あなたがいなくなるのは嫌です
谷へ下りる道の手前で、教官が足を止めた。
低い方ほど針の振れが大きい。しらほは横の斜面で測り直し、尾根に沿えば、値の低いところをつないで進めると確かめた。
「帰りもこちらを使います」
「ああ。後ろの観測は任せろ。曲がるたびに位置を伝えてくれ」
同行者の一人が分岐に残った。しらほは道の幅と足場を確かめながら進む。久那岐の姿が見えた方へ、真っすぐ向かうわけにはいかなかった。
木立が途切れた先で、白銀の尾が見えた。
谷を隔てた斜面に、久那岐が立っていた。
長い体躯に沿って光が走り、毛の間から覗く鱗が、間を置いて明るくなる。角の周囲は揺れて見えた。風に動く枝とは、揺れ方が違う。
しらほは測定器を地面へ向けた。
流れは久那岐のいる場所で終わっていない。脚元を通り、その先の山へ続いている。草も白銀の体へではなく、さらに奥へ傾いていた。
彼が流れを作っているのではない。
あの大きさの神獣まで、途中に取り込まれている。
「ここから声をかけます」
教官はしらほの足元と、自分の器具を確かめた。
「位置は動かすな。こちらでも変化を見る」
「はい」
しらほは顔を上げた。
久那岐の耳は山側を向き、琥珀の目はこちらから見えなかった。
「久那岐様。こちらを見てください」
首は動かなかった。
白い前脚が一歩進み、土が斜面を転がる。その音が収まるまで、しらほは次を呼ばずに待った。
風が谷から上がっている。今の声が届いたかどうかは分からない。
彼の耳と、毛並みを走る光を見る。光が強くなるたび、低い音が足の裏まで伝わってきた。
次に光が薄れたとき、しらほは息を吸った。
「久那岐様。私です。そこで止まってください」
耳が片方、こちらへ動いた。
首がわずかに曲がり、角の向きが変わる。しらほはもう一度言い足そうとして、口を閉じた。彼が顔を向けるのを待つ。
琥珀の目が見えた。
視線はしらほを通り過ぎ、同行者のいる道まで行ってから戻ってきた。
「……戻れ」
低い声が、谷の向こうから届いた。
しらほは足を踏み出しかけ、踵を下ろした。
久那岐は尾を斜面の下へ寄せていた。こちらへ振れないようにしているらしい。首はしらほへ向いているのに、胴の毛は山側へ引かれていた。
「聞こえています。こちらの人数も確かめたように見えました」
教官へ伝えると、教官も頷いた。
「反応はあるな」
「手前の岩棚まで回れますか。谷へ下りずに、もう少し声を近づけられます」
しらほは図と実際の斜面を見比べた。岩棚は山側へ張り出しているが、その下には深い割れ目がある。
教官が経路の値を確かめ、同行者へ退路の観測を頼んだ。
「棚の端までは出るな。値が上がったら、今の位置まで戻す」
「分かりました」
しらほは教官と岩棚へ回った。
近づくと、久那岐の前脚が土を掴んでいるのが見えた。指の間へ石が食い込み、白い毛が汚れている。歩きたいものが、そう置く脚には見えなかった。
彼の先には、崩れた石段があった。
割れた囲いの一部が草から出ており、地中に続く石の列が、その奥へ消えている。しらほが図へ移した祭祀跡の向きと合っていた。
何かが姿を現しているわけではない。
ただ、石段の周りだけ、草も枝も動く間隔が揃っていた。地鳴りは一箇所からではなく、斜面の下から広く伝わってくる。久那岐の毛並みを走る光まで、その間隔へ近づき始めていた。
「久那岐様。こちらにいます。顔を向けてください」
彼の目がしらほへ動いた。
その直後、器具の針が跳ねた。
「一歩、内側へ」
教官の声で、しらほは岩棚の奥へ下がった。
谷の草が一斉に伏せた。久那岐の前脚が深く沈み、肩が低くなる。体を支えたまま、長い爪が土へ溝を作った。
山側へ滑っている。
しらほは岩へ手をついた。
白銀の体は大きい。あの力があれば、踏みとどまれるのではないかと思った。けれど、土を掴む脚と、山へ寄る胴は、別々の動きをしていた。
「一歩、戻れますか」
久那岐はしらほを見た。
前脚の片方が少し浮き、こちらへ置き直されかける。置くより早く、毛並みに光が走った。脚は元の場所へ落ちた。
届いている。
何を頼んだかも、分かったのかもしれない。
それでも、戻れない。
しらほは口を開いたまま、次の指示を止めた。同じことを大きな声で繰り返しても、足を置ける場所が増えるわけではなかった。
久那岐の耳が、ゆっくり山側へ戻っていく。
琥珀の目も石段の奥へ向いた。
古い記録には、己と周囲の力を分ける意識が薄れたとあった。
あれは、返事が遅くなるということだけではなかったのだ。足を止めたいという判断も、こちらへ顔を向けることも、やがて大きな流れの動きと区別できなくなるのかもしれない。
しらほは指を曲げた。岩の表面が硬い。
その手に、久那岐の掌が重なったときの温かさを思い出した。離れてからも、どこに触れられたかが分かった。彼は結果を急かさず、どう変わったかを聞いていた。
