契約(レンアイ)の続き
しらほは久那岐の手を握ったまま、教官が示した外側の道へ戻った。
値の低い岩陰まで下がってから腰を下ろし、水を飲む。眩暈はない。指を開いても震えず、呼吸もゆっくり戻った。
「久那岐様」
「うむ。聞こえている」
彼は隣に座り、山側ではなく、しらほの顔を見た。疲れはあるらしい。水を受け取る動作は普段より遅かったが、問われたことへはすぐに答えた。
教官たちは退路と周辺の値を取り直した。
逆流は続いている。主契約の前より弱まったわけでもない。ただ、久那岐は立ち上がらず、自分の足元に器を置いた。
「流れが動くのは分かる。だが、全部が俺のものとは思わなくなった」
しらほは古い図を広げた。
「中心は、この囲いより奥なのですね」
「ああ。地面の下だ。囲いへ集まってから、さらに奥へ流れている」
久那岐が示した位置を記し、石列の写しと比べる。
古い図では、石は囲いの内側だけに並んでいなかった。三方向へ延び、その先に沢や尾根の印がある。
「この記述は、供え物を戻す手順だと思っていました」
しらほは祭祀記録の一行を指した。
「でも、戻す先が三箇所あります。霊力の流れを、それぞれへ分けた可能性はありませんか」
「確かめよう」
久那岐は座ったまま、石列のある斜面へ顔を向けた。
「右の列の先には、まだ通れる流れがある。左にも細く残っているな。真ん中だけが、奥へ引かれている」
「では、囲って閉じ込めるためだけの設備ではなかったのかもしれません」
しらほは現在の図へ三本の線を引いた。
予備調査で破損が見つかったのは、枝分かれする辺りだった。そこが崩れたあと、霊力が大きく動けば、残った一方向へ集中する可能性がある。
教官も資料を読み、石の位置を確認した。
「祭祀で、土地へ戻す流れを調整していたということか」
「仮説ですが、配置には合います。怒りを鎮めるというより、動き始めた力を、ここだけに集めないための手順だったのでは」
荒神が目覚めかけているとしても、その動きを止める必要があるとは限らない。
流れを受けていた土地の仕組みが、今は働いていないのかもしれなかった。
久那岐は図の枝分かれへ指を置いた。
「すべて直すことはできぬが、残った列へ流れを渡すことなら試せる。通ったあとも戻ってしまうかは、測ってほしい」
「一度に三方向へは流さず、一箇所ずつ確認します」
「どの程度からだ」
「まず、針の変化が読める最小限で。外側の値が上がったら止めてください」
教官は、先に測定点を作ると決めた。
流れが残る二本の石列と、今も逆流が集まる地点。それに外側の観測を加える。しらほは内側の三点を見て、教官たちが退路と下流への影響を確かめる。
「俺がまた引かれたように見えたら、すぐ言ってくれ」
久那岐はしらほを見た。
「今は区別できる。だが、力を使ったあとも同じとは決めぬ方がよい」
「はい。返事が遅れた場合も中止します」
「うむ」
短い休息のあと、状態をもう一度確認した。
しらほも久那岐も、値に大きな揺れはなかった。
一行は古い石段の外側まで進んだ。中心へ入らず、足場と値を確かめた範囲に器具を置く。
しらほは三台を一度同じ場所で比べてから、それぞれの地点へ移した。石列の先を見失わないよう、図と番号を揃える。
「支度ができました」
「では、姿を変える。こちら側は空けてくれ」
久那岐は地面の広さを見て、自分で立つ場所を選んだ。
しらほたちが下がったのを確かめてから、白銀の体が現れる。今度は山へ寄るのではなく、三本の石列を横から見る向きだった。尾も退路を塞がないよう、斜面の低い方へ置かれた。
彼が前脚を下ろすと、地面を走っていた光が脚元で止まった。
巨大な流れの一部が、そこで留められている。しらほは針が跳ねるのを見たが、まだ目盛りの中だった。
「右側へ、少しだけお願いします」
久那岐の角から白い光が降りた。
