第17話 ふざけないでください
冷たい風が吹き抜ける街の通りを、カイルは無言で歩いていた。
冬の気配が濃くなった空気の中、コートの襟を立てながらポケットに手を突っ込む。
──「気のせいで片付けるには、引っかかるんだよな」
リィナに関する些細な記憶が曖昧になる違和感は、もはや無視できないものになっていた。
スープの味を忘れ、会話の内容が飛び、表情の意味が霞む。
思い返せば、最初はただの酔いのせいだと思っていた。
でも、酔いが覚めてもその空白は埋まらない。
歩きながら、ふと自嘲気味に笑う。
「俺も歳か、いや……そんなもんじゃねぇよな」
向かう先は、あの奴隷商人の店。
リィナを買った場所。
あの、酔っぱらって無駄遣いした日。
扉の向こうに答えがあることを、カイルは直感していた。
薄汚れた看板のかかる店に足を踏み入れると、空気はどこか湿っていて、埃の匂いが鼻を突いた。
カウンターの奥で、奴隷商人がニヤニヤと薄笑いを浮かべて座っている。
「おやおや、これは珍しいお客さんだ。……何か、また奴隷でもお探しで?」
カイルは飄々とした態度を崩さず、ポケットに手を突っ込んだまま答える。
「いや、そうじゃない。ただ、ちょっと気になることがあってな」
奴隷商人は目を細め、興味深そうに身を乗り出す。
「ほう……気になること? 奴隷についての相談なら、うちのサービスは万全ですよ」
カイルは鼻で笑った。
「サービス? あんたの口から聞くと冗談にしか聞こえねぇな」
奴隷商人は肩をすくめ、煙草に火をつける。
「それで? 何が気になるんだ?」
カイルは一瞬黙り、目を細めて奴隷商人を見つめた。
「……お前が俺に売った、あの娘のことだよ」
奴隷商人の表情がわずかに変わる。
薄ら笑いが、ほんの少しだけ固まった。
カイルは椅子に腰掛け、足を組む。
あくまで飄々と、余裕のある態度を崩さない。
「最近、どうもおかしいんだ。あの娘に関することだけ、記憶が曖昧になる。些細なことを忘れる。……なぁ、これってお前、何か知ってんじゃねぇのか?」
奴隷商人は煙を吐き出し、しばらく黙っていた。
そして、面倒くさそうに答える。
「……お前、まだ覚えてたのか」
その言葉に、カイルは一瞬だけ表情を曇らせる。
しかし、すぐにニヤリと笑う。
「そりゃ、忘れるには惜しい買い物だったからな」
奴隷商人は溜息をつき、煙草を灰皿に押し付けた。
「……あの娘には、呪いがかかっている。『記憶の侵食』だ」
カイルは眉ひとつ動かさず、飄々とした態度のまま聞き返す。
「記憶の侵食、ねぇ……。そりゃ随分と洒落た名前だ」
奴隷商人は無表情で続ける。
「奴隷としての所有関係が成立した時だけ、発動する呪いだ。主人は奴隷に関する記憶が少しずつ曖昧になっていく。……最終的には、存在そのものを忘れる」
カイルは無言のまま、指先でコップの縁をトントンと叩く。
「……それで、どうすりゃ止められる?」
奴隷商人は肩をすくめる。
「簡単なことだ。奴隷契約の解消。つまり、売ればいい」
静寂に包まれた。
カイルはしばらく黙り、やがて笑った。
「ははっ、そうかよ。つまり、俺があの娘を売れば、全部解決ってわけだ」
声は軽く、飄々としている。
けれど、グラスを持つ指先がわずかに震えていた。
店を出たカイルは、冷たい風の中で立ち止まった。
ポケットの中で拳を握りしめ、顔を上げる。
──「売るだけ、か」
その言葉が、妙に胸に残る。
最初は、ただの酒の勢いで買っただけの奴隷だったはずだ。
でも、今は──忘れることの方が怖い。
それでも、カイルは苦笑した。
「……バカみてぇだな、俺」
飄々とした態度を崩さず、家へと足を向けた。
部屋に戻ると、リィナはいつものように笑顔で迎えた。
「おかえりなさい、カイルさん! お腹すいてますか?」
カイルは靴を脱ぎ、無言で椅子に座る。
しばらく沈黙した後、軽く息を吐いた。
「……お前、そろそろ売ることにした」
その瞬間、部屋の空気が張り詰めた。
リィナは笑顔のまま固まり、目を見開いた。
「……え?」
カイルは飄々とした態度を崩さず、足を組み直す。
「お前、相当いい値がつきそうだからな。そろそろ潮時ってやつだ」
リィナの瞳が揺れた。
そして、声を荒げた。
「……ふざけないでください!!!」
カイルは眉を上げ、驚いたふりをしてみせる。
「おいおい、そんな大声出すなんて、らしくねぇじゃねぇか。」
リィナは涙をこぼしながら叫ぶ。
「……どうして、そんなことを……!」
カイルは飄々と笑いながら、立ち上がる。
「……俺はクズだからな。お前のことなんて、どうでもいいんだよ」
でも、その言葉とは裏腹に、拳が震えていた。
リィナが泣き崩れる姿を前に、カイルは最後まで強がり続けた。
頭をくしゃっと撫で、鼻で笑う。
「……お前なら、どこ行っても大丈夫だ。俺が育てたんだからな」
そして、飄々とした背中で部屋を出た。
心の奥で叫ぶ声を、必死で押し殺しながら。
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