2-3
荷物を二階へ置いたあと、ノエルはオリバーと村へ出た。
「まずは村を一周しながら、結界を見て回ろうかの」
「はい」
先ほど通った道を戻りながら、今度はオリバーの説明を聞いて歩く。
「村の周囲には、魔獣避けの結界が張ってある。完全に防げるわけではないが、余程のことがなければ魔獣の方から近づいてくることはない」
「結界の範囲はどのくらいですか?」
「村と畑を囲う程度じゃな。森までは含めとらん」
オリバーが杖で遠くを示す。
村の北側には広い森がある。
街道から見えたものと同じ森だろう。
「森の奥には魔獣もおる。薬草や薪を取りに入る村人もおるから、境界付近までは定期的に見ておいた方がいい」
「なるほど」
「もっとも、あまり深くまで行く必要はないぞ」
「何でも自分でやろうとしない、ですね?」
「よしよし」
オリバーが満足そうに頷いた。
この村で魔術師として仕事をするなら、そこはかなり大事なことらしい。
村の端まで来ると、オリバーが足を止めた。
「ここじゃ」
「これが結界ですか?」
「見えるか?」
ノエルが目を凝らすと、空中に、ごく薄い魔力の流れがあった。
地面に刻まれた術式から伸びた魔力が、村を包むように繋がっている。
防衛魔術の基礎として結界自体は馴染みのあるものだが、それにしても随分古い術式だ。
何度も補修を重ねているらしく、よく見ればところどころ術式の構成が異なっている。
「……構成自体は極端に複雑なわけではないようですが、かなり年月が経っているように思います」
「わしが生まれる前からあるものじゃ。百年以上は経っておろうよ」
「長い間、ザーレンの守神を担っている結界なんですね……しかし、流石に強度面は心配がありそうです」
「そこなんじゃよ」
「一度全部新しくした方がいいんでしょうけど」
「できるか?」
オリバーの問いに、ノエルは少し考える。
おそらく、時間をかけて少しずつ結界を作り上げていけば、一人でも「できる」とは言えるだろう。
しかし、それでは意味がない。
周囲を森に囲まれ、魔獣の侵入が危惧されるザーレンでは、一時間……いや、村人たちの心理的な負担を考えれば、十分間だって結界のない状態にはできないだろう。
これがユーリスなら、きっと瞬き一つの間に結界を組み上げてしまう。
でも、それは自分にはできないことだとノエルは理解していた。
「僕一人では難しいでしょうね」
「うむ、そうか」
「申し訳ありません」
「ほっほ」
頭を下げようとすると、オリバーが笑った。
「それでいい」
「え?」
「君は、時間をかければできると思ったのだろう? だが『できます』とは言わなかった。それは、村の者を思ってくれたからじゃな」
見透かすように告げるオリバーは、ノエルの肩を皺と小さな傷跡だらけの手でポンと叩いた。
「簡単に『できる』と言うような魔術師に、村を預けることはできん。ありがとう、ノエル君」
「オリバーさん……」
「すまんの、若いもんを試すような真似をして。これだから後任が来んのだとわかっとるんだがなぁ」
オリバーという魔術師は、ザーレン支部長を長らく務める気の良い老人。
しかし、見誤ってはいけない。
それはつまり、エルディアでも有数の厳しい雪の大地で、魔獣の脅威や厳しい自然から、小さな村を一人の魔術師として守り続けてきた傑物ということだ。
その一瞬の眼差しの鋭さは、歴戦の騎士を思わせるものだった。
地方に生きる魔術師と、宮廷に生きる魔術師。
どちらも魔術という武器をもって、異なる戦場に立っているのだ。
そのことをあらためて心に刻み、ノエルはもう一度結界を見た。
一から構築し直すなら、かなり大掛かりな作業になる。
宮廷魔法局へ申請し、専門の魔術師を派遣してもらう必要があるだろう。
「維持するだけなら、僕でも問題なさそうです。ただ、長い目で見れば一度全面的な張り替えは必要でしょう」
「そうじゃな、いい加減その場しのぎの補修も限度があるわい。例えば……」
言いながら、オリバーは杖の先で結界の一か所を示した。
「あ」
魔力の流れが、ほんの少しだけ乱れている。
ノエルはしゃがみ込み、地面に刻まれた術式を観察する。
どうやら一部が風化により薄くなっているようだ。
「これくらいなら――」
指先へ魔力を集める。
消えかけていた術式をなぞり、欠けた部分を補う。
数秒後。
乱れていた魔力の流れが元に戻った。
「こんな感じですか?」
「うむ、上手いものじゃ。やはり近頃の若い魔術師は基礎がしっかりしとる」
「よかった」
