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最強神獣様、不採用

 卒業認定の朱印は、まだ乾ききっていなかった。

 硝野(しょうの)しらほは証書の端を持ち、春の日が差す廊下で自分の名を眺めた。その右には、主席の二文字が添えられている。指で擦ってしまわないよう、持つ場所を少しずらした。


 よい成績を残せたことは嬉しい。文箱に収めるときにも、四隅が折れないように確かめた。

 隣では、同じ証書を握り潰しかけながら契約神獣の首に抱きついている生徒がいた。


「卒業できたよ。あなたのおかげだよ」


 途中で声が裏返り、頬を擦り寄せられた神獣が、尾で何度も床を叩いた。あの勢いでは尾の先が痛くなりそうだが、やめる様子はない。

 庭にいる家族へ手を振る者も、泣きながら相棒の毛並みを濡らす者もいる。しらほは文箱の蓋を閉じ、隣の神獣の尾を踏まないよう少し寄った。彼女の傍らには、その分だけ空きがあった。


「しらほ」


 教官が名簿を下げた。しらほの隣に何もいないことを確かめるように目をやってから、こちらを見る。


「まだ条件を下げる気はないのか」

「ありません」


 祝いの声に紛れないよう、顔を上げて答えた。肩から滑った淡い色の髪を耳に掛けると、教官は眉間を揉んだ。


「おまえなら、たいていの神獣とは折り合いをつけられる。実習でも問題はなかっただろう」

「はい。皆、よく力を貸してくれました」

「では、何が足りない」

「ときめきです」


 教官の指が止まった。

 しらほは待った。この話をすると、いつもここで少し間が空く。聞こえなかったわけではないらしいので、繰り返さないことにしていた。


「……主契約を、恋愛小説と同じに考えていないか」

「同じではありません。でも、生涯、魂を結ぶ相手ですから」


 文箱を抱え直した拍子に、袖の内側で本の角が手首に触れた。昨夜読み終えた恋愛小説だ。

 主人公は相手の顔を見るだけで言葉につまり、会えない夜には眠れず、ほかの誰かに向けられた笑顔にまで心を乱していた。しらほはそのたびに少し頁を戻した。術を受けたわけでもないのに、そこまで体に出るものなのだろうか。


 菓子を美味しいと思うのとも、褒められて嬉しいのとも、ずいぶん違うらしい。

 一度は自分でも知ってみたかった。


「正式な神獣使いの登録には主契約が必要だ。今年度中に相手が見つからなければ、登録も次年度以降になる」

「その場合は仕方ありません」


 教官の名簿には、卒業後の任地も記されている。希望を出した土地の欄が空白なのを、しらほはもう一度見た。

 あそこで学んだ術を使うつもりで、三年間、誰より実習を重ねてきた。けれど、その空欄を埋めるために相手を選ぶのでは、選ばれる方も困るだろう。


「待つにも限りがあるぞ」

「はい。ですから、探すのはやめません」


 教官は名簿を閉じ、長く息を吐いた。

 その向こうで、泣いていた生徒が神獣を抱き直している。一度腕を緩めたのに、またさっきより強く抱く。しらほは淡い瞳でその手を追った。離れる予定があるわけでもないのに、まだ足りないようだった。


 自分にも、あれほど誰かを求める瞬間が訪れるのだろうか。


 軒先の鳥が、一斉に飛び立った。

 羽音を追って庭を見るより早く、廊下の結界札が鳴り始める。風はないのに札の端が震え、朱の術線が白く光っていた。実習で負荷をかけたときにも、ここまでの反応はしなかったはずだ。


