宇治の橋姫②
瑞貴は、青黒い岩肌の洞穴牢の中で目を覚ました。暗がりに目を凝らすまでもなく、そこは橋姫の居城だろう。天井から水が滴り、凹凸のある地面に水溜まりを作っている。右手が重たい感じがして、顔に近づけてみると何重にも護符が巻かれていた。宝珠の力を発動させないためだろう。真夏だというのに、洞窟の中はやけに寒い。トレーニングだけのつもりで上は半袖のティーシャツ、下はジャージで出掛けたことを後悔した。
瑞貴はゆっくりと体を起こした。実際に首を絞められたわけではないのに、喉の詰まる感じが残っている。ジャージの尻ポケットに入れていたスマホを取り出してみるが、当然ながら電波は入らない。先日、水没させてしまって新しくしたばかりのスマホの画面には、バッテリー残量七十四パーセント、時刻は十六時四十二分と表示されていて、明かりくらいには使えそうだった。
(お腹空いたな……)
ちょうど昼食のために帰ろうと思っていたところで、橋姫に攫われたのだ。フウロは無事に美弦に報せに行けただろうか。タカネは、と考えて、瑞貴は意識が途切れる直前に、タカネが縋ってきたのを思い出す。
「タカネ」
暗闇に呟いてみたが、返事もなく気配もなかった。タカネも橋姫に捕まったのだろうか。うまく逃げおおせていればいいが。
目が慣れてきて、牢獄の様子が少し見えてくる。三畳ほどの広さの洞穴の少しすぼまった出口に鉄格子が嵌められている。ふと見ると、鉄格子のすぐ内側に、おにぎりが三つ載った皿が置かれていた。瑞貴は訝しんでそれを眺めた。食べても大丈夫だろうか。瑞貴は鉄格子まで這い寄って、隙間から外を覗いてみた。すると、外で番をしていた鬼と目が合い、びくりとする。
『おう、宝珠の小僧、お目覚めか』
昔話に出てくるような、虎の皮のパンツを穿いた二本角の青鬼は、身の丈二メートルほどはありそうで、牢屋の番人としては申し分ない。
『飯を食え。橋姫様から死なせるなとお達しだ』
腕組みをしたまま、逞しい青鬼は不服そうに言った。殺しはしないと橋姫が言ったのは、嘘ではないようだ。それを食べるより他にないので、瑞貴は皿を引き寄せて自由の利く左手で食べ始めた。おにぎりは、普通に美味しかった。牢獄の隅に茶色いわだかまりがあり、近付いて見ると何かの動物の毛皮だった。少し獣臭かったが、瑞貴はそれに包まって寒さをしのいだ。
フウロが無事に美弦に報せたとして、誰かが助けに来ることはあるだろうか。毛皮の中で身を縮めながら瑞貴は考える。ぬらりひょんが橋姫の居城を再訪しようとしたが、結界が強化されていたと言っていた。そもそも異層である上に、結界が強化されているのならば絶望的だ。瑞貴は途方に暮れて、護符でぐるぐる巻きにされた右手を眺めた。試しに左手で護符を剥がそうとしてみたが、護符に触れた左手には電撃が走り、右手は護符できつく締め付けられる。
(宝珠を封じられたら、ただの人だからな……)
観念して、瑞貴は眠ることにした。橋姫が宝珠をどう使うつもりなのか知らないが、いずれにせよ今は体力を温存しておくに越したことはない。
食事はいつもおにぎりだったが、三食供給された。夕食にだけ、びっくりするほど固い干し肉が一切れ添えられていて、何の肉かは分からないが、しゃぶるようにして食べた。食事と時々見るスマホの画面でかろうじて時間の感覚を維持したが、暗闇の中で聞こえるのは、滴り落ちる水の音と、どこか遠くで水の流れる音、そして見張りを交代する時の鬼たちの短い会話だけだ。盗み見る鬼の姿はみな屈強で、力で敵いそうな相手ではなかった。
瑞貴が牢獄から出されたのは、一昼夜が経過した頃だった。褐色の肌をした立派な体躯の鬼に引っ立てられて階段を上り、松明の灯る青黒い岩に囲まれた廊下を通って、見覚えのある洞窟に出る。以津真天の捕獲の時には洞窟も廊下もあれほど鬼たちでごった返していたのに、今は閑散としている。
『橋姫様、宝珠を連れて参りました』
奥に外光の射す洞窟で待ち構えていた橋姫の周りには、数人の鬼が付き従っているだけだ。橋姫は白装束の鬼女のまま、三白眼で瑞貴を睨みつけた。
『宝珠を解放したるわ。そろそろ働いてもらわんとなぁ』
少し余裕を取り戻した様子の橋姫は、勿体ぶった含み笑いをしている。橋姫が手元で長い爪を弾くと、何重にも右手を覆っていた護符がほぐれ、ばらりと地面に落ちる。
『連れて行き』
橋姫が命じると、ここまで引っ立ててきた鬼がひょいと瑞貴を肩の上に背負い上げた。
「わっ、ちょっと、何すんだ」
鬼はじたばたと暴れる瑞貴を軽々と担いだまま、廊下の岩壁を押し開け、以前、瑞貴たちが潜入した白く滑らかに磨かれた石壁の部屋へと扉をくぐり抜けた。水路の両側に石像のように並んでいた傀儡妖怪たちは数体を残して姿を消しており、水のカーテンも止まっている。鬼はさらに次の扉に進んでいき、中央に泉のある円形の広場まで辿り着いた。
