第九章 辺境伯ナーアン
荷馬車が止まった。
護衛が荷台を軽く叩く。
「二一八四。降りろ。」
「……はい。」
フィオナは小さく返事をすると、荷馬車を降りた。
目の前には、大きな屋敷が建っていた。
王都で見た建物とは違う。
豪華というより、不思議な屋敷だった。
庭には見たことのない草花が植えられ、小さな歯車の付いた金属の置物が風に合わせて静かに動いている。
カチ。
カチ。
規則正しい音が耳に届く。
(……なんだろう。)
思わず見つめていると、護衛に肩を軽く押された。
「行くぞ。」
屋敷へ入る。
廊下の壁一面には本棚が並び、紙の匂いと金属の匂いが混ざっていた。
部屋の奥からは、小さく金属を叩く音が聞こえる。
護衛が扉を叩いた。
「辺境伯様。商品をお連れしました。」
「どうぞ。」
穏やかな声だった。
部屋へ入る。
机いっぱいに積まれた本。
紙。
見たこともない道具。
その中央に、一人の男が座っていた。
手には分厚い本。
その横では、長い尻尾がゆっくりと揺れている。
鱗に覆われた尻尾の先が三本の指のように開き、一枚の紙をめくる。
棚の本を戻し、小さな箱を机の端へ寄せる。
まるで、もう一本の腕だった。
フィオナは思わず、その尻尾を見つめる。
(……尻尾。)
尻尾の途中には、細かな傷がいくつも付いた古い腕輪がはめられていた。
「失礼します。」
護衛が書類を差し出す。
男は尻尾でそれを受け取り、静かに目を通す。
「では、契約を移します。」
役人が一歩前へ出た。
短い詠唱が部屋に響く。
フィオナの左手の甲に刻まれた紋章が淡く光った。
同じように、ナーアンの尻尾にはめられた腕輪も一瞬だけ光を返す。
光はすぐに消えた。
「契約者変更、完了しました。」
左手が少しだけ温かい。
それだけだった。
役人と護衛は一礼し、部屋を出ていく。
扉が閉まる。
静かな部屋に、本をめくる音だけが残った。
男は書類を閉じる。
後頭部をぽりぽりとかいた。
その間も尻尾は机の上の紙を揃え、本を棚へ戻している。
「……ようやく来たか。」
安心したように、小さく息をつく。
それから初めて、フィオナへ視線を向けた。
何を考えているのか分からない。
けれど、不思議と威圧感はなかった。
「名前はなんだったか。」
フィオナは少し戸惑う。
名前を聞かれたのは、いつ以来だろう。
「……フィオナ。」
「そうか。」
男はゆっくり頷いた。
「フィオナか。」
それだけ言うと、椅子にもたれかかった。
尻尾は相変わらず机の上で書類を整え続けている。
部屋には静かな時間だけが流れていた。