 神獣たちが尾を伏せた。契約者の袖をくわえて後退するものや、低く身を沈めて喉を鳴らすものがいる。

 横で細い音がして、窓硝子に爪の先ほどの亀裂が走った。


「まさか……」


 教官は名簿を脇に挟もうとして、うまく収められず両手で持ち直した。顔色がひどく白い。廊下の先の教官たちも、庭を向いたまま生徒への指示を出せずにいた。

 しらほは文箱を窓から遠ざけ、両足を揃えて立ち直った。覚えのある霊力だが、以前よりずっと近かった。


 庭石の傍らに、白い衣の青年が立っていた。

 月光に似た長い髪が、幾重にも重なった仙衣の襟にかかっている。金に近い琥珀の瞳が廊下を見渡し、伏せた神獣たちのところで止まった。


「騒がせたかな。加減したつもりだったのだが」


 青年は眉を少し下げ、返事を待っている。

 教官が口を開いたものの、声は出てこなかった。代わりに深く頭を下げたので、青年は話しかける先を探すようにまた廊下を見た。


 最上位の天霊級神獣、久那岐(くなぎ)。

 以前の学院実習でも、人の姿で現れた。皆が身を縮めている間に測定器の針が振り切れたので、しらほは霊力を絞ってもらうよう頼んだのだった。あの器具は替えが少ない。


 久那岐の目が、しらほのところで止まった。返事を待っていたときの眉が戻り、声も、庭から知人を呼ぶ程度の気軽なものになった。


「おお。いたか、しらほ」


 隣で教官の袖が揺れた。しらほは会釈し、ひびの入った窓に手を向ける。


「久那岐様。霊力をもう少し絞ってください。窓硝子に亀裂が入っています」

「ああ。またやってしまったか」


 久那岐は窓を確かめ、袖口に指を添えた。廊下を満たしていた霊力が薄まり、震えていた結界札が壁に垂れ戻った。


 袖をくわえていた神獣が、ようやく口を開けた。生徒が濡れた袖口を押さえ、それから久那岐へ頭を下げる。ほかの者も続いたので、廊下には急に、顔を上げている人間が少なくなった。


 久那岐はその様子を見ながら、庭から廊下へ近づいてきた。歩くたびに長い衣の裾が揺れるが、砂はつかない。足元にまで霊力が行き届いているらしい。先ほど窓を割りかけたのと同じ力でも、使い方によっては便利だった。


「もう少し抑えた方がよいかな」

「今の状態でしたら、結界にも負担はありません」

「そうか。ここの加減は覚えておこう」


 久那岐は壁の札を一度見て、しらほに向き直った。教官はまだ名簿を両手で持っている。取り次ぐべきか迷っているようだったが、久那岐の方には待つ理由がないらしい。


「卒業したと聞いてな。ならばちょうどよい。俺と契約しないか」


 しらほは、文箱を抱えていた手を止めた。

 教官の名簿の角が、文箱にこつりと当たる。そちらを見ると、教官は謝ることも忘れた様子で久那岐を見ていた。


 背後の衣擦れまで聞こえなくなった。先ほどまで神獣に頬を擦り寄せていた生徒も、顔を半分その毛に埋めたまま動かない。


 契約の打診は、普通、神獣使いの側から行う。相手の住処を訪ね、何度も礼を尽くし、それでも返事をもらえないことがある。まして天霊級なら、会う許しを得ただけで教官へ報告する話になる。

 今はその教官が隣にいた。報告の手間はかからないが、記録を頼める状態ではなさそうだった。


「私との、主契約ということでしょうか」

「うむ。そのつもりで来た」


 取り違えではなかった。

 久那岐はしらほの顔を見て待っている。大げさに頷くでもなく、ありがたがるよう求めるでもない。その点は、実習で会ったときと変わらなかった。


 しらほは文箱を持ち直し、改めて久那岐を見た。


 霊力については、測定できた範囲だけでも比較する相手がいない。学院の測定器では上限が足りず、記録には数値でなく、その旨を書き添えた。先ほどの結界の反応からしても、あれで全力だったとは考えにくい。


 戦闘能力は、こちらが敵を定める際の注意の方が必要だろう。先ほどの結界の反応を思えば、人里の近くで力を借りるには、まず立ってもらう場所を選ばなければならない。

 ただ、霊力を絞ってほしいと頼めばすぐに応じてくれる。こちらの指示が届かず困る相手ではなかった。


 知性にも問題はない。短い説明で状況を把握し、加減を覚えようともしてくれた。自分よりはるかに弱い者に注意されても、その者ではなく、割れた窓を見る。共に仕事をするなら、そこは大事だ。


