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05

わたくしという現象は、この社員証というICチップのなかの一つデータです。



社会人となった私は、有能な部品の一つとなった。


私の胸元には、プラスチックのケースに入った社員証が、頼りない重さでぶら下がっている。

それは、私という現象がこの組織に属していることを示す唯一のライセンスであり、幽霊の輪郭を物理的に縁取る、冷たくて硬い「枠」のようなものだ。


この四角いプラスチックの板が私の胸にある限り、私はこの整然としたオフィスにおいて、正当な存在であることを許される。


ふとした拍子に、ストラップがねじれ、社員証が裏返ってしまう。

そこに印刷された私の顔写真も、氏名も、社員番号も、すべてが内側に隠されてしまう瞬間。

鏡の前で自分の顔を見失うような、あの「無」の状態。


それでも、セキュリティゲートにそれをかざせば、扉は音もなく開く。

システムが求めているのは、内蔵されたICチップの「属性データ」が、許可されたコードと一致するかどうか。それだけなのだから。


人間性は不必要とされる、そんな思いすら去来する。

だが、この枠に守られながら、私は日々、無機質な音の連鎖の中に身を置いている。


机の上の付箋を脇にどける。


その「枠」に収まったまま、デスクに座る私の手には、備品室から支給されたありふれた油性ボールペンが握られている。

かつての万年筆が奏でたような、紙の繊維を愛撫する湿った摩擦音はもうしない。

そこに響くのは「カリカリ」という、現実を事務的に削り取る、乾燥した、ひどく無機質な駆動音だ。


あまりに空気に馴染みすぎ、音と認識せぬまま、気づいたときには目の前の書類の半分がすでに埋まっている。

そこには、書いている最中の思考が介在する余地はない。



一分前には白紙だった場所に刻まれた私の名前は、なぜか他人行儀に見える。

そこにあるのは私の名前というより、機能として必要な記号だ。

自分で書いたはずなのに、その文字列がどんな癖を持っていたのか、もう思い出せない。

いや、そもそも、癖など最初からなかったかのように、文字は均一に並んでいる。



この作業は、私の内側にある揺らぎなど一切関知しない。

「確定事項」を記すことだけを命じられたこの道具は、紙に落ちた瞬間にインクを冷酷に乾燥させ、私の迷いを上書きしていく。


書き損じを許さぬその筆跡は、幽霊である私に、逃れようのない「責任」という実体を無理やり押し付けてくるのだ。

そこには過剰な自意識の装飾は必要ない。



私が解像度を落とされ、背景の一部として同化していくことを示していた。

ここでは、かつての自意識の揺らぎや、鏡の中の自分との対峙など、露ほども表に出してはならない。

むしろ、それらを完璧に遮断し、滑らかな表面だけを提示することが社会人としての最適解なのだ。



私は、ここでの役割を問題なく遂行しているらしい。


呼ばれれば、その場にふさわしい声音で応じる。

求められれば、きちんとその答えを差し出す。

あまりにスムーズすぎる擬態。

私は冷めた目線で、それをながめている。



そうして確定された事実は、今度はExcelという名の無数のグリッド(格子)へと流し込まれていく。


画面を埋め尽くす幾何学的な箱の中に、血の通った言葉は必要ない。


私は、セルの背景色を薄いグレーに染め、罫線の太さを1ピクセル単位で微調整する。

この作業が冗長であればあるほど、私は自分が正しく「消費されている」ことに安堵する。


意味のない微調整に費やす数分間、私は自分を思考から切り離し、ただ、画面のこちら側に存在しているだけで済んだ。

この重苦しい停滞と、焦点の合わない背景のなかにいると、私はしばらく無傷でいられるような気がしていた。


ふと、画面の向こう側にある窓の存在を、思い出す。

何が見えるわけでもない。

ガラスの向こうで、風が吹いているのかどうかも分からない。

意識が他所に向かってしまったのを、立て直す。



『Ctrl+S』



上書き保存のショートカットを叩く音は、かつて万年筆のキャップを閉めた時の、あの重厚な手応えを微塵も再現してくれない。


乾いたプラスチックの打鍵音。


それは、私の一日が単なるビットの集合として確定されたことを告げる、あまりに呆気ない終止符だ。

保存されたデータの中に、私の体温は残らない。



送信済みトレイに残された自分の文章を読み返すと、そこには鏡で見た自分以上に、見知らぬ他人のような顔をした文字列が並んでいる。


「お世話になっております」

「承知いたしました」


ノイズのない完璧な定型文。


私の「跡」は、データという名の均質な粒子に溶け、誰のものでもない「共有財産」としてネットワークの海へ霧散していく。


発信ボタンを押す瞬間、私は一歩、自分という現象から遠ざかる。


更新すべき未読メールなどもうどこにもないのに、私の手はただ、画面を上下に揺らし、青く反転した件名の行を光のノイズとして眺め続けている。

指先で動かすマウスの音だけが、意味のないリズムを刻み続けていた。



疲れ切った目を、一拍だけ閉じる。

どこかでエレベーターの到着を知らせる電子音が鳴った。

それが何階のものなのか、誰が乗り降りしたのかなど知らない。

処理の流れを一拍ずらした。



私は私の存在を知らしめているプラスチックの枠を無意識に指先でいじる。


もしも、裏返ったままの社員証で一日すごしたら、顔のないままでいられるのかもしれない。

誰にもその不自然さを指摘されず、鏡に映る自分だけがその「空白」を知っている。

顔がなくても、名前が隠れていても、業務は滞りなく回る。私は幽霊のまま、一つの歯車としてこのオフィスを漂い続ける。


けれど、その想像は、次の業務連絡の通知音で途切れる。


キーボードが鳴る。

いつもの定型文を少し変えただけの文章なのに、なぜか同じ個所で入力ミスをしている。



空調機ですら、きちんと仕事をしている動作音を立てている。


効率よく回るオフィスの中で、私は「大人」を演じ、最適化された言葉を紡いでいる。


けれど、ふとペンを置き、裏返った社員証を指先で直すとき、私は沈黙の中に潜む未登録の存在の気配を感じる。

機能に塗りつぶされ、記号化されていく日々の中で、私はまだ、消えきれずにそこに灯っている。

その明滅が、誰にも届かないデータの中に、微かなノイズとして混じっていることを願いながら。




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