宇治の橋姫①
瑞貴は中和のオーラを作り出す練習を続けていた。できるにはできるようになったのだが、とにかく体力を消耗する。これを一個体の妖怪の妖力をすべて相殺するまで続けるとなると、相当な持久力が必要になる。
管狐たちは文句も言わずによく練習台になってくれた。しかし、一度妖力を引き出して紫色のオーラを作り出すと戻すことはできず、活力を補充したとしても際限なく妖力を引き出すことはできない。夏陽の陰摩羅鬼のように、中和のオーラで誤って管狐たちを変容させてしまう危険もある。そこで、瑞貴はいつも禊をする清流にしばしば出没する小豆洗いに声を掛けて、練習相手になってもらえるよう交渉した。この小豆洗いは去年の夏にも、この小川で禊をする瑞貴と美弦に接近するでもなく居合わせては、わずかに漏れる宝珠の力を享受していた。
『昔もよくこうやって、祀の修業に付き合ったもんだ』
用心深そうな顔をした小豆洗いは、『小豆研ごうか人取って喰おか、しょきしょき』と歌う時と同じ、鼻にかかった声で早口に言った。
「嫌なら無理にとは言いませんが……」
『いんや。俺は宝珠は好きだ。妖力を少しばかり分けてくれればな』
小豆洗いはにこりともせず愛想はなかったが、悪い妖怪ではなさそうだった。
『雪絵はうまくやったな。上の娘を稲荷に嫁がせて、下の童どもを宝珠に奉公に出して、自分は人間として暮らしていこうだなんてな』
抜け目のない表情で小豆洗いは言う。小豆が大好物のタカネは、小豆洗いが持っている笊の中の小豆を物欲しそうに眺め、フウロは河岸にいる蜥蜴に気を取られているようだった。
早速、瑞貴は小豆洗いを相手に中和のオーラを作る練習を始めた。小豆洗いは『もうちょっと素早く妖力を引き込んでいいぞ』『相殺する時はもっと身体から離してやってくれ』などと、瑞貴にアドバイスを送りながら相手をしてくれた。さすがは祀の練習相手にもなった妖怪だ。
「小豆洗いさんは、人間になりたいと思ったことはないんですか」
何度か妖力を引き出して相殺する練習をした後で、休憩しながら瑞貴は尋ねた。小豆洗いは顔を顰めて答える。
『人間になりたいとは思わねぇな。俺はこの山のこの暮らしが好きだからな』
大きな目をぎょろりと動かして小豆洗いは天を仰ぎ、両足を投げ出して川のせせらぎに浸した。
『祀にも同じことを訊かれたが、何年経っても変わんねぇな』
祀が小豆洗いに同じことを訊いたというのは意外だった。祀にも、瑞貴と同じように迷ったり悩んだりした日々があったのだろうか。瑞貴は、小豆洗いともう少し仲良くなったら祀のことについてもっと聞いてみたいと密かに思った。
練習は昼過ぎまで続いた。
『こんなにひっきりなしじゃあ、本当に変容しちまわぁ』
と、小豆洗いが音を上げたので、瑞貴は礼を言ってたっぷりと緑のオーラを小豆洗いに注いでやった。当の瑞貴もあまりにずっとオーラを扱いすぎて、手が痺れてきている。
『おい、ちびすけども。お前らも早く一人前に化けられるようになれよ』
練習の間も跳ね回り、虫を捕まえたり水遊びをしたりしていたタカネとフウロに声を掛けて、小豆洗いは別れを告げ、去っていった。確かに瑞貴は管狐を甘やかしすぎている。自分の修業にばかり気を取られて少しのんびりさせすぎたかと反省しながら、瑞貴は二匹を呼んだ。
「さぁ、お前たち、帰るよ。昼ご飯に帰らないと、おばあちゃんが心配するから」
小川のほとりから山道へ上がる細い獣道の方へと踵を返す。高いところから木漏れ日が、水面にも地面にも等しく斑を描いている。タカネとフウロが跳ねながらついて来るのを確認して瑞貴が踏み出そうとした、その時。
瑞貴の前方に、行く手を阻むように立ち塞がる白い人影があった。一瞬で、自覚なく身の毛がよだつのを感じた。言いようのない鋭い敵意。