『うち、よう知らへんかったけど、宝珠さんの力やったら、遠くの橋同士をつなげることができるんやろ』
鬼の後ろを歩く橋姫は、瑞貴の顔を下から覗き込んで、わざとらしく微笑んだ。
『こっちは宝珠さんの大事な式神をお預かりしとるさかいな。しっかり、頼んますえ』
橋姫が掌の上に青灰色のシャボン玉のような球体を作り出すと、その中にはぐったりした小さな管狐の姿が見える。
「タカネ!」
瑞貴は鬼に抱えられたまま叫んだが、鬼は何の前触れもなく、まるで土嚢でも投げるように無造作に、瑞貴を泉の中心へと放り投げた。
声を上げる暇もなく、瑞貴は泉の青く澄んだ水に呑まれる。脳裏に再び、水底から湧き上がってくるとめどない泡の籠もった音が響く。水面から遠く沈むにつれて、グラデーションのように明度を失っていく澄んだ水に既視感を覚えた。
(橋姫は誤解してるんだ……)
底のない水の中を深く下降しながら、瑞貴は思った。橋と橋をつないだのは、宝珠の力ではない。あれはただ、刻一が瑞貴を導いただけなのだ。
天上の光が届くか届かないかの暗い水中に、橋姫が降りてきた。白装束の袖や裾と長い髪が四方八方へ広がって漂っている。橋姫は一瞬、瑞貴と対峙して、裂けた口でにやりと嗤うと、瑞貴の横をすり抜けてさらに深淵へと潜っていった。
前回と違って激しい濁流に押し流されていないせいか、不思議と苦しくはなかった。深くなるにつれ、耳の奥に迫るような静寂が満ちる。まるで、羊水に浮かぶ胎児のようだ。
急に、重たい水を溜めた袋がはちきれるような衝撃があり、足場を失うような墜落感を覚える。瑞貴は慌てて空を掻いたが、体が掬い上げられるようにふわりと浮遊した。
瑞貴は夏の陽射しの降り注ぐ、不自然に静かな灰色の石畳の上にゆっくりと着地した。さっきまで水の中にいたのに、体はちっとも濡れていない。瑞貴が周囲を窺うと、どうやら大きな橋の上のようだった。刻一が助けてくれた時のように荒々しくはないが、どこか別の空間に抜けたようだ。左手には欄干の向こうの眼下に湖のように広い川が広がり、右手には太い鉄骨で歩道と隔てられた車道が見える。相当大きな橋のようで、正面には二つのアーチ窓のついた石造りの塔屋が見え、遠景の河岸には高層ビルが並んでいる。真昼間なのにまったく人の気配がしないということは、ここは異層なのだろう。
『せっかく宝珠さんが宇治橋と神高橋をつないでくれはったのに、無粋な陰陽師に封じられてしもて。そんならいっそ、もっと大きな橋とつなごう思てな』
背後から橋姫の声がして、瑞貴は振り向いた。鬼女の姿の橋姫の後ろには、数人の屈強な鬼たちが控えている。橋姫の手の上に浮遊する青灰色の光の球体の中に、丸まったタカネの姿がある。目を閉じており、眠っているようだ。
「タカネ!」
『ほほ。生きとるから安心し。ただ、この管の命もうちの匙加減ひとつやということは、覚えといてな』
瑞貴は唇を噛んだ。自分の身だけなら多少の無茶もできるが、タカネを人質に取られているとなると、下手に逆らうことはできない。
橋姫は、大きな橋の金属製の欄干に片手を掛け、キラキラと輝く穏やかな川面を、勝ち誇ったように見渡した。
『隅田川ってえらい立派な川どすなぁ。勝鬨橋なんて、ほんまに縁起のええ名前だこと』
(隅田川……?)
まさか、橋姫は本当に宇治橋と東京の橋をつないでしまったのか。別の橋と異層でつながったのは宝珠の力ではないと思っていたが、そうではないのだろうか。
『宝珠さん。あんた、自分の力の使い方も知らんと、ようお役目が務まりますなぁ。うちが教えたらなあかんのやろか』
橋姫は小馬鹿にしたように笑うと、ふわりと空中に浮き上がり、初めて瑞貴が戦った時と同様に、くるりと身を翻した。同時に、橋の車道の黒いアスファルトの上に傀儡妖怪たちが現れる。土蜘蛛が三体と山地乳一体、渡柄杓が二体、七歩蛇。まだ傀儡にされてはいないようだが、赤い紐とたくさんの護符で囚われた以津真天。そしてそれに並んで、何かが収監された黒い檻が二つ出現し、その傍らにミチヒコが立っていた。
『ミチヒコはん、よう間に合うたなぁ。助かったわ』
ミチヒコの姿を認めると、橋姫は流し目をして上機嫌に言った。ミチヒコは相変わらずカメラを首から下げ、もっさりした様子で橋姫に軽く会釈する。
『これで役者が揃うたな』
頭上の鉄輪に刺した蝋燭の火を燃え盛らせながら、橋姫は風に髪を靡かせている。身構えている瑞貴に、橋姫は妖艶に笑いかけた。
『ほんなら、宝珠さん。始めまひょか』
※カクヨムでも同じ作品を掲載しています。カクヨムでは章ごと、なろうではパラグラフごとの掲載です。