石列の間を、地面の揺れが細く走る。右の針が動いた。逆側へ振れていたものが、零へ近づいていく。
「その量を保ってください。増やさないで」
久那岐は頷いた。
しらほは右と中央を交互に読み、外側の値を教官へ尋ねた。
「外は変わらない」
「右は逆流が減っています。中央はまだ同じです」
右へ力を通したまま、次は左をわずかに開く。
こちらの針は動きが遅かった。しらほはすぐに量を増やさず、石列の先を見る。倒れた石の脇で草が揺れ、その向こうへ伝わるまでに間があった。
「左はそのままです。中央を押さえる力も変えないでください」
久那岐の肩に光が集まった。
しらほは、彼の力がどこで強く保たれているかを、以前より近くに感じていた。けれど、それだけで数値を決めることはできない。針を読み、本人へ確認する。
「左側の流れは、先まで通っていますか」
「通り始めた。まだ細い」
「今、針が戻りました。もう少し待ちます」
そのとき、石段の奥で低い音がした。
三台の針が同時に跳ね、久那岐の首が山側へ引かれた。前脚の周りの土が崩れる。
「久那岐様」
「分かっている。こちらにいる」
返事が来た。
琥珀の目がしらほを見てから、自分の脚元へ戻る。
「俺の力まで向こうへ流れかけた。今は止めている」
「右へ渡す量を減らしてください。半分まで。左は保って」
しらほは中央の針を見た。
久那岐がすべて押し返せば、その分が外へ広がる。今は空き始めた流れを閉じず、彼が抱える量を減らす必要があった。
「外側、二目盛り上がった」
教官の声が来た。
「左は正常な方向へ動いています。右も戻りました。中央を少し緩められますか」
「どこまでだ」
「一度、針が動く分だけ。今です」
久那岐の前脚がわずかに浮いた。
留められていた光が動き、二本の石列へ分かれる。中央の針が大きく揺れてから、逆側の目盛りを下り始めた。
しらほは値を読み続けた。
右、左、中央。外側の報告も重ねる。まだ揺れはあるが、同じ方角へ集まっていた流れが、別々の道を通り始めている。
「力を少しずつ減らしてください。戻るようなら、その場で保ってください」
白銀の光が薄くなる。
久那岐が渡す力を減らしても、右の針は正常な側に残った。左も続き、中央だけが零の近くで行き来した。
「外側も下がった。新しく広がる反応はない」
教官の声で、しらほはようやく息を長く吐いた。
山の奥には、まだ大きな力がある。
地鳴りも完全には消えていない。ただ、久那岐の耳は山へ固定されず、しらほと教官の声に合わせて動いていた。
「引かれる感覚は、どうですか」
「弱くなった。俺が触れなくても、流れは分かれたままだ」
しらほは三点の値を、間を空けて取り直した。
その間に久那岐は人の姿へ戻った。近くの石へ腰を下ろし、額にかかった髪を片手で払う。
「もう動いて大丈夫ですか」
「少し休めば歩ける。おまえの方は」
「記録は取れています。足も動きます」
言ってから、水を渡した。
久那岐は受け取り、一口飲んで笑った。
「契約して最初の仕事としては、大きかったな」
「次は、針が端まで振れない観測にしたいです」
教官は残す観測点を決め、石列の正式な調査と修復を学院へ依頼すると言った。今日の処置だけで、次に大きく動いたときも保つとは限らない。施設周辺の値も含め、観測は続ける。
帰る準備を始める頃、中央の針も正常な方向へ留まるようになった。
しらほは最後の時刻を記し、回収する器具を箱へ収めた。
「戻ったら、主契約の記録と登録の手続きも必要だな」
教官に言われ、しらほは頷いた。
久那岐は予備の箱を持ち、彼女の隣へ来る。観測は終わっていたので、測定のために距離を取って待ってもらう必要もなかった。
「その箱は、こちら向きでお願いします」
「うむ。覚えている」
箱の底を支え直した彼と、しらほは歩き出した。
足元を確かめながら、帰ったあとに借りた本の続きを話せるかと尋ねた。久那岐は、まず二人とも食事を済ませよう、と答えた。