 少なくとも、しらほが今まで会った中には、これ以上の相手はいなかった。希望の任地どころか、どこへ行っても仕事に困ることはないだろう。隣の教官も、今なら名簿の空欄をすべて埋めてくれそうだった。


 しらほは文箱を片腕に預け、空いた指を手首に添えた。


 脈はいつもと同じだった。数える間にも乱れず、呼吸も普段どおりに続いている。指先は冷えても熱くなってもいない。顔に熱が集まる感じもなく、仙衣の襟元から久那岐の顔へ視線を戻しても、それは変わらなかった。


 整った顔だとは思う。

 けれど、見ていると言葉に困るわけではなかった。今も必要な返事は分かっていて、伝える前に確かめているだけだ。


 手首から指を離した。久那岐はその動きを目で追ったが、急かさずに待っていた。

 わざわざ足を運んでくれた相手を、これ以上待たせる理由はない。


「申し訳ありません」


 しらほは文箱を抱え直し、頭を下げた。


「お断りします」


 顔を上げても、久那岐はさっきと同じ姿勢で立っていた。

 袖から出た片手が、軽く開かれている。しらほが返事をする前に何か言いかけたのかもしれない。その手は下がらず、指も動かなかった。


 ひと呼吸待った。もうひと呼吸待っても、返事がない。


 教官の方が先に動いた。ただし、しらほへ伸ばしかけた手は、久那岐の前を遮る直前に引っ込んだ。しらほは久那岐を見たまま待った。聞き返されていないのに断りを重ねるのは、いくら何でも失礼だろう。


 やがて久那岐は、開いていた手をゆっくり袖へ戻した。一度しらほの背後へ目をやり、ほかに契約神獣がいないことを確かめるようにしてから、再び彼女を見た。


「……俺では不足か?」


 先ほどより少し慎重な尋ね方だった。声は荒くなっていない。実際に不足しているところがあるなら、聞いておきたいという調子に聞こえた。


「いいえ。能力面では申し分ありません」


 そこは迷わず答えられた。教官も小さく頷いたが、頷いてからしらほを見た。


「ならば何故だ」


 しらほは久那岐の目を見て答えた。


「久那岐様を見ても、特に心が動きませんでしたので」


 久那岐はしらほを見たまま、少し首を傾けた。叱られる様子がないと分かっても、隣の教官は名簿を握る手を緩めなかった。


「久那岐様。立ったままでは何ですので、応接室へご案内いたします」


 教官の目が、廊下に残る生徒たちへ向いた。皆、用事を思い出したように証書や神獣を見始めたが、足はほとんど動かない。神獣の耳までこちらを向いている。これだけ揃っていれば、小声にしてもあまり意味はなさそうだった。


「ああ、そうしてもらおう。しらほも、まだ時間はあるか」

「はい。今日の手続きは終わっています」


 教官はそこで一度目を閉じたが、何も言わずに先に立った。


 応接室は廊下の奥にあった。重い扉が閉まると、外の声はずいぶん遠くなる。教官は二人に席を勧め、しらほには何か言いたそうにしたものの、結局、会釈をして部屋を出ていった。


