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7/8

あなたがいなくなるのは嫌です

 谷へ下りる道の手前で、教官が足を止めた。

 低い方ほど針の振れが大きい。しらほは横の斜面で測り直し、尾根に沿えば、値の低いところをつないで進めると確かめた。


「帰りもこちらを使います」

「ああ。後ろの観測は任せろ。曲がるたびに位置を伝えてくれ」


 同行者の一人が分岐に残った。しらほは道の幅と足場を確かめながら進む。久那岐の姿が見えた方へ、真っすぐ向かうわけにはいかなかった。


 木立が途切れた先で、白銀の尾が見えた。


 谷を隔てた斜面に、久那岐が立っていた。

 長い体躯に沿って光が走り、毛の間から覗く鱗が、間を置いて明るくなる。角の周囲は揺れて見えた。風に動く枝とは、揺れ方が違う。


 しらほは測定器を地面へ向けた。

 流れは久那岐のいる場所で終わっていない。脚元を通り、その先の山へ続いている。草も白銀の体へではなく、さらに奥へ傾いていた。


 彼が流れを作っているのではない。

 あの大きさの神獣まで、途中に取り込まれている。


「ここから声をかけます」


 教官はしらほの足元と、自分の器具を確かめた。


「位置は動かすな。こちらでも変化を見る」

「はい」


 しらほは顔を上げた。

 久那岐の耳は山側を向き、琥珀の目はこちらから見えなかった。


「久那岐様。こちらを見てください」


 首は動かなかった。

 白い前脚が一歩進み、土が斜面を転がる。その音が収まるまで、しらほは次を呼ばずに待った。


 風が谷から上がっている。今の声が届いたかどうかは分からない。

 彼の耳と、毛並みを走る光を見る。光が強くなるたび、低い音が足の裏まで伝わってきた。


 次に光が薄れたとき、しらほは息を吸った。


「久那岐様。私です。そこで止まってください」


 耳が片方、こちらへ動いた。

 首がわずかに曲がり、角の向きが変わる。しらほはもう一度言い足そうとして、口を閉じた。彼が顔を向けるのを待つ。


 琥珀の目が見えた。

 視線はしらほを通り過ぎ、同行者のいる道まで行ってから戻ってきた。


「……戻れ」


 低い声が、谷の向こうから届いた。


 しらほは足を踏み出しかけ、踵を下ろした。

 久那岐は尾を斜面の下へ寄せていた。こちらへ振れないようにしているらしい。首はしらほへ向いているのに、胴の毛は山側へ引かれていた。


「聞こえています。こちらの人数も確かめたように見えました」


 教官へ伝えると、教官も頷いた。


「反応はあるな」

「手前の岩棚まで回れますか。谷へ下りずに、もう少し声を近づけられます」


 しらほは図と実際の斜面を見比べた。岩棚は山側へ張り出しているが、その下には深い割れ目がある。

 教官が経路の値を確かめ、同行者へ退路の観測を頼んだ。


「棚の端までは出るな。値が上がったら、今の位置まで戻す」

「分かりました」


 しらほは教官と岩棚へ回った。

 近づくと、久那岐の前脚が土を掴んでいるのが見えた。指の間へ石が食い込み、白い毛が汚れている。歩きたいものが、そう置く脚には見えなかった。


 彼の先には、崩れた石段があった。

 割れた囲いの一部が草から出ており、地中に続く石の列が、その奥へ消えている。しらほが図へ移した祭祀跡の向きと合っていた。


 何かが姿を現しているわけではない。

 ただ、石段の周りだけ、草も枝も動く間隔が揃っていた。地鳴りは一箇所からではなく、斜面の下から広く伝わってくる。久那岐の毛並みを走る光まで、その間隔へ近づき始めていた。


