とある隠密一族跡取の懺悔、
僕は兄と呼ばれる存在なのだから、いつだって妹を守る立場にならなくちゃいけないと自分に言い聞かせて生きてきた。
幼い頃から双子の妹と僕は2人で1つの存在だった。
今自我が確立していなかったからなのか、生まれた時からずっと一緒にいたからか、今にしてみれば僕達はお互いの境界線が曖昧なまま成長してしまった様に思う。
けれど、妹のという存在が僕の中で別の個体として明確に乖離し始めたのは、僕達2人のどちらかが一族の跡取りに選ばれてしまうと知った頃の事。
それから直ぐに始まった修行は想像を絶する様な厳しさで、きっと僕1人だったならば一日も持たずに投げ出してしまっていただろう。
それでも、耐え続けられたのは僕と共にその修行を受けさせられていた妹がいたから。
例え双子でも僕の方が兄なのだと両親から言い聞かされ、兄と言うものは妹を庇護するべきなのだと思い込んでいた僕は、こんな辛い修行を1人投げ出して妹を犠牲にする事など出来るわけもなくて。
ましてや本当ならば時間が許す限り土弄りをして植物を育てたい、動物達の世話をして様々な種類を育てていきたい、そう思っている事なんて口に出す事は出来るはずもなかったのだった。
それから数年が経ち、守るべき妹がメキメキと頭角を現し始めた時、僕は一瞬だけ思ってしまった。
このまま妹が跡取りに選ばれたのならば、僕は一族から逃げ出して1人気ままな生活を送る事が出来るのかもしれないと。
そんな事許されるわけも無いのに。
「お兄様は私の事をずっと守って下さるのですよね。だってお兄様は、私の、私だけのお兄様なんですもの。私達は2人で1つの存在、それなのに私を1人置いてどこか遠くに逃げるなんて、そんな馬鹿なことする訳がありませんわよね」
そう笑顔で宣う妹の姿を見て、僕はなんて愚かな事を考えてしまったのだろうと気がつく。
その頃には既に僕の中では妹と僕は全く別の存在だったけれど、妹の中ではずっと僕達は2人1つの存在のままだったのだ。
だからこそ、敏感にも僕の愚かな考えを見透かした妹は釘を刺す様にそんな事を口にしたのだと思う。
どうして僕は妹を置いて逃げられるだなんて考えてしまったのだろう。
僕が妹を守る責務から逃げ出す事なんて許される訳もなかったのに。
だから、きっとこれは自分勝手な希望を一瞬でも抱いてしまった事への罰なのだと思った。
「一族の跡取りはイリア、お前にすることに決めた。一切の異論は認めぬ」
一族の大人を集めた集会に呼び出された僕達兄弟を前にして、父さんが口にしたのは到底受け入れられる事のできない決定。
きっとあの場にいた殆どの人間が跡取りは妹がなるのだろうと考えていた筈だ。
僕を跡取りに、と推していたのは御し易そうな僕の性格を見て、どうにかして裏から一族を牛耳ってやろうと企んでいた野心家位のもので、それ以外の良識的な大人の大半は妹派と呼ばれる派閥に属していたのだから。
当の僕だって、いやきっと妹だって跡取りは妹がなるものだと思っていたのに。
「父さん、なんで……なんで僕、なんですか……」
「異論は認めぬと言った筈だろう。お前は気がついていないのだ、己の持つ才を。これからはお前が皆を守り、導いて行ってやらねばならん。弱い心を捨て強くなれ、成長するのだ」
集会終わりに捕まえた父さんの答えは頑なで、反論の余地など残されてはいなかった。
才? そんなもの僕は持っていないのに!
人と関わるのが苦手だ。
人を傷付けるのも苦手だ。
辛い事も嫌いだ、痛いのも嫌いだ。
争いたく無い、蹴落としたく無い、他人の後ろ暗い考えなど暴きたく無い。
そんな僕に隠密の才があるだって?
馬鹿げている。
父さんは……間違っている。
全てぶつけてしまいたかった。
けれど、父さんに直談判する勇気さえも持てず、僕は跡取りとして一層苛烈さを増した修行に身を投じる事しか出来なかったのだ。
暗鬱な心境の中、たった1つだけ救われたことと言えば、妹の修行がその日以来他の一族の者達と同等のメニューに変わり、辛い修行から解放された事位。
俺は兄として妹を守ってやれたのだ、辛い修行から解放してやったのだ、と考えればほんの少しだけ心の痛みを和らげる事が出来た。
そうする事でしか自分の痛みを紛らわせる方法が見つからなかったのだと思う。
しかし、それすらも間違いだったのだと気がつかされたのは程なくしての事。
「お兄様は何故弱いのに私から離れて行ってしまうの? ねぇ、お兄様は私がいなくては生きていけないでしょう。なんで? どうして? 私が守って差し上げなくてはお兄様は生きていけない筈じゃない!」
妹は緩やかにおかしくなって行った。
いいや、ずっと前からおかしかったのかもしれない。
けれど、一族の跡取りになるという枷がそれを辛うじて内面に縛り付けていたのだ。
そしてとうとうその枷が外れ、表面化まで異常を浮かび上がらせてしまった。
「アレはこのままではダメかもしれぬ。イリア、修行として一度一族を離れ、世間を学んでこい。戻る頃には妹も落ち着いている筈だ。既に四月から王立学院に入学する手筈は整えてある」
そして秘密裏に僕の学院入学の準備は進められた。
妹もその事には気がついていないのか触れてくる事もなく、僕は罪悪感に苛まれながらも1日1日と迫り来る入学式までのカウントダウンに身を委ねていた。
「お兄様、お兄様」
