居場所 2
僕が余計な話を振らなければ……。
月岡さんに悲しい顔をさせて、奥さんの話をさせることはなかったはず。
「私も月岡さんと初めてお会いしたときから、優しくしていただいたので」
香菜子さんの話を聞いてますます思う。
あの日の晩、どう考えても悪いのは僕だ。
「そうですね。 月岡さん、とても優しい方でした」
カップに入ったコーヒーを見つめながら、僕は小さくそう言った。
「誠司さん?」
香菜子さんの呼びかけに気づかないほど、僕の気持ちは地に落ちていた。
月岡さんが図書館に来るかどうかは分からないけど……。
もし今日も会えないと、また次の1週間も月岡さんに後ろめたい気持ちで過ごさないといけない。
いや、そう簡単に許してもらえないかも……。
「あ、誠司さん。 そういえば前に話していた同期の方とはどうなりましたか?」
香菜子さんは2週間前に僕が話していたことを振ってくれた。
突然のフリに驚いたが、何気なく話したことを覚えてくれたのは、ちょっとだけ嬉しかった。
「今月はあまり同期とシフトが被らなかったんですけど、上司の計らいで、同期が引っ越す日に有給消化することになりまして。 見送りも兼ねて引っ越しの手伝いをしようかと」
「それはいいですね。 引っ越しは1人でやるより、人数いたほうがいいですから」
穏やかな表情で、返事をしてくれた香菜子さん。
初耳の遼くんには「前に誠司さんが来たときに、同期の話をしていて。 異動の話が同期の方にあったんですって」と、簡潔に話してくれた。
続けて遼くんも「そういうことでしたか!」と相槌を打つ。
「引っ越しはもうすぐですか?」
「はい。 来週の水曜日です」
「あぁ、あと本当に何日かですね……」
「そしたらあっという間に7月ですね……時間が経つのは早いな」
「ですね」
頷き合う香菜子さんと遼くんが遠くに感じる。
2人はすぐ目の前にいるのに、僕だけ時空が違う気がして。
なぜなら……。
香織の死から僕だけ時間が止まっているからだ。
あまり思い出したくないが……。
香織の訃報があったのは3月末。
今は6月末で、約3ヶ月の時間が経っている。
あまりにもショックが大きすぎて、今年の桜が咲いていたことさえ覚えていない。
気候が春から夏に変わる感覚はあっても、時間がどう流れていったかほとんど頭になかった。
香織のいない時間が3ヶ月もあったんだと思うと、途端に胸が苦しくなる。
僕、3ヶ月もの間、1人で生きていたんだ……そう考えてしまった。
「誠司さん? 大丈夫ですか?」
俯いていた僕に、香菜子さんは不安そうに声を掛けてきた。
「あぁ、すみません。 考え事をしていて……」
『どうしてこんなことになってしまったのだろう』
そう考えるのは何回目だろうか。
「7月だと……夜の図書館が始まったのって、その頃の時期じゃないですか?」
不意に遼くんが香菜子さんに問いかけたことで、新たな話題が生まれた。
「そうね、正確には去年の8月かしら。 お盆の時期あたりだったと思う」
「夜の図書館なんてよく考えましたね。 僕、香菜子さんのおじいさんに声を掛けられたとき『夜の図書館なんて冗談だろう』って思いました」
「遼くん、香菜子さんのおじいさんとも顔見知りなの?」
僕も少し気になった。
この図書館のこと。
「そうなんです。 僕の両親は、香菜子さんのおじいさんと仕事でお世話になっているので。 僕が子供の頃から、香菜子さんもおじいさんとも面識があるんです」
「へぇー。 そんな関係が……」
遼くんは何かを思い出し、話を続けてくれた。
「去年の夏、いつもみたいに昼間に図書館へ行ったら、おじいさんがいて。 『夜、図書館開いているから来い』って仏頂面で言われて!」
おじいさんの口調をマネする遼くん。
「ウチのおじいさん。 超がつくほどの無愛想なので」
香菜子さんは笑っていた。
「でも、あんな感じだけど、遼くんのことは可愛がっていたのよ?」
「おじいさんには良くしてもらいましたけど、喋り方が淡々としていてちょっと怖いんですよ!」
「一番言われたのは髪の色じゃない? 『高校生でこんなに髪を明るくして! 今すぐ黒に戻せ!』って怒られていたっけ?」
「『学校が自由だからいいの』って言っても『なんだその学校は!』って文句を言われました!」
おじいさんと遼くんのやり取りがちょっと面白かった。
「ちなみに、夜の図書館をやってみたらどうかって提案したのは、おじいさんじゃなくて月岡さんなのよ」
「えっ?」
香菜子さんが言った言葉に驚いた僕。
香菜子さんは少し言葉を溜めたのち、ゆっくり話をしてくれた。
「私が一時期、どうしようもないくらい悩みに悩んじゃっていて。 家にいるのも嫌になって、夜中に図書館へ逃げたんです。 そこにたまたま月岡さんが通りかかって」
「そう、だったんですか……」
意外なことを聞かされ、僕の頭の中はグルグルと回っていた。
