最強神獣、恋愛を履修する
翌朝、久那岐は約束の時刻より少し早く来た。
しらほは中庭へ出る前に、自分の手首へ指を添えた。脈は普段どおりだった。指先の温度も、昨日と変わらない。
「何をしている?」
「基準を取っています。昨日、比べるものが必要だと思いましたので」
「なるほど」
久那岐はそれ以上笑わなかった。しらほが筆記具を出すのを待ち、抱えていた本を卓へ置く。
昨日貸した恋愛小説だった。
「もうお読みになったのですか」
「昨夜のうちにな」
「全部を?」
「うむ」
しらほは表紙を見た。薄くはない。
久那岐は本を開き、いくつか紙を挟んだ頁を示した。
「花を贈られた女が、枯れたあとも捨てぬところがあった」
「はい」
「その前に、男は何度か花を持ってきている。最初の一度だけでは、同じことにはならぬのか」
「多分、そうだと思います」
「では贈り物だけ真似ても足りぬな」
久那岐は紙を抜きながら、ひとつずつ尋ねた。
手を取る場面。雨の日に迎えに来る場面。菓子を半分にする場面。読んだ順に試すつもりではなく、なぜその行動が嬉しいのかを確かめたいらしい。
「ところで、これは先に渡しておこう」
久那岐が袖から細長い包みを出した。
しらほは受け取り、紙を開く。中には新しい筆が一本入っていた。穂先が細く、軸は手に収まりやすい。
「筆、ですか」
「昨日、持ち物へ加えていただろう。おまえは細かく書くことが多いようだったので、先の細いものを選んだ」
「持ってはいますが」
「そうだろうな。持っておらぬから書いたのではなく、持ってくるつもりで書いたのだろう」
しらほは筆を持ち直した。
昨日、自分が紙の隅へ書いた文字まで見ていたらしい。
「ありがとうございます」
「どうだ」
「嬉しいです」
「昨日の卒業と同じか?」
しらほはすぐには答えず、筆先を見た。
主席になったことは嬉しかった。新しい筆をもらうことも嬉しい。けれど、今は、なぜこれを選んだのかを聞いたあとの方が少し長く手元を見ていた。
「少し違うと思います」
「どこが?」
「私の使い方を考えて選んでくださったことが、好ましいです」
久那岐は頷いた。
しらほは持ってきた紙へ、そのまま書いた。
細い穂先は、昨日まで使っていたものより小さな字を書けた。
「この筆なら、もう一行入る」
「そこも大事なのか」
「はい」
久那岐は満足そうだった。
恋愛小説の花とはずいぶん違うが、結果が出たなら問題ないらしい。
数日後、二人は町へ出た。
久那岐が恋愛について調べる本を増やしたいと言ったためだった。
学院を離れると、彼とすれ違う者の動きがよく分かった。
道の端へ寄る。話していた声が小さくなる。神獣を連れた者は、相手の首輪や手綱を確かめる。
久那岐自身は慣れているのか、止まりはしなかった。
「右の通りです」
「こちらではないのか」
「そちらにも書店はありますが、術書が多いです。恋愛小説でしたら右の方が揃っています」
久那岐は道標を見直した。
「うむ。それに、棚を指して違うと言われるのも久しぶりだ」
「間違っていれば申し上げます」
「それでよい」
店へ入ると、店主は一度久那岐を見てから、奥の棚を指した。しらほが先に歩き、読んだことのあるものと、まだ知らないものを分ける。
「これはどうですか」
「結ばれるまでが長いな」
「四巻ありますので」
「三十日のうちに読むには少し多いか」
「読むだけでしたら間に合うと思います」
「おまえはそういう見積もりをするのだな」
久那岐は一巻目を手に取り、別の薄い本も重ねた。
恋愛の作法を集めたものより、物語の方を選ぶ。しらほが理由を尋ねると、久那岐は棚へ本を戻しながら答えた。
「おまえは手順そのものより、相手によって違うと言っただろう。ならば、違う人間がどう感じるかを見た方がよい」
「そうですね」
「おまえには、尋ねたことの返事がもらえる」
久那岐は何でもないことのように言った。
しらほは棚から本を抜く手を止めた。
「それは、よいことですか」
「よい。俺に気を遣って、分からぬものまで分かったと言われる方が困る」
店を出たあと、二人は茶屋へ寄った。
