あなたに相応しい人
北側の道の報告は、時刻を分けて書いた。
異常が始まった時刻。久那岐が真の姿になった時刻。草の向きが変わった時刻。久那岐が引かれる感覚を訴えた時刻。
並べると、異常は久那岐が力を使うより先に始まっている。
しらほはそこへ線を引いた。
「原因とは考えにくい。ただ、反応を強めた可能性は残るな」
教官は報告を読み終え、久那岐を見る。
「しばらく、異常地点への同行は外れていただきたい」
「妥当だろう」
久那岐はすぐに答えた。
「俺が近づくことで何かが変わるなら、まず離した状態を測るべきだ」
しらほも頷いた。
調査の相手が変わるだけなら、仕事は続けられる。
ただ、古い記録を探すうちに、別の記述が見つかった。
大きな外部霊力に高位神獣が引かれた例。その際、主契約を結んでいた神獣の方が、力と意識を保ちやすかったという記録がいくつか残っている。
「主契約を結べば防げる、という記録ではありません」
しらほは先に言った。
「はい。ただ、安定に関わった可能性はあります」
教官は別の紙を出した。
「学院としては、久那岐様との契約候補を早めに考えておく価値があると思う。しらほとの三十日を否定するわけではない。ただ、危険への備えとしてだ」
候補になり得る神獣使いは何人かいるという。
高位神獣との適性が高く、結界術や緊急時の対応に経験がある者。
しらほは名簿を見た。
自分の名前はまだ正式登録前なので載っていない。
「久那岐様は、どうされますか」
「話を聞くことには異論はない。ただし、三十日の約束は続いている」
久那岐は名簿を閉じた。
「候補がいるからといって、今日決める理由にはならぬ」
しらほは自分の予定表を開いた。
翌週の調査同行から、久那岐の名を消す。代わりの人員は教官が決める。
その下には、三十日の取り決めで会う予定が残っていた。
二行とも同じ名が入っていた紙には、途中だけ余白ができた。
二日後、教官は一人の候補を示した。
正式登録済みの女性の神獣使いで、結界と緊急対応の経験がある。高位神獣との適性確認でも、十分に高い数値を出していた。
しらほは経歴を読んだ。
不足を探そうとしているわけではないが、見つからなかった。
「この方なら、実務面では問題が少ないと思います」
「そうだろうな」
久那岐も紙を見ている。
「一度、お会いになってみてもよいと思います」
久那岐が顔を上げた。
「俺がその者と契約してもよいのか」
「まだ、契約すると決まったわけではありません。状態が安定する可能性があるなら、選択肢は増やしておいた方がよいです」
しらほは自分の返事を聞いた。
間違ってはいない。
「会うことと結ぶことは違います」
「うむ。では会おう」
久那岐はそこで紙を置いた。
「ただし、契約の返事は三十日が終わるまで待つ。おまえとの取り決めを、途中で別の話に変えるつもりはない」
面会は三日後の午後に決まった。
しらほは自分の予定表へ日付を書いた。
自分が同行する予定ではない。場所も別室だ。
それでも、何時に会うのかを書いた。
最後の一行は、自分の予定ではなかった。
しらほは消そうとして、その前に日付が合っているか確かめた。合っていたので、筆先を紙から離した。
面会の前日、久那岐とは中庭の回廊を歩いた。
仕事ではない。三十日の取り決めのための時間だった。
「この数日で、何か変わったか」
久那岐に尋ねられ、しらほは考えた。
「あります」
「聞こう」
「候補の方についてです」
久那岐は歩調を変えなかった。
「よい方だと思います。実績もあります。けれど、久那岐様がその方と仕事をされるところを考えると、あまり好ましくありません」
「好ましくない?」
「はい。私がしていたように隣で記録を取り、久那岐様に指示を出すところを想像しました。途中で考えるのをやめました」
久那岐は少し黙った。
「それから、明日の面会時刻を、自分の予定表へ書きました」
「おまえの予定ではないだろう」
「はい。ですから、消そうと思いました」
「消したのか」
「いいえ」
久那岐は足を止めた。
「恋愛小説に、似たものがあった」
「何ですか」
「嫉妬だ」
しらほも止まる。
「相手を嫌う必要はない。自分がいた場所へ、別の者が入るのを嫌だと思うこともあるらしい」
しらほは候補の女性の経歴を思い出した。
嫌いではない。会ってもいない。
ただ、契約すれば、久那岐が自分と会う理由は減る。
仕事も、その人と組むことになるかもしれない。
「久那岐様が、その方を選ばれるのは、あまり好ましくないようです」
言葉にすると、久那岐の口元が少し動いた。
「嬉しそうですね」
「うむ。おまえが、俺が誰を選んでも同じとは思っておらぬことが分かった」
しらほはそれを記録するべきか迷った。
「では、明日は行かぬ方がよいか」
久那岐が尋ねた。
しらほはすぐには答えなかった。
「行かれない方が、私は好ましいです」
「うむ」
「でも、それだけで久那岐様の安全につながる選択肢を減らすのは、違うと思います」
久那岐は頷いた。
「ならば、約束どおり会おう。契約は決めぬ」
「はい」
しらほは少し歩いてから言った。
「名前が分かっても、なくなるわけではないのですね」
「感情というものは、そう都合よく片づかぬらしいな」
「不便です」
「以前もそう言った」
回廊の先に、面会で使う応接室が見えた。
しらほは明日そこへ戻る必要はないと思いながら通り過ぎた。
翌日、朝の時間はいつもどおりだった。
久那岐はしらほと本について話し、昼前になると立ち上がった。
「では、行ってくる」
「はい」
しらほはそれ以上言わなかった。
面会の時間、しらほは資料室にいた。
古い主契約の記録を探し、似た事例を並べる。何度か頁をめくり過ぎ、戻った。
時刻を見る必要はなかったが、見た。
一つ、古い記述が見つかった。
高位神獣が大きな霊力へ長くさらされ、返事が遅くなった。自分の力と周囲の力を分けにくくなり、個としての判断が薄れた、とある。
主契約の後には安定したが、同時に異常地点から離している。
契約の効果だけとは言えない。
しらほはその点も書いた。
夕方、久那岐が戻った。
「いかがでしたか」
「よい使い手だった」
久那岐は隠さなかった。
「話も通じる。結界の扱いにも慣れている。俺の力を怖がって、言うべきことを飲み込む者でもない。共に仕事をするなら、問題はなさそうだ」
しらほは頷いた。
「適性は」
「高い。十分を越えているそうだ」
よかった、と言いかけた。
口を開いたところで止める。
「検討できることが増えたのは、よい結果です」
久那岐はしらほを見た。
「ただ、条件がよいことと、その者を選ぶことは同じではない」
しらほは顔を上げた。
「三十日を待っているのは、より高い数値の相手が出るのを待つためではない」
「はい」
「だから、今日決めるつもりはない」
その返事を聞いて、しらほは自分の肩がわずかに下がったことに気づいた。
候補を勧める理由は、昨日より増えている。
経験も、適性も、久那岐自身の評価も高い。
それなのに、もう一度勧める言葉は出てこなかった。
久那岐が立ち上がったあと、しらほは彼が座っていた椅子へ手を置いた。
まだ少し温かい。
それを確認する必要はなかったが、手はすぐには離れなかった。