 しらほは文箱を膝に置いた。向かいの久那岐は、椅子の肘掛けに長い袖が挟まらないよう、片側ずつ整えている。

 壁には室内用の結界札が貼られていた。久那岐もそれを見たが、札は動かなかった。先ほどの加減を、もう保っているらしい。


「何をもって、心が動いたとする?」


 尋ね方は、実習で術の手順を確かめられるときに似ていた。

 しらほは文箱から手を離した。さっきまでなら、脈に変化がなかったと答えれば済むと思っていた。けれど、それだけでは体調の話になってしまう。


「私は、ひどく嬉しくなったり、何かをどうしても手に入れたくなったりしたことが、ほとんどありません」

「卒業は嬉しくなかったか」

「嬉しいです。主席になれたことも」


 証書が傾かないように置いた文箱へ、久那岐の目が落ちた。


「ただ、廊下にいた方たちほどではありませんでした。あんなふうに抱きつきたくなったこともありません」

「嬉しさの表し方は、人によって違うのではないか」

「そうかもしれません」


 しらほは少し考えてから、袖に手を入れた。久那岐は返事を挟まず、薄い本が出てくるのを見ている。


「美味しいものは分かりますし、好ましいと思う方もいます。でも、この本にあるようなことは、まだ一度も」


 膝の文箱に本を重ね、読み返した頁を開いた。昨夜は寝る前に指で押さえていたので、そこだけ開きやすくなっている。勉学の書なら、よく覚えた箇所ということになるのだが。


「顔を見るだけで胸が高鳴ったり、会えないと寂しくて、するはずだったことが手につかなかったりするそうです」

「それを経験したいのか」

「はい」

「不便そうだが」


 久那岐は本へ目を向けたまま言った。しらほも同じ箇所を見下ろす。


「私も、予定は済ませた方がよいと思います。けれど、予定より会いたいと思うのが、どういうことなのか知りたいです」


 文字の上では、何度読んでも同じだった。約束の日まで三日なら三日待てばよいのに、その三日を長く感じる。その長さだけが、しらほには確かめられない。


「ほかの方と親しくしていると、嫌な気持ちにもなるようです。自分との約束を破られたわけでもないのに」

「嫉妬か」

「はい。それから、触れられると嬉しいとも」


 久那岐が顔を上げたので、しらほは開いた頁を指した。


「ここでは手に触れられただけです。転びそうなところを支えてもらったのではありません」

「助けられた礼ではない、ということだな」

「はい。同じことをされても、相手によって違うのだと思います」


 久那岐は頷いた。すぐに分かったとは言わず、本の端としらほの手を順に見てから、背もたれへ身を預ける。


「では、鼓動が速くなれば誰でもよいわけではないのだな」

「それでしたら、実習の持久走でも条件を満たしてしまいます」


 答えてから、本を閉じた。久那岐は笑わなかった。しらほも、運動と契約を取り違えられては困るので、そこは明らかにしておきたかった。


「自分でも、まだ知らないので、うまくお伝えできません。ただ、能力が高いからでも、登録に必要だからでもなく、その方がよいと思って選びたいのです」


 表紙の端が少し浮いていた。しらほは手のひらで押さえ、そのまま続けた。


「主契約は、生涯、魂を結びますから。自分の判断が変わるほど誰かを求めることがあるなら、そのような方と契約したいと思っています」


 久那岐はしばらく何も言わなかった。肘掛けに置いた指を一度曲げ、考えるようにしらほを見ている。条件を下げるよう勧められるかと思ったが、その言葉もなかった。


「つまり俺には、その条件が足りぬのだな」

「はい」


 申し訳ないが、そこは変わらない。しらほは本を袖へ戻そうとした。


「では、そこを満たせばよい」


 本の角が、袖口に引っ掛かった。


「……はい?」


 しらほは袖口から本を抜き、文箱の上に戻した。角が少し曲がっていたので、指で挟んで直す。


「久那岐様が、私の心を動かすということでしょうか」

「そうだ。ほかに不足はないのだろう」

「はい。ただ、それは練習してできるようになるものなのですか」

「できぬと決まっているのか?」


 しらほは指を止めた。

 習ったことはなかった。教本にもなかったが、神獣使いの教本に恋愛の手順が載っていないのは当然だ。それを根拠にできないと答えるのも、少し違う。


「私には分かりません」

「ならば、確かめてみればよい」


 久那岐は肘掛けから手を下ろした。話の進め方が決まったような様子だったが、しらほには、まだ確認していないことがあった。


「久那岐様には、恋愛のご経験がおありなのですか」

「ない」


 考える間もなかった。

 長く生きている方なので、何か心当たりがあって言っているのかと思ったが、そうではないらしい。


「……それで、なぜそれほど自信がおありなのでしょう」


 久那岐は少し視線を上げた。答えを探しているようだったが、椅子に座り直すことも、言ったことを取り消すこともなかった。


「俺は物覚えがよい」


 確かに、霊力の加減は一度伝えただけで保たれている。壁の結界札も静かなままだ。

 しらほはそれを見てから、久那岐に目を戻した。


「術でしたら、私も覚えるのは得意です」

「ならば分かるだろう。初めて扱うものでも、手順を知ればできることは増える」

「手順があるかどうかが、まだ分かりません」


 久那岐の視線が、文箱の上の本へ落ちた。


「それには書かれていないのか」

「出来事は書いてあります。ただ、同じことをすれば同じ結果になるかは」


 しらほは表紙を撫でた。この本の主人公は、相手からもらった花をいつまでも取っておいた。自分なら水を替え、枯れれば片づけると思う。渡す人が久那岐になれば片づけたくなくなるのか、今ここで考えても分からなかった。