「色々と話していったら『週に1度くらい、健全な逃げ道として図書館に来たらいいじゃないですか?』とか『辛くて悲しくて当たり前。 自分の感情が正直に出せる居場所を作ったらどうですか?』って」
「さすが月岡さん……言葉が刺さりますね」
遼くんの一言と同じ感想だった。
月岡さんだからこそ言葉が刺さる。
『仕事を休職して、ずっと家にこもっていた』
『泣きたくないのに、涙が込み上げてくるから』
月岡さんも、あまりに大きすぎるショックを受けたから。
香菜子さんを何としても励まそうとして……その結果、夜の図書館が生まれた。
「夜の時間に図書館を開けてみて、誰しも『何か』を抱えていることに気づいたんです。 喜びや楽しみだけじゃなくて、悲しい、逃げたい、疲れた……色んな感情や問題がそれぞれあるなって。 いつか壊れちゃうなって思ったとき、迎えてくれる居場所があると、少しは希望が見えるかなって。 私がいる限りは図書館を開けようってなりました」
僕はずっと、暗闇の中を彷徨っている状況だった。
香織を失ったことで、日々の温かい暮らしと、平常な僕の心と体まで失ったようで……。
負の感情から逃げるために仕事を休まず行ってみても、ずっと何かを気にしてばかり。
何もかも、投げ出したい。僕はすでに壊れていたんだと思う。
「誠司さんもここでは気負わず、楽に過ごしてください。 それが金曜夜の図書館ですから」
香菜子さんの微笑みがほんの少しだけ、学生時代の香織の雰囲気と重なった。
「さて。 一瞬だけ家に戻りますね」
香菜子さんはいきなり椅子から立ちあがった。
「結翔くんですか?」
初めて聞いた名前を口にした遼くん。
誰のことか分からないが、男の人であることに間違いはないだろう。
「それもそうなんだけど。 最近、おじいさんの体調が良くなくて。 ちょっと様子を見に行ってくるわ」
さっきはおじいさんの話で盛り上がっていたが、体調のことを聞くと、会ったことがない僕も心配になる。
「そうだったんですね……おじいさんによろしくお伝えください」
親交がある遼くんは、香菜子さんにそう言葉を掛けていた。
「おじいさん、どうかお大事にしてください」
僕も後から香菜子さんにそう言葉をかける。
「ありがとうございます。 では、ごゆっくり」
香菜子さんは微笑みながらそう言った後、1階のフロアから去っていった。
***
香菜子さんを見送った後、僕は思わず呟いた。
「……夜の図書館が月岡さん発信だったとは意外だったな」
この呟きに、遼くんは首を何度も縦に振る。
「こうして図書館にいられるのも、ある意味月岡さんのお陰ですね」
おもむろに遼くんが自分のスマートフォンを取り出すと、
「げ! 母ちゃん……」
「ど、どうした?」
この前は夜の外出は問題なさそうなことを言っていたのに。
「『病み上がりなのに、外出はダメでしょ!』って連絡が……」
しょんぼりとした顔で、僕にスマートフォンの画面を見せてきた遼くん。
お怒りのスタンプが連続で来てたので、僕も苦笑してしまった。
「アハハ……まぁそう来るよね……」
元気になったとはいっても、親はやはり心配だろう。
遼くんの親じゃない僕でも、お母さんの気持ちは理解できる。
「お母さん、きっと心配しているんだよ。 帰ったほうが……遼くん?」
胸元を摩りながら、遼くんは苦い顔をしていた。
どこか悔しそうな、何か言いたそうな表情だったが、
「そうですね。 今日は母ちゃんの言うことをきいて帰ります!」
いつもの遼くんに戻り、勢いよく椅子から立ち上がった。
「誠司さん、もう少し図書館にいますか?」
「あ……そうだね。 コーヒーを飲み切ったら帰ろうかな」
「ちょっとしたら帰る」と言ったのに、普通に居座っている僕。
月岡さんの話をしていたが、当の本人は未だにやって来ない。
「そうですか。 じゃあ、香菜子さんが戻ってきたら、僕は帰ったと伝えてください」
「分かった。 気をつけて帰って!」
幸い、遼くんは明るく帰っていった。
残ったのは僕1人。
それでも……。
「自分の感情が正直に出せる居場所……」
香菜子さん……月岡さんの言った通り。
僕にもこの図書館に対して、そう思える時がくるのか。
そういえば片瀬がこんなことを言っていた。
『香織ちゃんの葬式の日から、感情を抑えている感じがするから』
今なら分かる。
香織を失ったことについて、感情を人前で露わにせず、ずっと1人で泣いていたんだ。
だから月岡さんに会ったとき、月岡さんの奥さんと香織が重なったことに自分が驚いて、感情を出しかけていた……。
「月岡さん……」
絡まりすぎた糸が、僅かに解けた感覚。
その直後に一筋の涙が零れた。
僕、ここでなら泣いてもいいのか。
打ち明けてもいいのか。
抱えていた疑問から正解が見えてくると、想いがどんどん溢れてくる。
まずは月岡さんにちゃんと謝りたい。
そして……自分の話を聞いてほしい。
そう思ったこの晩は、月岡さんに会えないまま夜が更けてしまった。