学院へ戻ると、しらほは器具を検査へ回し、教官と観測結果を照合した。
石列へ流れを通す前と後。その間に久那岐が力を増減した時刻。外側の値が下がった順序。急いで書いた数字は、まだ覚えているうちに確かめておく。
「三点とも、帰る前には正常な向きへ戻っています。ただ、中央は振れ幅が大きいままでした」
「そこは観測を残した。施設周辺からの報告とも比べよう」
祭祀設備は、改めて現地を測り、残っている石列の状態を調べることになった。今日通した流れが、次の大きな変化にも耐えるとは限らない。
高位神獣への影響も、弱まったから終わりとはしなかった。
しらほは報告書の最後へ、継続して確かめる項目を並べた。久那岐は隣で読み、力を留めていた場所を一箇所、図へ足す。
そこまで済ませてから、二人は遅い食事を取った。
戻ってきたときより肩の力が抜けた頃、教官が別の書類を持ってきた。
「こちらも今日のうちに受け付けておこう。主契約の届け出と、しらほの正式登録だ」
しらほは一枚目を手元へ寄せた。
卒業認定の日には埋められなかった、契約相手の欄がある。
「希望していた任地についても、これで改めて相談できる。当面は今回の調査と修復に関わってもらえると助かるが」
「はい。経過を最後まで見たいです」
隣へ顔を向けると、久那岐も頷いた。
「流れが戻ったあとに、どう保たれるかも確かめたい。俺も続けよう」
「では、そのつもりで手配する」
しらほは自分の名を書き、契約相手の欄へ久那岐の名を入れた。成立した場所と日付も記す。
三十日目ではない。けれど、日付を見直して迷うことはなかった。
教官は記載を確認し、次の紙を二人へ渡した。
「伴侶としての登録についてはこちらだ。住居と任地を共にする希望があれば、あわせて記してくれ。婚約にあたる届け出として扱う」
久那岐の筆が止まった。
しらほは、記入箇所が分かりにくかったのかと思って紙を覗いた。
「……伴侶?」
久那岐は欄の名を読み、それから教官を見た。
「婚約というのは、人の婚姻の前にする、あれか」
「はい。主契約の相手は、こちらでは生涯の伴侶として扱います。恋愛関係で結ばれた場合は、婚約に準じる届け出も行いますので」
教官の指が書類の説明欄へ移る。
久那岐はそこを読み終えてから、しらほへ顔を向けた。
「おまえは、知っていたのだな」
「はい。ご存じなかったのですか」
しらほも筆を置いた。
生涯、魂を結ぶ相手だと、初めに話していた。同じことを考えて聞いているものだと思っていた。
「俺たちにとっては、一人の主を選び、長く共にあるための契約だ。軽く結ぶものではないが、人の婚姻の扱いまで同じだとは知らなかった」
久那岐は主契約の紙と、伴侶の届け出を並べた。
どちらにも、自分としらほの名が入る場所がある。彼はそこを順に見て、しばらく黙った。
「ですから、心が動く相手と結びたいと申し上げたのですが」
「うむ。それは聞いた。そういう条件で主を選ぶのだと理解していた」
しらほは久那岐の横顔を見た。
彼が本を何冊も読み、手の触れ方まで確かめようとしたことに、今度は別の説明がついた。契約の重さは分かっていて、婚姻としての扱いだけを知らなかったらしい。
「では俺は、学院へ来て、ほとんど求婚をしたことになるのか」
「はい。私はそのつもりでお断りしていました」
久那岐の指が筆から離れた。
一度窓へ目を向け、戻ってきてから、閉じた唇の端を指で押さえる。
「そうか。三十日あれば足りるとも言ったな」
「はい。調べる期間も含めて構わないと」
「そこは、よく覚えている」
声に少し笑いが混じった。
しらほも思い出した。恋愛の経験はないと言い切ったあとで、物覚えがよいからと答えた人だった。
教官は二人の間を見て、書類を卓の端へ寄せた。
「主契約と、生活上の届け出は分けて確認できます。この欄は、今すぐ記入しなくても構いません」