今も、報告すれば返事が来る気がした。
そうしてきた回数の分だけ、顔がこちらへ向くのを待ってしまう。
「久那岐様」
白い耳がわずかに動いた。
声を出せば、応じようとはしてくれる。そのために、山へ引かれる力と争わせている。
教官が隣で値を読み、後方へ伝えていた。退路はまだ使える。近づける範囲はここまでだ。
しらほは頷いた。仕事として伝えられることは、まだある。位置も、流れも、彼が動こうとした方向も記録できる。
だが、それを残すために来たのではなかった。
雨の中で文箱にかかった白い袖が浮かんだ。
濡れると困るものを、久那岐はしらほが頼む前に見ていた。贈られた筆も、細い字を書くことまで考えて選んだものだった。
別の使い手にも、彼はそうするのだろうか。
以前は、それを考えたくなかった。今は、どこへ流れていくのか分からない霊力の中へ、そういう久那岐まで失われようとしている。
中庭の長椅子を、いないと分かってからも見た。
施設で安定しているという連絡を読み終えても、本人の声が聞きたかった。必要な記録は届いていたのに、会う方法を探した。
安全のために契約できると言ったとき、久那岐は断った。
あのとき嫌だったのは、手続きを進められないことではない。明日から会えない方を、彼が選んだことだった。
顔を上げる。
久那岐がこちらを見るたびに、理由を確かめようとしていた自分を思い出した。
もう、変化が起きたかどうかを調べる段階ではなかった。
会いたかったと言った。
俺も、と返してくれた声を、まだよく覚えている。次には、分からなかった本の箇所を話すつもりだった。借りた本は学院に置いてきた。無事に戻すためではなく、また二人で開くために。
低い音が強くなった。
久那岐の爪が地面を離れ、前脚がもう一歩、山側へ置かれた。踏み直したようにも見えたが、しらほとの距離は確かに開いた。
「しらほ、これ以上は進むな」
教官が言った。
しらほは足を動かさず、顔だけを上げた。
あとで話すためには、今、久那岐がここにいるうちに伝えなければならない。
必要な指示ではなく、自分がなぜ戻ってきてほしいのかを。
「久那岐様。戻ってください」
息を継いだ。岩についた手を離し、彼の目を探す。
「仕事のためではありません。私が、またあなたと話したいんです」
久那岐の耳が、しらほへ向いた。
続いて首が曲がり、山側へ流れていた琥珀の目が戻ってくる。前脚はまだ土を掴んだままだが、顔は上がった。
「……聞いている」
短い声だった。
しらほは息を吸った。声にできるうちに伝えなければと思うのに、喉がいつもより狭く感じられた。
「本の続きを、お話しするつもりでした。調べものも、まだお聞きしたいことがあります」
それだけなら、連絡を託せばよかった。
施設から届いた紙には、無事だと書いてあった。しらほが知るべきことは揃っていた。それでも会う方法を探し、仕事の時刻まで変えた。
「でも、用事がなくても、会いたいです」
久那岐の爪が土へ沈んだ。
顔をこちらへ向け続ける間にも、胴を走る光は山へ寄っている。今話している相手が、このまま返事のできないものへ変わってしまうかもしれない。
しらほは首を振った。
「嫌です。あなたがいなくなるのは嫌です」
口にした途端、目の奥が熱くなった。
もう測る必要はなかった。脈が速いのは、山の霊力に当てられたせいかもしれない。手が冷えているのは朝の風のせいかもしれない。けれど、久那岐を失うのが嫌なのは、ほかの何かへ分けられなかった。
掌を重ねられたあと、触れていた場所を何度も見た。
別の人と仕事をする彼を考えたくなかった。いないと分かっている中庭へ目が向いたのも、今、この目を自分から離さないでほしいと思うのも、同じ相手への気持ちだった。
「私は、久那岐様が好きです」
言うと、次の息が少し深く入った。
知らなかった感情の名を確かめるためではなく、彼に伝えるために言えた。
「安全のために結べるからではありません。安全な場所にいらっしゃっても、会えないのが嫌でした。ほかの方と契約されるのも、今も嫌です」
久那岐は黙って聞いていた。
前脚を山へ運ぼうとする動きが一度起こり、彼は爪を立て直した。しらほはその土の崩れを見て、言葉を急いだ。
「私と主契約を結んでください。久那岐様だから、選びたいです」
白銀の首がわずかに下がった。
喉の奥から低い息が出る。それが声になるまで、しらほは待った。
「この流れが、今、止まってもか」
問いは短かった。
しらほは迷わず頷いた。
「はい。止まったら、一緒に帰りたいです。そのあとも、あなたと会う予定を決めたいです」
久那岐の目が、しらほの顔に留まった。
光が角の間を走ったが、今度はそれに視線を持っていかれなかった。
「俺も、おまえと結びたい」
前脚が土を掻いた。
声は苦しそうだったが、続く言葉は聞き取れた。
