会えない日
翌朝、しらほは学院で観測記録を受け取った。
時刻の抜けを確かめ、器具を替えた地点にはその旨を書き添える。昨日と比べるには、同じ器具の値を使う方がよい。必要な問い合わせを済ませる頃には、午前の作業は予定どおり終わっていた。
顔を上げると、窓の向こうに中庭が見えた。
いつもなら、そろそろ久那岐が来る時刻だった。長椅子には誰もいない。しらほはしばらく見てから、次の資料を開いた。
古い観測法に、今は使わない言葉があった。
あとで久那岐様に聞こう、と思ってから、今日は会わないことを思い出す。意味を調べる方法はほかにもある。用語を控え、参照する資料を取りに立った。
仕事は進んだ。
ただ、調べ終えた言葉について、久那岐ならどう説明するのかは分からないままだった。
昼の休憩に、借りた恋愛小説を開いた。
長く共に暮らす二人のうち、一人が留守にしている場面だった。残された方が食事の支度をしながら、味を確かめてもらおうと隣を向く。いないと分かっていたはずなのに、声をかけかける。
しらほは一度、頁から目を離した。
午前中に何度も中庭を見たことを思い出す。本の人物がなぜそうするのか、今日は前の頁へ戻らなくても分かった。
そこへ、教官が施設からの連絡を持ってきた。
「昨日、無事に着いている。道中に大きな異変はなく、到着後の測定も安定しているそうだ」
「今朝も、変わりはありませんか」
「ああ。引き続き確認するとのことだ」
しらほは本を膝へ置いた。
頷いて息を吐くと、肩が少し下がった。椅子の背に触れたところで、そこまで体を起こして座っていたことに気づく。
道は安全だと聞いていた。それでも、着くまでに何か起きなかったか、ずっと気にしていたらしい。
本人からの短い伝言もあった。
借りた本は、急いで返さなくてよい。向こうでも読むものはある。ただ、術の記録が多いので、こちらを読み終えたら感想を聞きたい、と。
しらほは最後まで読んでから、もう一度、到着時の状態を確かめた。
無事だった。それが分かったのに、昼を過ぎれば中庭へ来るような気がするのは変わらなかった。
午後は、神獣の応答が鈍った例の前後を調べた。
先日は状態の変化を先に拾ったので、同じ資料群にある土地の記録までは読み切れていない。
広い範囲で、霊力が普段と逆向きに流れた年の記述があった。
測定値はほとんど残っていない。けれど、高位の神獣ほど帰路の指示を聞きにくくなり、同じ方角へ進もうとしたことが、複数の場所で記されていた。
しらほは記述を分けて写した。
異常が起きた土地。神獣が向かった方角。最後に変化が集中した場所。
集中したのは、古い祭祀地のある山地だった。
別の紙に、後から書き加えたらしい説明があった。土地の奥に眠る神格を「荒神」と呼び、霊脈の乱れと関わりがあるのではないかとしている。
長い眠りの間に周囲の霊力と混じり合い、目覚めかけると、強い神獣の力をもその流れへ引くという。
誰かを襲った記録ではなかった。
神格の意志については分からず、書き手も、目覚めの兆しかどうかを確かめられなかったと残している。
しらほは「荒神」の横へ、後世の推測、と記した。
話をそのまま原因にすることはできない。ただ、神獣が同じ方角へ動いたという観察は、今の報告とも比べられる。
古い図には、現在と道筋の違う川があった。道ではなく、尾根と川の合流点を頼りに位置を移す。
西の沢と北側の道は、昔の異常域の端に重なるようだった。発生の順まで同じではないが、現在広がっている向きは、山地へ続いている。
しらほは結界施設への道順も広げた。
施設は現在の異常範囲から外れている。けれど、昔、流れが集まった方角を延ばすと、その先にあった。
手を止め、尾根の位置をもう一度確かめる。
施設が危険だと分かったわけではない。今朝の値も安定している。それでも、周辺を調べる理由はあった。
しらほは資料を揃えて教官のところへ行った。
「過去にも、似た広がり方をした可能性があります。こちらが集中した場所で、施設はその方向の先です」
教官は二枚の図を並べた。
「この祭祀地が、今も残っているかは分からんな」
「はい。場所もおおよその対応です。ただ、施設の内側だけでなく、こちら側の外縁を測っておいた方がよいと思います。神獣の反応も、測定値とは別に」
「分かった。施設へ資料を送り、観測点を増やしてもらおう。地理を確かめる方も手配する」
移す際に調べた範囲へ、古い記録から得た方向が加わる。
しらほは図の写しを作り、元の記述も添えた。「荒神」という名だけが先に伝わらないよう、確かめられたことと推測の紙は分けておいた。
連絡の準備が終わってから、面会について尋ねた。