「いや、確認しよう」
久那岐は紙を引き戻した。
今度は項目を一つずつ読んでから、しらほを見た。
「知らなかったことはある。だが、おまえを選んだことを変えるつもりはない。しらほは、この扱いも望んでいるのだな」
「はい」
答えると、久那岐は頷いた。
筆を持ち直し、自分の名を書いた。その横へ、しらほも名を添える。
教官は住居と任地については後日の相談でもよいと説明し、二人の希望を確認した。まずは学院近郊で調査を続け、暮らしのこともその間に決めることになった。
書類を綴じるために教官が席を外すと、久那岐はまだ残っている控えへ目をやった。
「結ぶ前に聞いておくべきことだったな」
「私も、同じ意味でお話ししていると思っていました」
「婚約の手順まで書いた本は、まだ読んでおらぬ」
「今日の分は、教官に確認できました」
「うむ。次は勝手に分かったつもりにならぬようにする」
久那岐はそう言って、しらほを見る。
紙を読んでいたときより、顔を向けるまでに少し間があった。
「三十日の方は、どうしようか」
しらほは控えから目を上げた。
「答えは、もう出ています」
「ああ」
久那岐の声が静かになった。
しらほも、自分が山で何を言ったかを思い出す。訂正したいところはなかった。
「ただ、契約してもらうために会う必要は、なくなりましたね」
「ならば、残りは別の使い方をしよう」
久那岐は少し考えてから続けた。
「契約を申し込むためではなく、おまえを口説くために使いたい」
「これからも、ですか」
「うむ。条件を満たしたら終わり、とは思えなくなった。今度は、俺がそうしたい」
しらほは返事をする前に、彼の手を見た。
山を下りるときに握っていた手が、今は卓の上にある。以前なら、目的は達成したのではないかと尋ねただろう。
「それでしたら、お願いします。お会いする予定が減らない方がよいです」
「減らすつもりはない。仕事だけで一日を使い切らぬようにしよう」
戻ってきた教官が、届け出の控えを渡した。
主契約の成立は受理され、正式な神獣使いの登録へ進められる。しらほは日付と名を確かめ、折れないように収めた。
学院を出る頃には、空の明るさがずいぶん薄くなっていた。
久那岐が隣へ並ぶ。明日は観測結果の確認があり、そのあと、二人で読む本を選ぶことになった。
「次は、どのような本がよいだろうな」
「先に、借りている本の続きをお話ししたいです」
「そうだった。まだ返さなくてよいぞ」
しらほは頷き、門を出たところで手を差し出した。
久那岐は今度は立ち止まらず、その手を取った。
エピローグ 三十日目
三十日目の朝、しらほは予定表に残っていた「返答」の二文字を見つけた。
何への返答かは書いていない。決めたときには、忘れるとは思っていなかったのだろう。
線を引いて消し、今日の観測点を確かめた。
正式な神獣使いの登録は済み、主契約と伴侶の届け出の控えも、卒業証書と一緒に収めてある。今朝必要なのは、それらではなく測定器だった。
学院の門では、久那岐が待っていた。
「支度はできたか」
「はい。今日は三点です。午後の報告までには戻れます」
「では、夕方まで仕事にはならぬな」
「値が変わらなければ」
久那岐は頷いた。そこは、口説く時間を確保するために省ける確認ではないと、よく分かっている。
古い祭祀設備の修復は、まだ一部しか終わっていなかった。
霊力が大きく動いても流れを分けられるよう、残る石列の調査を続けている。異常の拡大は止まっているが、山の奥にある大きな力が消えたわけではない。
今日は、修復した列から離れた観測点を確かめた。
しらほが器具を置く間に、久那岐は沢の向こうへ回った。
「この位置でよいか」
「あと一歩お願いします。前回と同じ距離にします」
「ここだな」
「はい。周囲の流れはいかがですか」
「沢の下は細いが、途切れてはおらぬ。山側へ偏る感じもない」
しらほは値と彼の観察を別々に残した。
