向こうにいたときから『もしかして先生かな?』って思っていて。 先生は前と全然変わらないですね」
先生は少し嬉しかったのか「そう? もういい年だよ?」なんて言って笑っていた。
「先生、お会計終わりました」
荷物が片付いたタイミングで、精算を終えた生徒が戻ってきた。
ジャージ姿の女子に美佳子先生は目を点にしていた。
生徒もキョトンとした顔で僕らを見ていたので、
「あぁ、紹介するよ。 こちら古城美佳子さん。 先生が高校の時の先生だったんだ!」
と、久々の再会に嬉しさもあって声を張ってしまった。
「は、はじめまして」
「こんにちは」
微笑む美佳子先生とは対照的に、緊張した顔で挨拶していた僕の生徒。
「で、美佳子先生。 彼女は僕の生徒なんです」
「え……月岡、先生になったの?」
先生は今にも泣きそうなくらい、目を潤ませていた。
今まで自分の仕事をこれだけ誇らしく言えたことはあっただろうか……というくらい満ち溢れた気持ちだ。
「はい。 中学校の先生、やっています!」
くしゃっと笑う美佳子先生は健在だった。
***
何故だろうか。
自分でも分かるくらい、心臓の動きがいつもより早い気がするのだ。
「先生! この後は帰りますか?」
自分の生徒がいる前で、突拍子のないことを聞く。
僕の頭の中をよそに、先生は「もうバスで帰るところだよ」と自然な答えが返ってきた。
「彼女を車で送ってからになるんですけど、先生も乗ってくださいよ!」
「え、いいって! ちゃんと生徒を送り届けないと駄目だって!」
僕と先生のやり取りに、少し困惑気味の生徒。
しかし、僕はそんなことに気を留めていなかった。
その結果、先生をなんとか同乗させることに成功。
何て言ったかは、あまりにも必死過ぎて忘れた。
先生の言いつけ通り、生徒を自宅まで届け、彼女の親御さんにも話をし、学校にも顔を出してなど……。
あれこれしていたら、夕方近くまで先生を連れ回してしまった。
「なんか……結果付き合ってもらう感じになってしまってすみませんでした」
やっと先生を送り届けるところまできた。
肩を落としながら先生に謝る。
「ううん」
先生は何も僕に言ってこず、ただ微笑んだだけだった。
「それよりも嬉しかった。 教え子の姿を隣で見られたことが」
感慨深そうに先生は言ってきた。
運転に真剣だったため、先生の顔を見ることはできなかったが「どういうことですか?」と笑い交じりに尋ねてみる。
「こんなにも立派になって。 しかも、先生になったなんてびっくりよ。 教え子が卒業してどう頑張っているかなんて、まず見られないじゃない?」
「まぁ、普通はそうですよね」
「生徒の保護者にも丁寧に話している姿を見て思ったの。 私も教育者として、ちょっとは貢献できたのかなって……」
フロントガラス越しに遠くを見つめながら、先生は言っていた。
その瞬間、なんだか照れ臭くて「ここ、まっすぐでいいですか?」と関係ないことを聞く。
「そう。 で、3つ先の信号で左に曲がってね」
どのタイミングで着くかが分からず、変な焦りが出てくる。
いい感じに信号が赤になってくれないか……。
そんなことを考えていた。
「先生、今も華衣ですか?」
僕が通っていた華衣高校は私立高校だった。
「ううん。 5年前に退職したの」
「そうでしたか。 じゃあ、今は……」
「今はまた別のところで仕事しているよ。 事務職に近い感じかな?」
てっきりバリバリ昇格して、主任クラスとかになっていると思っていた。
「へぇ……そうなんですね」
どこまで聞いていいのか迷っていると、運よく信号に引っかかった。
「先生、ちなみに今日は何の用で病院に来たんですか?」
気になっていたことを切り出せた。
「体がここのところずっとだるくてね。 近くの病院でも薬が効かなかったから、紹介状書いてもらって、今日行ったの」
少し痩せた気がしたのと、よく見ると顔色がそんなに良くなかった。
口数も少なかったのも、体調不良が原因だったのだろうか。
「すみません……学校に寄らないで、すぐに送り届ければよかったですね……」
「いいんだって。 私が学校に報告してこいってしつこく言ったんだから」
先生は大きくリアクションしてそう返してきた。
「まぁ……離婚協議が落ち着いてホッとしたからだと思うけど」
聞き捨てならない言葉が僕の頭を駆け巡った。