「施設へ伺える条件は、昨日のお話から変わりましたか」
「今はまだ難しい。道中と周辺の観測を揃える必要がある。許可が出れば、往復の経路と滞在時間を決めて、同行者をつけることになる」
「先にできる手続きはありますか」
教官がしらほを見た。
急ぎの仕事はないかと問われ、しらほは今日の照合は終わると答えた。面会を願い出る書類と、連絡を託せる時刻を教えてもらう。
観測を増やす提案は、久那岐の安全のためだった。
けれど、同じ結果を連絡でもらえるのに、会いに行く手順まで知りたいのは、それだけでは説明できない。
本人の声で返事を聞きたかった。
見つけた記述を示せば、久那岐はどこから読むだろう。分からぬと言うのか、何か覚えがあるのか。その返事の間も含めて、隣で聞きたい。
安全な場所にいると分かれば済むのだと思っていた。
済まなかった。
仕事を終えてから、しらほは借りた本を開いた。
頁の間に薄い紙が残っている。久那岐が疑問のあるところへ挟むのに使っていたものだった。紙の端は少し擦れているが、本の角は折られていない。
しらほは紙片を指で挟み、いったん本を閉じた。
次に会ったら、留守の相手へ声をかけかける場面は、今回は読み返さずに分かったと伝えようと思った。久那岐がそこをどう読んだかも聞きたい。
閉じた本をもう一度開き、その頁へ紙片を挟み直した。
面会の許可が出たのは、二日後の朝だった。
施設までの道の観測値が揃い、短時間なら往復できると判断された。ただし、教官が同行し、滞在は半刻。途中でも異常値が出れば、その場で引き返すことになっている。
しらほは条件を確かめ、その日のうちに手続きを済ませた。
鞄には古い記録の写しと現在の観測図を入れる。借りた小説も、目印の紙を抜かずに持った。見せるだけなら写しを送れば済むが、本の頁は、隣に置いて話したかった。
道中の値は安定していた。
結界施設へ着くと、教官は外縁の観測記録を確認しに行き、しらほは面会用の部屋へ案内された。
久那岐は窓際で本を読んでいた。しらほを見ると、開いたところを指で挟んだまま立ち上がる。
「来たのか」
一歩こちらへ来てから本を持っていることに気づき、脇の台へ置いた。頁には何も挟まなかった。
「はい。半刻の許可をいただきました」
「ならば、座ろう。立ったまま話して終わっては惜しい」
久那岐は向かいではなく、卓の隣側の椅子を引いた。しらほが鞄から写しを出すと、紙を広げられるよう場所を空ける。
「調査の話があって、来たのか」
「それもあります。古い図と比べていただきたいところが見つかりましたので」
しらほは写しを置いた。
久那岐が座るのを待つ間に、言わなければ、その用事だけで来たことになると思った。間違いではないが、それだけではなかった。
「会いたかったので」
久那岐の手が、椅子の背に残った。
「調査だけではありません」
しらほは顔を上げて言い添えた。
いつからそうだったか、どこまでの感情なのかは、まだ説明できない。ただ、本人へ話したかった。それは今、別の理由に置き換えずに言えた。
久那岐は少し黙ったあと、椅子へ座った。
「俺も、おまえに会いたかった」
声に笑いが混じっていた。
しらほは頷き、写しを二人の間へ寄せた。一枚目の上下を揃えるだけなのに、手を離すまで少し時間がかかった。
古い図には、川の位置が今と違うところがある。しらほは尾根と合流点を基準に重ねたことから説明した。
広い範囲の逆流、高位神獣が同じ方角へ進もうとした記録。最後に異常が集中したのは、祭祀地のあった山地だった。
「現在も、広がる向きには似たところがあります。ただ、発生した順は同じではありません」
「こちらが学院か」
「はい。外門はこちらです」
久那岐は図を自分の方へ寄せた。
学院内で歩こうとしたときの位置を示し、指を外門の先へ滑らせる。しらほはその指が止まるまで待った。
「向こうへ行くものだと思った。何のためかは、やはり出てこぬが」
「この山地と、ほぼ同じ方向ですね」
「うむ。ただ、あの場所へ行こうとしたとまでは言えぬ」
しらほは方角だけを記した。
名前を聞いて思い出したという話にはしない。久那岐も、図を見てから確かめたことだと断ってくれた。
「施設でも、そちらが気になることはありましたか」
「窓から眺めたことはある。引かれたのか、ただ見たのかは分からぬ」
「今後は、それも残していただけますか。違ったとしても、時刻と方向があれば比べられます」
「分かった。何も起きなかった分も、残しておこう」
続いて「荒神」の記述を見せた。
これは後から添えられた推測で、観測した者の記録とは分かれている。久那岐はそちらも読み、図の山地へ目を戻した。