契約してからは、近くにある久那岐の力が分かりやすくなった。それでも、沢の下まで同じように感じ取れるわけではない。分からないところは尋ね、器具も使う。
三点目を測り終えると、久那岐が予備の箱を持った。
「今日は、針が端へ行かなかったな」
「はい。このくらいの仕事を増やしたいです」
「俺もそう思う」
学院で報告を済ませ、二人は町へ出た。
久那岐が午後の予定に入れたのは書店だった。以前、巻数を見て棚へ戻した物語の、一巻目を手に取る。
「今度は、これを読もうと思う」
「四冊ありますよ」
「知っている。今は、三十日のうちに読み切る必要はなかろう」
しらほも隣からあらすじを見た。
恋がどう始まるかを比べるためではなく、単に続きを知りたくなる話だった。
「読み終えたら、私にも貸してください」
「うむ。先に結末を話さぬよう気をつけよう」
店を出ると、久那岐は本を片手へ持ち替えた。空いた方がしらほへ向く。
しらほも手を出した。触れてから握るまでに、確認の言葉は要らなかった。
茶屋では、彼は餡の多い菓子を選び、しらほは蓬の香るものを頼んだ。
少しずつ分けることには、もう相談が必要なかった。ただ、しらほの分の餡が大きかったので、久那岐は切り分け直した。
「こちらでよいか」
「はい。ありがとうございます」
久那岐は自分の皿へ大きい方を戻し、茶を飲んだ。
「ところで、本来なら今日は答えを聞く日だったな」
しらほは顔を上げた。
「覚えていらしたのですか」
「三十日あれば十分だと言ったのは俺だからな」
「答えは、もうお伝えしました」
「うむ。受け取った」
久那岐はしらほの手元を見てから、顔へ視線を戻した。
「では、ときめかせる方の成績はどうだ」
少しだけ笑っていた。
しらほは茶碗を置いた。手首へ指を添えることも、鼓動を数えることもしなかった。
「もう、測る必要はないと思います」
「なぜだ」
「会いたいかどうかで、分かりますから。明日も会いたいです」
久那岐の手が止まった。
ほんの少しの間だったが、しらほには分かった。彼は茶を置き、まだ残っている菓子を見る。
「そう答えられると、成績を尋ねた側が困るな」
「困るのですか」
「嬉しい方だ。返す言葉を、少し選んでいる」
しらほは待った。
久那岐はやがてこちらを見て、明日の午後も空けておこうと言った。
帰り道、学院へ戻る手前の木陰で、久那岐が足を緩めた。
しらほも止まる。つないでいた手が離れ、彼がこちらへ向き直った。
「一つ、頼んでもよいか」
「はい」
「口づけたい。よいか」
しらほは彼の顔を見た。
本で読んだことは何度もある。けれど、どの場面に似ているかを探すより先に、頷けた。
「私も、そうしてほしいです」
久那岐は少し身を屈めた。
唇が触れたのは短い間だった。離れると、彼はすぐには歩き出さず、しらほを見ていた。
しらほは自分の手を見なかった。
代わりに、久那岐の指へもう一度触れる。彼が手を開いたので、そこへ指を入れて握った。
「今のことは、記録せぬのか」
「忘れそうにはありません」
「そうか。俺もだ」
久那岐は笑い、本を持つ腕を少し上げた。包みがしらほへ当たらないようにして、隣へ戻る。
学院では、夕方の観測報告が届いていた。
急いで確かめるべき変化はない。しらほは明日の確認事項を読み、祭祀設備の担当と、器具を借りる時刻を揃えた。久那岐も横から流れの図を見て、最初に向かう地点を確かめる。
仕事を終えると、明日の午後はどこへ行こうかという話になった。
読み始めた本について話してもよいし、町を歩いてもよい。久那岐はしらほの返事を待っていたが、今日のうちに決めなければ困ることはなかった。
「会ってから、決めてもよいですか」
「構わぬ。二人の時間は空けてある」
しらほは頷いた。
予定表へ、午前の観測と設備の確認を書き込む。
午後の欄には、「久那岐と出かける」とだけ記した。