「久那岐様。こちらにいます。顔を向けてください」


 彼の目がしらほへ動いた。

 その直後、器具の針が跳ねた。


「一歩、内側へ」


 教官の声で、しらほは岩棚の奥へ下がった。

 谷の草が一斉に伏せた。久那岐の前脚が深く沈み、肩が低くなる。体を支えたまま、長い爪が土へ溝を作った。


 山側へ滑っている。


 しらほは岩へ手をついた。

 白銀の体は大きい。あの力があれば、踏みとどまれるのではないかと思った。けれど、土を掴む脚と、山へ寄る胴は、別々の動きをしていた。


「一歩、戻れますか」


 久那岐はしらほを見た。

 前脚の片方が少し浮き、こちらへ置き直されかける。置くより早く、毛並みに光が走った。脚は元の場所へ落ちた。


 届いている。

 何を頼んだかも、分かったのかもしれない。


 それでも、戻れない。


 しらほは口を開いたまま、次の指示を止めた。同じことを大きな声で繰り返しても、足を置ける場所が増えるわけではなかった。


 久那岐の耳が、ゆっくり山側へ戻っていく。

 琥珀の目も石段の奥へ向いた。


 古い記録には、己と周囲の力を分ける意識が薄れたとあった。

 あれは、返事が遅くなるということだけではなかったのだ。足を止めたいという判断も、こちらへ顔を向けることも、やがて大きな流れの動きと区別できなくなるのかもしれない。


 しらほは指を曲げた。岩の表面が硬い。

 その手に、久那岐の掌が重なったときの温かさを思い出した。離れてからも、どこに触れられたかが分かった。彼は結果を急かさず、どう変わったかを聞いていた。


 今も、報告すれば返事が来る気がした。

 そうしてきた回数の分だけ、顔がこちらへ向くのを待ってしまう。


「久那岐様」


 白い耳がわずかに動いた。

 声を出せば、応じようとはしてくれる。そのために、山へ引かれる力と争わせている。


 教官が隣で値を読み、後方へ伝えていた。退路はまだ使える。近づける範囲はここまでだ。

 しらほは頷いた。仕事として伝えられることは、まだある。位置も、流れも、彼が動こうとした方向も記録できる。


 だが、それを残すために来たのではなかった。


 雨の中で文箱にかかった白い袖が浮かんだ。

 濡れると困るものを、久那岐はしらほが頼む前に見ていた。贈られた筆も、細い字を書くことまで考えて選んだものだった。


 別の使い手にも、彼はそうするのだろうか。

 以前は、それを考えたくなかった。今は、どこへ流れていくのか分からない霊力の中へ、そういう久那岐まで失われようとしている。


 中庭の長椅子を、いないと分かってからも見た。

 施設で安定しているという連絡を読み終えても、本人の声が聞きたかった。必要な記録は届いていたのに、会う方法を探した。


 安全のために契約できると言ったとき、久那岐は断った。

 あのとき嫌だったのは、手続きを進められないことではない。明日から会えない方を、彼が選んだことだった。


 顔を上げる。

 久那岐がこちらを見るたびに、理由を確かめようとしていた自分を思い出した。


 もう、変化が起きたかどうかを調べる段階ではなかった。


 会いたかったと言った。

 俺も、と返してくれた声を、まだよく覚えている。次には、分からなかった本の箇所を話すつもりだった。借りた本は学院に置いてきた。無事に戻すためではなく、また二人で開くために。