久那岐が買った本を卓の端へ置き、菓子をひとつずつ頼む。しらほの皿には果実の入ったもの、久那岐の皿には餡の多いものが来た。
「本では、同じものを分けていたな」
「分けてみますか」
「試すか」
半分ずつ交換して食べた。
味はどちらも分かった。しらほは果実の方が好みだったが、久那岐が自分の皿を見て、餡の大きい方をこちらへ渡そうとしたので止めた。
「久那岐様がお好きな方でしょう」
「分かるのか」
「先ほどから、そちらを先に食べています」
久那岐は自分の皿を見た。
「見られていたな」
「観察する取り決めですので」
「ならば、俺も見ておこう」
そう言って、久那岐はしらほの皿へ果実の多い方を戻した。
しらほはその動きを記録しようとして、筆を出すのをやめた。店の中で広げる必要はない。覚えていられそうだった。
次に試したのは、触れることだった。
学院の中庭で、久那岐はしらほの向かいに座り、手を差し出した。
「触れてもよいか」
「はい」
しらほも手を出した。
久那岐は最初、手首へ指を当てた。しらほが朝にしているのと同じ位置だった。
「……脈を測られているようです」
「違うのか」
「恋愛小説では、もう少し別の触れ方でした」
久那岐は本を開き、該当の頁を確かめた。
「手の甲へ、ということか」
「はい」
「では、もう一度」
今度は、しらほの手の甲へ掌が重なった。
久那岐の手は思っていたより温かい。力はほとんど入っておらず、逃げようと思えばすぐ抜けられる。
しらほは自分の呼吸を確かめた。
脈は少し速い気がする。けれど、さっきから触れられることを意識していたので、そのせいかもしれない。
「どうだ」
「少し脈が速くなったと思います」
「成功か?」
「まだ分かりません。初めて試したことなので、新奇性でも同じ変化が出る可能性があります」
「なるほど」
久那岐は手を離した。
しらほも手を膝へ戻した。
触れられていた場所だけ、少し温かかった。
しばらくしても分かったので、記録にはそのまま書いた。
離したあとも。
雨が降ったのは、その三日後だった。
二人は学院の資料室から戻る途中で、急な雨に当たった。
しらほは文箱を抱え直し、軒までの距離を見る。走るほどではないが、中の紙を濡らしたくはなかった。
久那岐が隣へ寄った。
長い袖がしらほの文箱の上へかかる。自分の肩は雨に濡れているのに、文箱へ落ちる水だけを避けるように歩いた。
「久那岐様、そちらが濡れます」
「俺の衣は乾かせる。紙は濡らしたら戻らぬだろう」
軒下へ着き、しらほは文箱を開いて確かめた。中は濡れていない。
久那岐は袖についた水を払った。
「今のは、本にありましたか」
「いや。雨が降ったので、そうしただけだ」
しらほは濡れた白い袖を見た。
「好ましかったです」
「そうか」
久那岐の眉が少し上がった。
「今は、試したつもりはなかったのだが」
「そうだと思いました。ですから、どこへ書くか迷っています」
久那岐は雨の向こうを見てから、しらほへ戻った。
「何も試さぬ間にも、変わることがあるのだな」
「そのようです」
その日の記録には、実験の欄ではなく、備考へ書いた。
本人は試したつもりはない。
同じ週の終わり、教官からしらほへ調査の手伝いが頼まれた。
西の沢で、霊力の流れが短時間だけ逆向きになったという。
「卒業後の登録待ちとはいえ、観測の成績はおまえが一番よかった。補助に入ってくれないか」
「はい」
しらほが場所と必要な器具を確認していると、隣にいた久那岐が図を覗いた。
「俺も行こう」
「久那岐様が、ですか」
「おまえを見る期間なのだろう。仕事をしているところも見ておきたい」
教官は一瞬迷ったが、現場で久那岐が霊力を抑えること、器具から距離を取ることを条件に頷いた。
しらほも異論はなかった。
久那岐ほどの神獣が近くにいれば、異常そのものと彼の霊力を分けて測る必要がある。
「測定器は二台持っていきます」
「一台では足りぬのか」
「久那岐様の近くと、離れた場所で同時に取ります。差があれば分かりますので」
「では、俺はどこへ立てばよい?」
「現地で決めます」
しらほは箱を開き、器具を二台並べた。
新しい筆で、持ち物の欄へ予備の目盛り板を書き足した。