「大規模な修繕については、後任が決まった時にまとめて宮廷へ申請するとしよう」
ノエルは立ち上がった。
「では、次へ行くかの」
「はい」
そこから二人で、村の外周を歩いた。
結界の状態を確認し、畑の位置を教えてもらいながら、冬になると雪で通れなくなる道や、魔獣が出やすい場所を聞く。
途中、何人もの村人に声をかけられた。
「オリバーさん、新しい人にちゃんと教えてるかい?」
「わしを誰だと思っとる」
「適当な爺さん」
「失礼な!」
村の誰もが、軽口の中にオリバーへの信頼を滲ませていた。
村の南側を回り、北側へ向かう。
やがて森が近づいてきた。
「この辺りから少し気をつけるんじゃ」
「魔獣ですか?」
「うむ」
オリバーが森を見る。
「普段なら、小型のものくらいは気配がするんじゃが……」
しばらく黙って、森の奥を見つめる。
「……妙じゃのぉ」
「どうしました?」
「静かすぎる」
ノエルも森へ目を向けた。
木々が風に揺れている。鳥の鳴き声は聞こえるが、それ以外に特別なものは感じない。
「いつもは違うんですか?」
「村まで近づいてくることは少ないが、森の中にはおるからな。魔力の気配くらいは感じるもんじゃ」
「今日はたまたま奥にいるとか?」
「かもしれんが……」
オリバーが首を傾げる。
「こんなに静かな日は珍しいのぉ」
「あ」
ノエルは小さく声を上げ、ふと自分の懐に手を伸ばす。
そこから小さな布袋に入れている銀色の指輪を取り出すと、隣で様子を見ていたオリバーが「おぉ」と感嘆の声を漏らした。
「おそらく……いえ、ほぼ確実にコレのおかげだと思います」
「うぅむ……わしは魔道具には詳しくないが、とてつもない魔力じゃな。いや、待て。防衛魔術が二重……三、五……」
オリバーが黙った。
「……わし、朦朧としとるかの?」
「どうしました?」
「八つくらい重ね掛けされとるように見える」
「やっぱり、そのくらいありますよねぇ」
「……これはもしや、アルヴェイン家の家宝かなにかかね?」
「いえ、他のお宅のです」
「他のお宅……よくわからんが、魔獣の気配がまったくないのは間違いなくこの指輪の力じゃろうな」
深入りをやめたオリバーは、とんでもないものを見たという顔をしながら、もう一度ぐるりと辺りを見回した。
「まあ、静かな分には困らんがの」
「そうですね」
「行くか」
「はい」
ひとまず今は、それで済ませることにした。
◇
村を一周して支部へ戻った頃には、すでに昼を大きく過ぎていた。
「思ったより歩きましたねぇ」
「疲れたかね?」
「少しだけ」
「ほっほ、若いのに情けないのぉ」
笑いながら扉を開ける。
すると。
「ああ、帰ってきたかい」
「む?」
一階には、見知らぬ老婆が座っていた。
ノエルが出る前にはいなかった人物だ。
「おや、ミラ婆さん」
「待たせてもらってたよ」
「どうした?」
「腰がねぇ」
老婆――ミラは顔をしかめながら、自分の腰を擦った。
「朝から痛かったんだけど、昼過ぎから酷くなってきてねぇ」
「またか」
「またとはなんだい」
「毎年寒くなると同じことを言っとるじゃろう」
「痛いもんは痛いんだから仕方ないだろ。年には勝てんわい」
「そりゃそうじゃ」
オリバーは杖を壁へ立てかけると、ミラのそばへ歩み寄った。
「転んだりは?」
「してないよ」
「脚は?」
「いつも通り」
「痺れは?」
「少しあるねぇ。まあ、これもいつものことさ」
「ふむ」
オリバーが頷く。
ノエルは少し離れたところから、二人のやり取りを見ていた。
どうやら、これも支部の仕事らしい。
「ノエル君」
「はい」
「そこにいくらか薬草があるじゃろ」
「これですか?」
「そうそう。茶を淹れてやってくれるか」
「わかりました」
棚を開ける。
何種類もの乾燥させた薬草が並んでいた。
ノエルは一つずつ手に取り、状態を確認していく。
「…………」
保存状態は悪くない。
種類もそれなりに揃っている。
関節の痛み、神経痛、身体の冷え。
それなら。
「これと……これかな」
いくつか選び、香りを確かめる。
効能だけを考えるなら、もっと苦味の強いものを使ってもいい。
けれど、毎日飲むものなら美味しい方がいいだろう。
少し考えて、香りの柔らかな薬草を一種類足した。
その間に、オリバーはミラの腰へ手を当てていた。
「少し温めるぞ」
「ああ、頼むよ」
淡い魔力の光が灯る。
火を扱う自然魔術。
とはいえ、炎を出しているわけではない。
魔力によってゆっくりと熱を与え、冷えて強張った身体を温めているのだ。