 低い音が強くなった。

 久那岐の爪が地面を離れ、前脚がもう一歩、山側へ置かれた。踏み直したようにも見えたが、しらほとの距離は確かに開いた。


「しらほ、これ以上は進むな」


 教官が言った。

 しらほは足を動かさず、顔だけを上げた。


 あとで話すためには、今、久那岐がここにいるうちに伝えなければならない。

 必要な指示ではなく、自分がなぜ戻ってきてほしいのかを。


「久那岐様。戻ってください」


 息を継いだ。岩についた手を離し、彼の目を探す。


「仕事のためではありません。私が、またあなたと話したいんです」


 久那岐の耳が、しらほへ向いた。

 続いて首が曲がり、山側へ流れていた琥珀の目が戻ってくる。前脚はまだ土を掴んだままだが、顔は上がった。


「……聞いている」


 短い声だった。

 しらほは息を吸った。声にできるうちに伝えなければと思うのに、喉がいつもより狭く感じられた。


「本の続きを、お話しするつもりでした。調べものも、まだお聞きしたいことがあります」


 それだけなら、連絡を託せばよかった。

 施設から届いた紙には、無事だと書いてあった。しらほが知るべきことは揃っていた。それでも会う方法を探し、仕事の時刻まで変えた。


「でも、用事がなくても、会いたいです」


 久那岐の爪が土へ沈んだ。

 顔をこちらへ向け続ける間にも、胴を走る光は山へ寄っている。今話している相手が、このまま返事のできないものへ変わってしまうかもしれない。


 しらほは首を振った。


「嫌です。あなたがいなくなるのは嫌です」


 口にした途端、目の奥が熱くなった。

 もう測る必要はなかった。脈が速いのは、山の霊力に当てられたせいかもしれない。手が冷えているのは朝の風のせいかもしれない。けれど、久那岐を失うのが嫌なのは、ほかの何かへ分けられなかった。


 掌を重ねられたあと、触れていた場所を何度も見た。

 別の人と仕事をする彼を考えたくなかった。いないと分かっている中庭へ目が向いたのも、今、この目を自分から離さないでほしいと思うのも、同じ相手への気持ちだった。


「私は、久那岐様が好きです」


 言うと、次の息が少し深く入った。

 知らなかった感情の名を確かめるためではなく、彼に伝えるために言えた。


「安全のために結べるからではありません。安全な場所にいらっしゃっても、会えないのが嫌でした。ほかの方と契約されるのも、今も嫌です」


 久那岐は黙って聞いていた。

 前脚を山へ運ぼうとする動きが一度起こり、彼は爪を立て直した。しらほはその土の崩れを見て、言葉を急いだ。


「私と主契約を結んでください。久那岐様だから、選びたいです」


 白銀の首がわずかに下がった。

 喉の奥から低い息が出る。それが声になるまで、しらほは待った。


「この流れが、今、止まってもか」


 問いは短かった。

 しらほは迷わず頷いた。


「はい。止まったら、一緒に帰りたいです。そのあとも、あなたと会う予定を決めたいです」


 久那岐の目が、しらほの顔に留まった。

 光が角の間を走ったが、今度はそれに視線を持っていかれなかった。


「俺も、おまえと結びたい」


 前脚が土を掻いた。

 声は苦しそうだったが、続く言葉は聞き取れた。


「会いたい相手になった。契約の答えを聞くためだけに、待っていたのではない」


 しらほは頷いた。何度も頷きそうになり、一度で止める。

 伝わったことを確かめている場合ではなかった。これから行うことは、学院で手順を学んだものだ。


 教官へ向き直った。


「主契約を結びます。ここで行える範囲を確かめてください」


 教官はすでに器具を見ていた。しらほの言葉に頷き、岩棚の手前側を示す。


「そこを越えるな。久那岐様の方から、額をこちらへ寄せられるか」

「できる」


 久那岐は長い首をゆっくり伸ばした。

 近づくにつれ、白銀の毛が一本ずつ見える。しらほは足を動かさず、教官が値を読み上げるのを待った。


 角が岩棚の外側を通り、巨大な額が下がった。土へ伏せた前脚は遠く、首だけをこちらへ預ける姿勢だった。


「今なら行える。力は少量からだ」


 しらほは手を伸ばした。

 指先が白い毛へ触れる。下には硬い鱗があり、その奥を流れる力が掌へ伝わってきた。


 実習で繰り返した確認を、順に行う。

 互いの意思はある。名を告げ、呼び、差し出した霊力を相手が受け入れる。簡易確認のときのように、受けた力を戻して終わるのではない。自分の魂へ続く結びつきを、双方が受け入れる。