「古い神格には、こうして言葉を交わせるものもあれば、土地や霊脈に近くなるものもある」
「もし、こちらの記述が後者なら」
「俺たちを呼ぼうとしているとは限らぬな。強い力があれば、周りの流れごと引いてしまうのかもしれぬ」
久那岐は断定せず、記録をしらほへ返した。
「この名だけでは、俺にもどのようなものか分からぬ。祭祀地の記録を、もう少し探す必要があるだろう」
山地が原因だと決まったわけではない。
けれど、現在の異常の広がりと、神獣が向こうとする方角の両方から、確かめる場所が絞られてきた。
しらほは資料を揃え、残りの時間を確認した。まだ、持ってきた本の話ができる。
鞄から取り出すと、久那岐が表紙を見て頷いた。
「どこまで読んだ?」
「一人が留守の間に、食事の支度をするところです。相手がいないのに、味を確かめてもらおうとする場面がありました」
挟んだ紙を目印に開いた。
「今回は、前の頁へ戻らなくても分かりました」
久那岐は示された行を読んだ。
すぐには何も言わず、その少し前まで目を動かす。それから顔を上げた。
「俺がいなかったからか」
「はい。調べものをしていて、あとでお聞きしようと思いました。今日は会わないと分かっていたのに」
「答えは見つかったか」
「資料で調べられました。ただ、久那岐様なら何とお答えになるかも、知りたいままです」
久那岐は本から手を離した。
「では、その話も聞こう」
しらほが口を開きかけたところで、扉が叩かれた。
入ってきた教官は、施設の外縁で弱い逆流が一度記録されたと告げた。
「今は戻っている。内側の値に変化はないが、約束どおり面会は切り上げる」
「方向は分かりますか」
「山地に向いた側だ。ほかの地点では、まだ出ていない」
しらほは開いていた図を示した。教官は新しい報告の位置と見比べ、久那岐が示した方角についても確認する。
「学院へ戻り次第、資料を揃えて報告しよう。祭祀地周辺の現状を、優先して調べる必要がある」
「久那岐様を近づけずに確認する方法も、お願いします」
「ああ。まず、現地の記録と外側からの観測だ」
久那岐は頷いた。窓へ近づくことも、外を確かめに出ることもしなかった。
「俺の方は、ここで感じたことを残そう」
しらほは必要な写しだけを彼へ渡し、残りを鞄へ収めた。小説も持ち帰る。返すかどうかを尋ねるより先に、久那岐が、続きも読んでおいてくれと言った。
予定より少し早い別れになった。
玄関まで送ることも控えるため、久那岐は部屋の戸口で止まった。しらほは廊下へ出てから振り返る。
「次に面会できる条件が分かったら、知らせてください。許可が出たら、また来ます」
「うむ。待っている」
明日とは言えない。
それでもしらほは、今度は尋ねることを残したまま帰ると決められた。
廊下を進むと、教官が帰路の観測結果を確かめていた。しらほも立ち止まり、異常のない道を図で追う。
学院へ戻って報告する内容に、祭祀地と施設外縁の位置関係を加えた。その下には、久那岐から聞いた方角を別に記す。
本は鞄の内側にあった。
話せなかった用語は、写しと一緒に教官へ渡さず、自分の手元へ残した。
学院へ戻ると、しらほは教官と祭祀の記録を開いた。
窓の外が暗くなるまでに、古い図の山道を、現在の尾根筋へ移せた。祭祀地そのものを示す名は消えていたが、沢の合流点と、石段を設けた斜面の向きが合っている。
「跡が残っている可能性は高そうです」
「祭祀は、何のために行っていた?」
「霊脈の流れを鎮めるため、とあります。ただ、最後の年が分かりません」
記録は途中から欠けていた。祭祀が途絶えたのか、書類だけが失われたのかも確かめられない。
しらほはそこを空欄にした。行われなくなったから神格が怒った、という説明は、残っている紙のどこにもなかった。
高位神獣を伴わず、山地の外側を調べた報告も届いた。
中心部へは入っていない。けれど、霊力が山側へ流れる地点が複数あり、斜面には崩れた石段と、割れた石の囲いが見つかったという。
「この囲いは、祭祀の設備でしょうか」
「位置は近い。ただ、いつ壊れたかが分からんな」
「では、破損と逆流は別に残します」
現在の観測図へ印を加えると、学院周辺から山地へ向かう線が少し延びた。
眠っていた神格が周囲の力を引いているという仮説には合う。合うからといって、それが原因だと決める段階ではなかった。
翌日は、安全を確かめた道から外側の観測を増やす。
その準備を始めたところへ、結界施設から急ぎの連絡が入った。
外縁で逆流が繰り返されている。
一度きりだった昼間と違い、戻ったと思うと、間を置かずにまた針が振れたという。
しらほは施設の図を広げた。
「内側の値は」
「大きくは変わっていない。だが、久那岐様に異変が出ている」