しかし、妹を甘く見ていた事を後悔したのは、入学式を一週間前に控えていた真夜中の事。
僕を呼ぶ声に目を覚ますと、目の前には歪な笑顔を浮かべた妹の姿がそこにあった。
「なっ……」
「なんで、ですか? そんな事こちらが聞きたいですわ。お兄様はどうして私から逃げようとなさるのかしら? 私はお兄様を愛しているのに。お兄様がいなくては死んでしまうのに。私をこんな風にしたのはお兄様でしょう? お兄様の所為で私はこんなおかしくなってしまったのに、そんな私を置いて1人いなくなるおつもりですか? いいえ、お兄様はそんな薄情な方では無いと私知っていますわ。もうこんな一族見捨ててしまいましょう? 私達を引き離す様な一族なんて滅びてしまえば良いのよ。そう思うわよね。だからね、2人で逃げて幸せになりましょう? きっと私達の子どもは可愛いわ。お兄様に似て優しい子になれば良いのですけど。そうだわ、今すぐここで子どもを作ってしまいましょうか。そうすればお兄様もいい加減私から逃げようなんて愚かな事を考えるのも辞めますよね」
早口で捲し立てる妹の足が乗せられて、キシリとベッドが音を立てる。
慣れた手つきで寝間着を肌蹴始めた妹の手は流れるように僕の寝間着にまで伸ばされ始めたのを見て、僕は気がつけば叫んでいた。
「やめろ、やめるんだエリス‼︎」
その声を聞いた大人達が部屋に雪崩れ込んできて、妹はそのまま捕らえられてしまった。
妹の断末魔の叫びは最早言葉にならない様な金切り声で、周囲の者に射殺さんばかりの視線を向けて姿が見えなくなるまで叫び声を屋敷内に響かせ続けた。
僕は愚かにもその時になって初めて気がついたのだ。
妹をおかしくしてしまったのは辛い修行でもなく、兄弟で跡継ぎを競わせる一族のしきたりでもなく、他でも無い僕のせいだったのだと。
元々苦手だった人間が怖いと感じる様にまでなってしまったのはこの時からだ。
その日から入学式を迎え家を出るまで、妹は地下で幽閉される事になったと父さんから聞かされた。
そしてその後は交代で一族の大人達が監視に着くのだと。
もう何もかもに絶望していた僕はその事実から目を反らし、王立学院に入学すべく逃げる様に一族から離れていった。
そうして、父さんの言い付けも投げやりに人付き合いを絶って学院での毎日をやり過ごしていたある日、僕は彼女を見かけた。
学院の敷地内を縄張りにしている猫の一匹をしつこく追いかけ回している女の子。
入学以来動植物位としか交流を図っていなかった僕はそんな光景に当然腹を立てた。
幾ら女の子だって動物を虐めるような人間は許して置けない。
だが、面と向かって注意する事も出来ず、どうにかして追いかけられている猫を逃がしてやりたいと僕はその女の子の後を隠れて追いかける事にした。
「やっと追いついたわ」
校舎の壁際まで追い詰められた猫は背中の毛を逆立てて女の子を威嚇していたが、当の女の子は気にすることなく猫の口に咥えられていたサンドイッチの様なものを奪い取っている所だった。
我慢の限界だと、女の子の足元を掬って転ばせてやろうか、などと僕が考えていた時。
「私だって貴方を苛めたくてこんな事しているわけじゃ無いの。でもコレはダメよ、オニオンスライスたっぷりのサンドイッチなの。お願いよ、代わりにコレを持って行って頂戴」
女の子は猫から取り上げたサンドイッチの代わりに、懐から取り出したビスケットを足元に差し出すと、その猫がビスケットを咥えて逃げ去るのをボーッと眺めていた。
彼女の言葉が嘘では無い事は僕の嗅覚が告げている。
幼い頃から五感を鍛えられた僕は、数メートル離れた場所の物の匂いも嗅ぎ分けられるのだから。
そうして彼女が猫を苛めていると言うのは僕の勘違いだったと漸く気がつき、彼女を転ばせてしまう前で良かったと密かに胸を撫で下ろした。
「あの猫可愛かったわ。ビスケットのお礼に少しだけ撫でさせて欲しかったのだけど、怖がらせてしまったし、やっぱり無理なお願いよね」
少しだけ落胆したような独り言を漏らす女の子に、僕は少しだけ意外な気持ちになる。
基本貴族のご令嬢というのは動物に触れるのを嫌がるものだ。
ドレスに毛がつくから。
大体において全力疾走で猫を追いかけて、玉ねぎを取り返そうとするご令嬢なんて見たことがない。
玉ねぎが猫にとっては毒だと知っているご令嬢だって数える程なのでは無いだろうか。
珍しい女の子もいるのだと思いつつも、僕はこれ以上長居するのも無用だと判断してその場を後にした。
それから暫くして初めて会話を交わした彼女は、やはり全力疾走で猫を守ろうとしていて、ますます不思議な女の子だと思った。
だからだろうか。
「今度野良猫たちに私のことを紹介してくださいません?」
「え?」
「私こう見えても猫が大好きなんですの。きっと、仲良くなって見せますわ!もちろんイリア様とも」
そう行って立ち去ろうとする彼女を思わず大声を出して引き留めたけれど、結局僕は断る事も出来ず彼女の背中を見送る事になった。
違う、僕は彼女と仲良くなりたいわけじゃ無い。
ただ、ハンカチを返してもらいたいだけだ。
頭をぶつけて気絶させてしまったお詫びに、猫の触り方を教えてあげるだけだ。
決して、また彼女と話してみたいだなんて僕は思っていない。
大丈夫、エリス。
僕は同じ過ちは犯さないよ。
だって僕はもう誰にも心を開かないと決めたんだから。