「硝野しらほです。久那岐様との主契約を望みます」


 彼の目がしらほを見る。


「久那岐。硝野しらほとの主契約を、受けよう」


 しらほは空いている手で、習ったとおりの印を結んだ。

 額へ触れた手から、少量ずつ霊力を渡す。押し寄せるものに合わせず、自分が保てる量を変えない。


「この量でお願いします。増やさないでください」

「うむ」


 久那岐の力が応じた。

 以前、盤を挟んで確かめたときと同じように、渡した分へ正確に重なる。周囲の流れが強くなるたび乱れかけたが、久那岐は戻そうとする。しらほも手順を止めず、二人の間にある量を保った。


 借りるためでも、測るためでもない。

 自分で選んだ相手との結びつきとして、受け入れた。


 掌の奥が温かくなった。

 その温かさが腕を通り、息をする内側まで届いたように感じられた。しらほは驚いて手を引かず、最後の印を結び終えた。


 久那岐の毛並みを走る光が変わった。

 山へ寄る流れは消えていない。けれど、それと同じ間隔で明滅していた白銀の光が、一度遅れ、別の速さで体へ戻っていく。


 巨大な前脚が持ち上がった。

 今度は、こちらへ置かれた。


 土を踏む音が谷に響く。もう片方の脚も引かれ、胴がわずかに山から離れた。


「久那岐様」

「分かる。これは、俺の力ではない」


 返事はすぐに来た。


「向こうへ流れるものまで、動かすつもりになっていた。今は、分けられる」


 しらほは掌を離さないまま、彼の目を見た。

 山の奥へ向きかけても、自分で視線を戻している。


 教官が周辺の値を伝えた。逆流は続いていた。石段の周りの草も、まだ同じ向きへ伏せている。

 主契約で山が静まったわけではない。


 久那岐は額を上げ、足元を見渡した。


「岩棚から下りずに待っていてくれ。姿を戻す」


 しらほは教官と内側へ下がった。

 白銀の体を包んでいた光が収まり、長い尾が地面から離れる。人の姿へ戻った久那岐は、すぐには歩かず、片手を岩へ置いた。


 呼吸が普段より深い。

 けれど、周囲を確かめる目に、先ほどのような間はなかった。


 通れる場所を教官に確認してから、しらほは岩棚を下りた。久那岐がこちらへ顔を向ける。


「私が分かりますか」

「分かる。しらほだろう」


 少し笑ってから、彼は息を整えた。


「名を呼んで結んだばかりだ」

「はい。ですが、確認は必要ですので」


 しらほが答えると、久那岐はもう一度頷いた。

 その速さを見て、ようやく、額に触れていた手の力が抜けた。


 教官たちと、安全な側へ数歩移った。

 久那岐は石段の奥を見たが、足は動かさなかった。


「中心は、あの囲いではない。さらに奥だ。地面の深いところから、こちらへつながっている」

「近づこうとする感覚は、まだありますか」

「引かれる感じはある。ただ、行くかどうかは俺が決められる」


 教官が位置を図へ記した。

 今すぐ奥へ進むことはしない。二人の状態を確かめ、退路の値も取り直す。久那岐はそれを聞き、力を使うならどこまで流れを分けられるか、外側から確かめられると答えた。


 しらほは説明を聞きながら、自分の掌を見た。

 もう触れていないのに、久那岐の力がどちらにあるか、ごく近いところで分かる気がした。確かめるべきことは増えたが、三十日目に出すはずだった答えを、取り消したいとは思わなかった。


 久那岐が振り返る。


「歩けるか」

「はい」


 しらほは答えてから、自分から手を差し出した。


「足場のためではありません。今は、手をつないでいてほしいです」


 久那岐は差し出された手を見た。

 それから、指先を確かめるように一度触れ、しらほの手を握った。


「うむ」


 返事が来るまで、待つ間はなかった。

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