03
「読書」という行為をも意味付けさせようとする。
私は「読書家」というラベルを、自らの透明な輪郭を補強するために利用している。
頁を捲り、視線を這わせる。
しかし、そこで得た知見を深く掘り下げ、独自の論理を組み立てるほどの熱量は、私にはない。
ただ、難解な文字列を眼窩に流し込んでいる自分という姿を、背後から眺めて悦に入っているだけだ。
「本を読んでいる私」という現象を、他者の網膜に、あるいは自分自身の意識に、焼き付けたいという浅ましい願望。
名だたる文豪による文章、言葉。
それらは私にとっての「知の探求」ではなく、幽霊である私が、この世界に実存するための「重石」としてちょうどよいのである。
驚くべきことに、その滑稽な儀式は今も続いている。
手に取った一冊が、私の内面を豊かにしてくれることなど期待していない。
ただ、その一冊を抱えていることで、私はようやく「意味ありげな現象」として、この街の風景に溶け込むことができるのだ。
図書館で本を借りるときでさえ、私は棚の前で長く立ち尽くす。
幼い頃からだ。
幼い私は、視線は何度も背表紙を往復し、結局、誰に見られても説明のいらない棚の前で止まってしまう。
そうして迷いながら、子ども向けの世界名作シリーズや、偉人の伝記へと、ゆっくり手を伸ばすのだ。
今の私も、それっぽい本棚の前で立ち止まり、それっぽい本へと手を伸ばす。
その延長線上に、ひときわ滑稽で、それでいて愛おしい光景がある。
その時、私は、ファストフード店の騒がしい座席で、一冊の洋書を広げていた。
それはとある日本のミステリーコミックを、わざわざ英語で小説化したものだ。
私はすでに、その物語の結末も、犯人の動機も、散りばめられた伏線の意味もすべて知っている。
英語という高い壁を、本来なら一段ずつ登らねばならないはずの労力は、既知の物語というショートカットによって無効化されていた。
私は、読んでいるふりをしていた。
いや、正確には「読めている自分」という現象を、その空間に現出させていたのだ。
人が多く入れ替わる店内で、私は頁を捲る指に、必要以上の優雅さを込めていたかもしれない。
英単語の羅列は、私にとって意味を運ぶ媒体ではなく、私という透明な幽霊を飾るための、精巧な装飾模様に過ぎなかった。
めくった頁の音すらも、計算された効果音のように感じていた。
ポテトが出来上がる音と匂いがただよってくる中、鏡のなかの私が、こちらを見て嘲笑っている。
「お前は何を読んでいるつもりだ?」
その視線は、今もなお、鏡の向こうからこちらを見て嘲笑っている。
その声は、ひどく冷徹で乾燥している。
わずかな哀れみすらない。
そうして頁を繰る私の指先は震え、脳内か、あるいは耳元で、ファストフード店の喧騒の合間から、
淡々と事実だけを羅列した言葉が追いかけてくる。
―高尚な精神の領分にでも足を踏み入れたつもりなのかしらね。
―あれは知の蓄積などではなく、ただの記号を目で追っているだけ。
―すでに知っている物語を、わざわざ英文で書いたものを読んで、その姿に酔い痴れちゃって。
―わかるでしょう。そんなチープな鎧、すぐに壊れてしまうだろうに。
頭がよさそうな雰囲気を出したいだけなのだと、理解しているはずだ
ああ、その通りだ。
ぐうの音も出ない。
私の内面は、彼が指摘する通り、空っぽの空洞に風が吹き抜けているだけなのだから。
私はただ、射抜くような鏡の視線から逃れるように、視線を再び手元の紙面へと落とす。
そこで綴られている英単語の一つ一つが、私を嘲笑う礫のように見えてくる。
それでも、私は本を閉じない。
それが高潔な誇りではないことは、自分が一番よく知っている。
かといって、誰かに見せつけるための純粋な虚栄心とも言い切れない。
ただ、この見え透いた虚構の重石を捨て去ってしまえば、私はファストフード店の喧騒の中に、音もなく霧散してしまいそうな気がして怖いのだ。
滑稽で、無意味で、底の浅いこの儀式だけが、今の私をかろうじて「読書家」という現象として、この世に繋ぎ止めている気がしていた。
私は、今自分がどこを読んでいるのか定かではなくなるほど追い詰められているのだが、それでも読み続ける、という絶望に近い執着だった。
鏡の声に打ちのめされながらも、私はこの嘘にすがるしかなかった。
そう、今の自分にはこれしかないのだ……。
自分を追い込むようにそう言い聞かせ、再び活字の海へ没入する。
そうすることで、耳元で鳴り止まない鏡の声を、無理やり思考の外側へと押し出した。
だが、あのファストフード店で感じた、世界の中心に自分だけが「別の言語」を介して浮遊しているという全能感。
あれは、私のなかの「痛々しい真実」として、今も私の内側を錆びた剃刀で削り取っている。
……。
私が今こうして綴っている言葉さえ、誰かに「思索の深い人間だ」と思わせるための、精巧な模造品かもしれない。