「橋姫……」
乾いた喉に声が張り付いて、うまく出せない。
一人で佇んでいる橋姫は白装束で、いつもの余裕の笑みはなく、三白眼の赤い瞳と振り乱した長い髪はまさに鬼の様相だ。顔に朱を差し、体は丹を塗ったように赤く、二本の角の生えた頭に鉄輪をかぶっている。その姿は紛うことなき鬼女だった。
『宝珠さん。ようやっと見つけたわ』
聞き慣れた柔らかで社交的な橋姫の声ではない。恨みの籠った低くドスの効いた声を絞り出した橋姫の、大きな口から鋭い二本の牙が覗く。左手には藁人形を掴み、右手の指の間には黒い五寸釘が三本挟まれている。体全体から負のエネルギーを放つ橋姫の燃えるような赤い瞳に見込まれて、瑞貴は身構えながら後退りした。
「タカネ、フウロ、美弦さんに報せてきて」
『『御意!』』
瑞貴に命じられた管狐が駆け出そうとしたところへ、橋姫が五寸釘を投げる。黒い影が風を切り、立て続けに何本も地面に刺さる鈍い音がした。その身軽さで五寸釘を辛くも躱した管狐たちだったが、間髪入れずに橋姫は小川の水を操って大鎌のような一振りを放つ。瑞貴も赤いオーラを放ったが、一瞬遅く、水の塊の直撃を食らったタカネが吹っ飛ばされた。
『兄さま!』
「タカネ!」
『フウロ、行け!』
叫んだタカネは水飛沫を上げて川面にしたたか打ちつけられ、さらに川の向こう岸まで転がった。橋姫の水の大鎌は、瑞貴の赤いオーラと相討ちになり、両者消滅する。脱兎のごとく走り出したフウロには目もくれず、橋姫は瑞貴に向き直った。
『ミチヒコはんが撮った写真を手元に置いといて正解やったわ』
橋姫が長い爪でつまんでいるのは、おそらく瑞貴が最初に土蜘蛛と戦った時の写真だ。瑞貴は次の赤いオーラを作り出そうとしたが、さんざん小豆洗いと練習をした直後でまだ手に痺れが残っており、思うように力が入らない。その間に橋姫はかざした両手の間に藁人形を浮遊させ、青灰色の光の渦の中で瑞貴の写真と融合させる。まずい。これは何かの術をかけられるのか。瑞貴はなけなしの赤いオーラを撃ち込んだが、あえなく橋姫に迎撃されたのを見て取ると、意を決して橋姫の間合いに入ろうと接近した。橋姫の妖力を吸い上げて、それをエネルギーにするのだ。
橋姫が川の水を紡いで、赤い紐を作り出す。その紐を、するりと藁人形の首に掛けて一巻きすると、橋姫はその橋をぴんと強く引いた。
「うっ……」
急に息が詰まって、瑞貴は喉を押さえた。やはりだ。あの藁人形は瑞貴の身体と連動している。瑞貴は掌を橋姫に向け、必死にその妖力を吸い取ろうとする。
『殺しはしぃひんよ。まだ役に立ってもらわなあかんしな』
この逢瀬で初めて、橋姫は笑みを漏らした。耳元まで裂けた口を歪めて嗤う橋姫に、川向こうから戻ってきたタカネが飛びかかった。しかし、橋姫は怯むことなく、また水芸のように幾筋もの水の鞭を生み出して、馬が尾で蠅を払うかのように片手間に応じる。
締めつけられる喉にかろうじて喘ぎながら、瑞貴が妖力を吸い上げているのに橋姫の力は衰えない。橋姫はさらに強い力で藁人形の首に巻いた紐を締め上げた。
目がちかちかする。酸欠になってきた。意識が薄れる。瑞貴はまたしてもこの奈落に堕とされることに強い憤りを感じたが、抗うことはできなかった。
『主さま!』
タカネが瑞貴の胸元に縋りついてくる。橋姫が大きく腕を振るうと、小川の水が巻き上がった。大きな竜巻が出現し、辺り一帯を搦めとっていく。ひとしきり突風が吹き荒れた後、よく晴れた夏の小川の川べりに静けさが戻った。橋姫も瑞貴もタカネも忽然と姿を消し、ただ川のせせらぎの音だけが聞こえていた。
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