教官が読み上げた内容に、しらほは置きかけた筆を握り直した。
山側を見続け、問いへの返事が遅れた。内側の部屋へ移っても、引かれる感覚が消えないと話している。
「結界の破損はありませんか」
「ない。外から押し破られた形跡もないそうだ」
しらほは、祭祀記録にあった霊脈の図を隣へ置いた。
土地の奥を通る流れまで、部屋の結界で断っているわけではない。囲いの内外ではなく、足元から影響が続いている可能性があった。
次の連絡には、久那岐の言葉が添えられていた。
自分の前へ無理に立たないこと。力で押さえ込まないこと。変化が強くなれば、周囲を空けること。
学院としらほから届いた資料については、まだ話せていたという。
しらほは時刻を確かめた。
面会のときには、椅子に座って一緒に図を見ていた。そのあと、まだ半日も経っていない。
教官は追って状態を知らせるよう返答し、学院側でも山への経路を確認し始めた。しらほは報告が届くたびに位置と時刻を移し、古い図との対応を示した。
夜のうちに、久那岐が人の姿を保ちにくくなったと伝えられた。
人のいない開けた場所へ、自分で移動したという。施設側も離れたところから観察を続けた。
白銀の体が現れたのは、そのあとだった。
久那岐は建物を避け、尾が人のいる方へ回らないよう身を曲げた。止まるよう声をかけられると、一度は脚を止めた。
だが、また山側へ進み始めた。
教官が報告を読み終えた。
しらほは頷き、図の上へ指を置いた。ここで何を感じたかを考えるより、確かめなければならないことがあった。
「最後に確認された場所を教えてください。どのくらいの速さで動いていますか」
「谷沿いを進んでいる。走ってはいない。追跡は、霊力を測りながら離れて行っている」
「人家のある道は通っていますか」
「いや。こちらの道へ出ず、斜面へ移ったそうだ」
しらほは示された場所を見た。
道を進む方が平らで、山へ向かうにも近い。それでも斜面を選び、建物から離れている。
「まだ、場所を選んでいらっしゃるのかもしれません」
筆先が少し滑った。しらほは線を引き直した。
久那岐が周囲を傷つけないように動けている間に、追いつきたかった。次に呼んだときにも、こちらを見ることができるうちに。
「私も行かせてください」
教官が顔を上げた。
「古い地図と現在の道を照合しています。山へ向かう方向も、ご本人に確かめました。呼びかけに応じられたときの様子は、私が一番近くで見ています」
「同じように戻るとは限らない」
「はい。ですが、声をかけるなら、私にもできることがあります」
適性の値だけでは、何を防げるか分からない。
それでも、受け渡す力の量を伝え、久那岐が応じる速さを知っている。今の反応が、普段とどれほど違うかも比べられる。
教官はしらほの図を見た。
「単独では行かせない。私も行く。観測を続ける者と、退路を確かめる者が必要だ」
「お願いします」
「近づくかどうかは、現地の値を見て決める。呼びかけても反応がなければ、一度距離を取れ」
「承知しました」
しらほは必要な図を選び、器具の箱を開けた。
数値を測れる範囲と、針が振り切れた場合に見るものを分ける。道の分岐には、帰路に使う目印も記した。
鞄の内側に、小説が入ったままだった。
取り出すと、薄い紙が挟まった頁が少し開いた。今日、久那岐と読んだところだった。
しらほは紙を奥へ挟み直し、本を棚へ置いた。
借りたものなので、濡らしたくない。取りに戻る場所が分かるよう、表紙を上にして置く。その空いた分へ、祭祀地の図と予備の測定具を収めた。
会うために行く。
調査の理由をいくつ並べても、そこは消えなかった。
もう一度、自分の声へ返事をしてほしかった。図を見て、ここは違うと言ってほしい。今日話せなかったことも、まだある。
空が白み始める頃、山へ向かう道の直近の観測が揃った。
久那岐は谷の奥へ進んでいる。周囲の値は乱れているが、その外側を回る経路なら、今のところ通れるという。
しらほは教官と学院を出た。
門を過ぎてからも、器具の値は確かめ続けた。昨日なら面会の許可を待っていた時刻へ、近づいている。
道が開けたところで、山の尾根が見えた。
木々の向こうに、一度だけ白銀の長い首が現れた。すぐに斜面へ隠れたが、見間違える大きさではなかった。
「久那岐様です」
しらほは止まって位置を確かめ、図の谷筋を指した。教官が追跡の報告と照らし合わせる。
姿の消えた方へ直進すれば近い。けれど、それでは乱れの中へ入る。
しらほは器具を持ち直し、確かめてある外側の道へ足を向けた。返事が届くところまで行くために、まだ測るのをやめるわけにはいかなかった。