「会いたい相手になった。契約の答えを聞くためだけに、待っていたのではない」
しらほは頷いた。何度も頷きそうになり、一度で止める。
伝わったことを確かめている場合ではなかった。これから行うことは、学院で手順を学んだものだ。
教官へ向き直った。
「主契約を結びます。ここで行える範囲を確かめてください」
教官はすでに器具を見ていた。しらほの言葉に頷き、岩棚の手前側を示す。
「そこを越えるな。久那岐様の方から、額をこちらへ寄せられるか」
「できる」
久那岐は長い首をゆっくり伸ばした。
近づくにつれ、白銀の毛が一本ずつ見える。しらほは足を動かさず、教官が値を読み上げるのを待った。
角が岩棚の外側を通り、巨大な額が下がった。土へ伏せた前脚は遠く、首だけをこちらへ預ける姿勢だった。
「今なら行える。力は少量からだ」
しらほは手を伸ばした。
指先が白い毛へ触れる。下には硬い鱗があり、その奥を流れる力が掌へ伝わってきた。
実習で繰り返した確認を、順に行う。
互いの意思はある。名を告げ、呼び、差し出した霊力を相手が受け入れる。簡易確認のときのように、受けた力を戻して終わるのではない。自分の魂へ続く結びつきを、双方が受け入れる。
「硝野しらほです。久那岐様との主契約を望みます」
彼の目がしらほを見る。
「久那岐。硝野しらほとの主契約を、受けよう」
しらほは空いている手で、習ったとおりの印を結んだ。
額へ触れた手から、少量ずつ霊力を渡す。押し寄せるものに合わせず、自分が保てる量を変えない。
「この量でお願いします。増やさないでください」
「うむ」
久那岐の力が応じた。
以前、盤を挟んで確かめたときと同じように、渡した分へ正確に重なる。周囲の流れが強くなるたび乱れかけたが、久那岐は戻そうとする。しらほも手順を止めず、二人の間にある量を保った。
借りるためでも、測るためでもない。
自分で選んだ相手との結びつきとして、受け入れた。
掌の奥が温かくなった。
その温かさが腕を通り、息をする内側まで届いたように感じられた。しらほは驚いて手を引かず、最後の印を結び終えた。
久那岐の毛並みを走る光が変わった。
山へ寄る流れは消えていない。けれど、それと同じ間隔で明滅していた白銀の光が、一度遅れ、別の速さで体へ戻っていく。
巨大な前脚が持ち上がった。
今度は、こちらへ置かれた。
土を踏む音が谷に響く。もう片方の脚も引かれ、胴がわずかに山から離れた。
「久那岐様」
「分かる。これは、俺の力ではない」
返事はすぐに来た。
「向こうへ流れるものまで、動かすつもりになっていた。今は、分けられる」
しらほは掌を離さないまま、彼の目を見た。
山の奥へ向きかけても、自分で視線を戻している。
教官が周辺の値を伝えた。逆流は続いていた。石段の周りの草も、まだ同じ向きへ伏せている。
主契約で山が静まったわけではない。
久那岐は額を上げ、足元を見渡した。
「岩棚から下りずに待っていてくれ。姿を戻す」
しらほは教官と内側へ下がった。
白銀の体を包んでいた光が収まり、長い尾が地面から離れる。人の姿へ戻った久那岐は、すぐには歩かず、片手を岩へ置いた。
呼吸が普段より深い。
けれど、周囲を確かめる目に、先ほどのような間はなかった。
通れる場所を教官に確認してから、しらほは岩棚を下りた。久那岐がこちらへ顔を向ける。
「私が分かりますか」
「分かる。しらほだろう」
少し笑ってから、彼は息を整えた。
「名を呼んで結んだばかりだ」
「はい。ですが、確認は必要ですので」
しらほが答えると、久那岐はもう一度頷いた。
その速さを見て、ようやく、額に触れていた手の力が抜けた。
教官たちと、安全な側へ数歩移った。
久那岐は石段の奥を見たが、足は動かさなかった。
「中心は、あの囲いではない。さらに奥だ。地面の深いところから、こちらへつながっている」
「近づこうとする感覚は、まだありますか」
「引かれる感じはある。ただ、行くかどうかは俺が決められる」
教官が位置を図へ記した。
今すぐ奥へ進むことはしない。二人の状態を確かめ、退路の値も取り直す。久那岐はそれを聞き、力を使うならどこまで流れを分けられるか、外側から確かめられると答えた。
しらほは説明を聞きながら、自分の掌を見た。
もう触れていないのに、久那岐の力がどちらにあるか、ごく近いところで分かる気がした。確かめるべきことは増えたが、三十日目に出すはずだった答えを、取り消したいとは思わなかった。
久那岐が振り返る。
「歩けるか」
「はい」
しらほは答えてから、自分から手を差し出した。
「足場のためではありません。今は、手をつないでいてほしいです」
久那岐は差し出された手を見た。
それから、指先を確かめるように一度触れ、しらほの手を握った。
「うむ」
返事が来るまで、待つ間はなかった。