「熱くないか?」
「ちょうどいいよ」
「なら、このまま少しな」
「はいはい」
ノエルはそれを横目に見ながら、湯を沸かす。
薬草を適量。
湯の温度も少し低めにする。
香りを飛ばさないよう、蒸らす時間を調整して。
「どうぞ」
湯気の立つカップをミラの前へ置いた。
「おや。いい匂いだねぇ」
「関節や神経の痛みに使われる薬草を混ぜてみました。すぐに痛みがなくなるようなものではありませんけど、身体を温めるものも入っているので、少しは楽になると思います」
「そうかい」
「熱いので、ゆっくり飲んでくださいね」
「ああ、ありがとう」
ミラは両手でカップを持ち、ゆっくりと口をつけた。
一口。
二口。
「……美味しいねぇ」
「よかった」
ノエルが笑う。
「薬草茶なんて、苦いばかりで飲めたもんじゃないと思ってたが……これなら毎日でもいい」
「苦いものもありますが、組み合わせ次第で飲みやすくできますよ」
「はぁ、若いのに大したもんだ」
「いえ、それほどでも」
「なるほどな。どうりでわしの薬草茶は評判が悪いわけだ。効能だけ見て全部突っ込んどったわい」
「それも場合によっては適した方法ですが、基本的に薬草茶は毎日飲むものですからね。美味しい方が結果的には良くなることが多いです」
「それもそうか」
しばらくして、オリバーが手を離した。
「どうじゃ?」
ミラがゆっくりと身体を動かす。
「……ああ」
腰を擦りながら、何度か息を吐いた。
「だいぶ楽になったよ」
「痛みが強くなったり、痺れが酷くなったりしたらすぐ来るんじゃぞ」
「わかってるよ」
そう言ってから、残っていた薬草茶を飲み干す。
「身体も温まったし、お茶も美味しかったよ。ありがとうね、ノエルさん」
「いえ」
名前を覚えてくれていたらしい。
ノエルは少し驚いて、それから笑った。
「少しでも楽になったならよかったです」
「…………」
オリバーがミラを見る。
「なんだい、じろじろ見るんじゃないよ」
「わしは?」
「何が」
「わしも温めてやったじゃろ」
「なにを爺が恩着せがましいこと言いおって」
「ノエル君との扱いの差が酷くないか!?」
「若い男と爺さんなら若い方がいいに決まってるだろ」
「かー! なんちゅう可愛げのない婆じゃ!」
「ぴーぴー騒ぐんじゃないよ爺」
睨み合う。
そして、ほとんど同時に二人とも笑い出した。
「はっはっは!」
「ふふふ!」
ノエルもつられて笑った。
随分長い付き合いなのだろう。
しばらくして、ミラは椅子から立ち上がった。
「じゃあ、帰るよ」
「気をつけてな」
「ああ」
「重いものは持つなよ」
「わかってるって」
「明日も痛むようなら――」
「わかってるよ!」
ミラが杖を振り上げる素振りをしてから、ヒラリと緩く手を振って扉へ向かう。
その途中で、ノエルを振り返った。
「ノエルさん」
「はい?」
「またお茶、淹れておくれ」
「はい。いつでも」
「楽しみにしてるよ」
扉が閉まる。
「…………」
ノエルはしばらく、その扉を見ていた。
「どうした?」
「いえ」
なんだろう。
胸の奥が、少しくすぐったい。
「……嬉しいものですね」
「ん? ……あぁ、そうか。宮廷ではあまりこういったやり取りはせんのか」
「どうでしょう。僕が知らないだけであるのかもしれませんが、少なくとも僕は……」
ノエルは自分でも上手く説明できず、少し考えた。
「自分の魔術を使って、仕事で誰かの役に立てたのって……多分、ほとんど初めてなので」
「ほう? 随分と慣れているように見えたがの」
オリバーが意外そうな顔をする。
確かに、薬草茶を淹れること自体には慣れている。
ただ、それを宮廷魔法使いとしての仕事に使う機会がなかっただけだ。
宮廷でこれまでやってきたことにも、ノエルは少なからず意味はあったと思っている。
騎士団との調整。
各所から届く依頼の整理。
魔道具の確認。
部屋の片づけ。
それから、お茶を淹れること。
それらはきっと誰かの役に立っていた。
わかっている。
けれど、自分が魔術師として持っているものを使って、目の前にいる人が少し楽になって。
その人が笑って。
直接、「ありがとう」と言ってくれる。
そういう経験は、ほとんどなかった。
「……いいなぁ」
ぽつりと口から零れた。
「何がじゃ?」
「人の笑った顔が見える仕事って、いいですね」
「…………」
オリバーはしばらくノエルを見ていた。
それから、目尻を下げる。
「そうじゃな」
「はい」
ノエルは素直に頷いた。




