06
鏡は私の存在を肯定し、さらに否定する。
仕事帰りの駅ビル、あるいは休日の午後。
私は、予約という名の「実存の確定」に従って、その場所へと足を向ける。
美容院。
そこは、私という存在が最も忌み嫌う、光と鏡に支配された儀式の場だ。
入り口の重い扉を開けた瞬間、ふわりと漂う薬剤と香料の混じった匂い。
それが私の肺を「現世」へと引き戻す。
名を呼ばれ、お待ちしておりました、と続けられる。
受付で放たれるその声。
そこで呼ばれるのは、戸籍にへばりついた、親により付与され、社会が勝手に管理している、あの固有の、重たくて逃れようのない「名前」だ。
「名前」を呼ばれるたび、私は自分が一冊の図鑑に分類された標本のように感じられる。
「名前」は私の輪郭を、暴力的なまでに縁取っていく。
促されるまま椅子に座れば、そこには巨大な鏡が待ち構えている。
美容院の鏡は、オフィスのトイレの鏡とは質が違う。
それは、対象を美しく見せるために、あるいは欠点を冷酷に暴き出すために、過剰なまでの照明を浴びせてくる「断頭台」となっているのである。
白いケープが私の首元で締められ、肩から下が覆い隠される。
その瞬間、私は肉体を奪われ、鏡の中に浮かぶ「顔」というパーツだけの存在に成り下がる。
美容師という名の調律師が、私の髪――死んだ細胞の集積――に指を差し入れ、その状態を品評する。
―今日はどうされますか? 少し明るめにしましょうか?
―ええ、お任せします。あまり派手すぎない程度に。
合成音声を、今日一番の「良識ある客」の周波数に合わせて答える。
そんな空虚な言葉をやり取りしながら、私は鏡の中の自分と目を合わせないように、必死で視線を伏せる。
けれど、美容師の手は容赦なく私の顔を上向かせ、角度を変え、そこに「実在する一人」としての価値を上書きしていく。
シャンプー台に横たわれば、今度は顔をガーゼで覆われる。
視界が遮られた暗闇の中で、温かい湯の感触と、他人の指の動きだけが脳に直接響く。
私の頭蓋骨の形を、髪の生え際を、他人の指がなぞっていく。
私は、自分が「肉体という名の重い機材」であることを、これ以上ないほど直接的に突きつけられる。
凝っていますね、という指摘は店側の定形の台詞なのだろう。
しかし、私が社会という装置に自分を適合させてきた摩耗の記録であることも確かだ。
幽霊たらんとする私が、しっかりとこの世界の重力に負け、筋肉を硬直させているという皮肉。
数時間後。
鏡の中には、丁寧にブローされ、明るい色彩を纏った「完成された私」が座っている。
この街の風景として正しい、隙のない、けれど空虚な照明のように思えた。
―とてもお似合いですよ。肌のトーンが明るく見えますね。
美容師が満足げに、手鏡で私の後頭部を映し出しながら言う。
私はそれに、鏡の中の女と同期した「適切な笑顔」を返しながら、内心ではひどく困惑していた。
その「似合っている」という評価が、果たして私にとって喜ばしいことなのか、どうしても判別がつかなかったからだ。
「似合っている」とは、一体どういう事態を指すのだろう。
この社会という大きな舞台において、私の器が背景の風景と齟齬なく馴染んでいる、ということだろうか。
あるいは、私が演じている「良識ある大人の女性」という役柄の完成度が、一段階上がったということだろうか。
褒め言葉を受け取れば受け取るほど、私は自分の中心にある空洞が、より深くなっていくのを感じていた。
整えられたのは「私」ではなく、私という影が被っている「殻」の表面に過ぎないのだから。
美容師に礼を言い、支払いをすまし、店を出る。
街路樹を揺らす風が、調律されたばかりの髪をなびかせた。
ガラス窓に映る私は、確かにさっきよりも幾分か鮮やかで、洗練されているように見える。
道ゆく人の視線が、わずかに私の上を滑っていくのを感じる。それは「ノイズのない存在」として承認された証左でもあった。
けれど。
どれほど髪を整え、表面を磨き上げたところで、私の歩幅は一ミリも変わらなかった。
背筋が伸びるわけでも、足取りが軽やかになるわけでもない。
相変わらず、重力に逆らうことを諦めたような、惰性に基づいたいつものリズムで、私はアスファルトを蹴り続ける。
外装をどれほど最新のモデルにアップデートしたところで、駆動しているエンジンが、あの薄暗い部屋で絶望を反芻し続けている古い残滓のままである以上、出力される歩調が変わることなどあり得ないのだ。
私は、新しくなった髪を耳にかけ、少しだけ目を伏せる……。
整っているからこそ、変わらない自分が際立って見える。
このエッセイは本当の事を書かない……。
私は、美しくなりたかったのではない。
明日もまた、誰にも怪しまれずに「普通の人間」として点灯し続けるために、この器をメンテナンスしなければならなかっただけの話だ。
このメンテナンスを終えてようやく、私は帰路についた。