「読む者によっても違うのだな」

「はい。好ましいと思うことも、人それぞれですから」

「では、広く覚えるだけでは足りぬか」


 久那岐はそう言って、しらほの方へわずかに身を寄せた。本の題名よりも、その説明の方に用があるらしい。


「おまえをときめかせる方法を学ぼう。俺なら契約してもよいと、納得してもらえるようにな」


 声は、窓のために霊力を抑えたときと変わらなかった。できることをひとつ引き受けるつもりでいるようだ。

 しらほは文箱の蓋に指を揃えた。


「それは……どうやって?」


 久那岐は本を見た。それからしらほを見て、しばらく考えた。


「調べれば分かるだろう」


 具体的な方法は、これからだった。

 けれど、分からないところを分かったふりで進める方ではない。それなら調べた結果、難しいと分かることもあるはずだ。今の段階でやめてもらう必要はなかった。


「私も知らないので、お教えできることは少ないと思います」

「感じたことを教えてくれればよい。試しても何も起きぬなら、それも知っておきたい」

「何も変わらないと、そのまま申し上げることになります」

「今もそうしてくれただろう。その方が分かりやすい」


 しらほは久那岐の顔を見た。断ったときにはしばらく動かなかったが、今、その話を避ける様子はない。

 結果の報告に気を遣わなくてよいのは助かる。霊力の測定でも、よい数値だけを残すわけにはいかない。


「それで、いつまでに相手を決めねばならぬ?」

「今年度の登録に間に合わせるなら、あと三十日ほどです。次年度でも構いませんが」

「三十日か」


 久那岐は指を折るでもなく、その日数を口にした。

 しらほは文箱の中にある書類を思い出した。証書と一緒に、登録の案内も収めてある。期限の欄には、教官が線を引いていた。


「では、その間、俺がおまえの条件を満たせるか試さぬか」

「三十日間、契約候補としてお会いするということですか」

「うむ。今日ひと目見て決めるより、分かることもあるだろう」


 それはそうだった。

 実習で力を借りる神獣も、測定値だけで役割を決めるわけではない。指示を聞く間の取り方や、疲れたときの様子は、共に過ごさなければ分からなかった。


 久那岐についても、知っているのはごく一部だ。契約するかどうかを決めずに会うのであれば、断る理由はない。自分の条件も、口で説明するばかりより確かめやすくなるかもしれなかった。


