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第18話 さよならの夜

 扉が閉まる音が、やけに響いた。


 カイルが部屋を出て行った後、リィナは崩れ落ちるように床に座り込んだ。


「……売られる?」


 声に出してみると、その言葉の冷たさが現実味を増す。

 心臓が締め付けられるように痛む。


 カイルは、本気なのか?

 いつもの冗談じゃなくて?


 ──違う。


 あの人の態度は、確かに「本気」だった。

 強がりの笑顔の裏に、何かを隠していたような気もするけれど──

 でも、それが何かなんて、今のリィナにはわからなかった。


(そんな……嫌だ……)


 カイルの隣にいるのが、当たり前だった。

 彼が働き、彼が煙草を吸い、彼が適当に修理をこなして、彼が口の悪い冗談を飛ばす。

 その全部が、当たり前だった。


 だから──


(私は、どうすればいいの?)


 震える手を握りしめたその瞬間、リィナの中で「何か」が弾けた。


「……そんなの、いや」


 今までカイルに逆らうことはなかった。

 でも──

 このまま大人しく売られるなんて、絶対に嫌だ。


 リィナは立ち上がり、扉へと向かった。

 カイルが工房の奥の部屋へと向かう足音が聞こえる。


 ──なら、今なら間に合う。


 彼の背中を捕まえて、止めなければ。


 カイルは静かに、工房の暗がりに座っていた。


 煙草の火が、ぼんやりと揺れる。


「……クソが」


 指の震えが止まらない。


(やるしかねぇだろ……売らなきゃ……忘れちまうんだからよ……)


 リィナを売ることは、彼にとって最悪の選択だった。

 でも、忘れることは、それ以上に最悪だった。


 それが「記憶の侵食」の呪いの正体なら──

 手放すしか、救う方法はない。


「……おかしいよな」


 奴隷を育てて売るなんて、最初はただの気まぐれだったのに。

 気がつけば、リィナが傍にいるのが”当たり前”になっていた。


 彼女の作る料理の味。

 朝、目が合うと微笑む姿。

 少しずつ饒舌になっていく声。


 それが、なくなる。


 いや──

 どのみち、忘れてしまう。


 ……だったら、早い方がいい。

 記憶が完全に消える前に。


 カイルは無理やり口角を上げ、煙を吐き出した。


 「クズらしく、やってやるさ」


 その時だった。


 ──ドン!


 勢いよく工房の扉が開く音がした。


 カイルが顔を上げると、そこには、息を切らして駆け込んできたリィナがいた。


 「カイルさん!!!」


 リィナは、カイルの前まで走り寄り、荒い息を吐きながら叫んだ。


「……なんで、そんな顔してるんですか!」


 カイルは、一瞬目を見開いたが、すぐに飄々と笑う。


「はぁ? 俺の顔がどうしたって?」


「……本当に、売るつもりなんですか?」


 リィナの声が震えていた。


「そりゃあな。お前は上等な商品だからな。高値がつく」


「……っ!!!」


 リィナの肩が震えた。


 そして──

 彼女は、思い切ってカイルに抱きついた。


 カイルは驚き、肩を強張らせる。


「おい、何してんだよ」


 リィナは、そのまま彼の服をぎゅっと握りしめた。


「……売られたくないです」


 カイルは、リィナの額にかかる髪を見つめながら、息を呑んだ。


(……クソ、何やってんだよ。)


 彼の手が、無意識にリィナの頭に触れそうになった。


 でも──その手を、寸前で止める。


(ダメだ。)


 呪いのせいで、忘れるくらいなら。

 ……最初から、いなくなった方がいい。


 カイルは、リィナの肩を軽く押し、ゆっくりと距離を取った。


「……悪いな、リィナ」


 その声は、酷く冷たく響いた。


「お前の気持ちなんて、どうでもいいんだよ」


 リィナの瞳が、驚きと絶望に染まる。


「……嘘」


 カイルは背を向け、机の上にあった売却契約書を手に取った。


「明日には、お前を売る。覚悟しとけ」


 その瞬間、リィナの瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。


 カイルは、それを見ないように視線をそらした。


 ──そして、そのまま工房の灯りを消した。

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