「ただ、期限までに心が動くとは限りません」

「三十日あれば十分だろう」


 久那岐は穏やかに答えた。

 しらほは頷きかけて、本へ目を落とした。読むだけなら三十日も要らない。けれど、読み終えた今も、分からないところが残っている。


 承知しました、と答える前に、しらほは登録の案内を文箱から取り出した。久那岐にも期限の日付を示し、それから尋ねた。


「調べる期間も、この三十日に含めてお考えですか」

「含めて構わぬ」


 久那岐は、しらほが示した日付を確かめて答えた。調べる時間が余分に必要だとは思っていないらしい。


「ちなみに、何から調べるかはお決まりですか」

「まず、その本を読んでみようかと思っていた」

「恋愛小説をお読みになったことは」

「ないな。人の恋の話を耳にすることはあったが、どう始めたかまでは聞かなかった」


 しらほは文箱の上の本を見た。

 主人公たちは途中で仲を違える。それも参考として覚えられると困るが、先に結末を教えるのは読書の楽しみを減らすだろう。ひとまず、手引書ではないことは伝えてある。


「では、こちらはお貸しします。ただ、私もまだ分かっていないことが多いので、お役に立つかどうかは」

「読んでみなければ分からぬだろう。借りてもよいか」

「はい」


 久那岐は差し出された本を受け取り、表紙の題名を確かめた。そのまま開きかけたので、しらほは登録の案内を卓上に置いた。


「その前に、三十日間のことを決めてもよろしいでしょうか」

「ああ、そうだったな」


 本が丁寧に閉じられた。

 知らないことはかなり多そうだったが、説明すれば聞いてくれる。


 応接用の卓には、筆記具が備えてあった。しらほは案内の余白を確かめてから筆を取った。登録に提出する書類ではないので、裏に書いても差し支えない。


「期間は、正式登録の期限までの三十日間です。その間、久那岐様には、私の心を動かす方法を試していただきます」

「うむ」

「私は、その都度、自分に起きた変化を正直にお伝えします。何も変わらなかった場合も」

「それでよい。分からぬときは、分からぬと言ってくれればよいぞ」


 しらほは筆先を止め、久那岐を見た。


「すぐには答えられないこともあるかもしれません」

「急いで違う答えを出されるよりよいだろう」

「では、考える時間をいただくことがあります」


 余白へ一行足す。霊力の測定ならその場で数値が出るが、今回は測定器を使えない。自分の返事が頼りになるぶん、曖昧なまま済ませない方がよかった。


「それから、三十日後も何も変わらなければ、契約はしません」


 久那岐は書きかけの紙へ目を落とした。しらほは筆を置かずに待った。ここだけは、今のうちにはっきり聞いてもらう必要がある。


「時間を使っていただいても、お応えできるとは限りません」

「それを確かめるための三十日だろう。問題ない」


 返事が早かったので、しらほの方が少し遅れて頷いた。

 久那岐は紙に並んだ文字を読み、最後の項目まで目を通す。断られる条件も、自分がすることと同じように確認していた。


「久那岐様の方も、私では契約相手に向かないと思われたら、おっしゃってください」

「おまえも見られる側になる、ということか」

「はい。実習でご一緒しただけですから、まだご存じないこともあると思います」

「では、そうしよう」


 しらほはその条件も書き足した。一方だけが相手を調べるのではなくなったが、その方が契約候補としては適切だ。


「これは、まだ主契約ではありません。互いを知るために会う期間ということで」

「承知した。今ここで魂を結べと言うつもりはない」


 久那岐は空いている手を膝に置いた。契約の印を結ぶ様子も、霊力を動かす気配もない。

 しらほは書いたものを読み返した。期間、すること、返事の仕方、契約をしない場合。ひとまず必要なことは揃っている。


「それでは、三十日間、久那岐様を契約候補として見させていただきます。よろしくお願いいたします」


 筆を置いて頭を下げると、久那岐も軽く頷いた。


「うむ。まずは、これを今日のうちに読もう」


 本の厚みを指で確かめている。受け取ったときより持ち方がしっかりしていて、暇つぶしに持ち帰る様子ではなかった。

 しらほは、明日の予定は空いていることを伝えた。会う時刻を相談し、条件を書いた紙の隅へ控える。時刻まで決まると、まだ中身の分からない話も予定として扱いやすくなった。


 久那岐はその数字を見届けて、本を袖へ収めた。


「では明日から、そなたをときめかせるとしよう」


 しらほは少し考えた。結果が出るよう努めるとは返せない。心の動かし方が分かっていれば、ここでこうして相談してはいなかった。


「よろしくお願いします」


 実習で力を借りるときと同じ返事になったが、久那岐はそれでよかったらしい。もう一度頷き、明日の時刻を口にした。


 しらほは紙の墨が乾くのを待っていた。さっきから筆を持っていた指先が少し温かいが、窓際の席なので、日の当たる位置が変わったせいかもしれない。

 報告するほどのことか迷い、ひとまず覚えておくことにした。


 文箱へ紙を収める前に、空いたところへ小さく書き足す。明日は会う前にも、脈や手の温度を確かめておこう。比べるものがなければ、変わったかどうかを伝えにくい。


 持ち物の欄には、筆記具を加えた。

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